a 長文 8.1週 nnzi2
 渓流けいりゅうに糸をたれた釣人つりびとのすがたを見ると、変な連想だけれども、ぼくはいつもじぶんの張ったあみでじっと獲物えもののかかるのを待っている蜘蛛くものすがたを思い出してしまう。たんに、獲物えものを待っているすがたが似ている、というのではないのである。釣りつ をしている人間が自然とのあいだにつくりあげようとしている一つの「関係」のようなものが、蜘蛛くもあみをとおしてはえとのあいだにつくりあげようとしている「関係」と、とてもよく似ているとぼくは思うのだ。
 蜘蛛くもはえとはちがったやりかたでまわりの世界を見、知覚し、その世界のなかを動きまわり食べながら、生きている。蜘蛛くもはえは生物としての構造が違うちが だからそれぞれは、それぞれのちがったやりかたで自然の世界を生きている。ちょっと気どって記号論風に言えば、ふたつの生物は異質なコードをとおして、まわりの自然と交流しあっているのだ。だから、もしも蜘蛛くもが空中に張りわたしたあのあみさえなければ、蜘蛛くもはえとはおたがいのあいだになんの関係もつくりあげることのないまま、おなじ空間のなかの違うちが 世界を棲みす わけつづけることもできただろう(なにしろ、ふたつの生物は別種のコードをとおして、おなじ空間を別のもののように知覚しているのだから)。ところが、ここにあみがある。蜘蛛くもが長い生物進化のなかでつむぎだしてくるのに成功したあみがある。このあみが異質なコードのあいだの接続を実現してしまうのだ。はえあみにかかる。この瞬間しゅんかんはえはいやおうなく、別種の生物である蜘蛛くものコードをうけいれざるをえなくなるのである。またそれと同時に、蜘蛛くものほうもはえのコードをうけいれる準備をととのえておかなければならなかったはずだ。もし蜘蛛くもはえの生物学的なコードをまったく無視していたりすれば、蜘蛛くもの張ったあみはいつまでもむなしく風のそよぎばかりをうけとめていなければならないだろうから。
 捕食ほしょくという生物の現象のなかには、いつもこういう「コード横断(transcodage)」がおこっている。つまり、ひとつ
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の生物が別の生物に出会い、異質なコードどうしが接触せっしょくする場所に、生物界のもっとも感動的な瞬間しゅんかんが発生するのである。「自然はひとつの音楽だ」と言われるときの「音楽」は、じつはこの瞬間しゅんかんのことをとらえた言い方なのである。たがいに異質なコードどうしが接触せっしょくしあい、おたがいのあいだに横断がおこったとき、そこにはリズムが、メロディーが発生する。雨が植物の葉っぱをうつ。そこに音楽が生まれる。だがこのとき葉は雨のコードを受け入れてしなり、雨は植物を受けとめて落下の方向を変化させていく。ここでも同じ現象がおこっている。生物が別の生物を待ちうけておたがいのあいだに決定的な接触せっしょくの状態をつくりだそうとするときと、おなじ「コード横断」の現象がおきている。
 釣人つりびと渓流けいりゅう釣糸つりいとをたれているとき、そこにおこっているのも、まったくおなじ「コード横断」の現象だ、とぼくは思うのだ。人間はこのとき釣竿つりざおをとおして水のなかの生物界と関係をつくろうとしている。(中略)
 釣りつ のもっとも感動的で魅力みりょく的な瞬間しゅんかんは、この「コード横断」のおこるカタストロフィの瞬間しゅんかんなのだろう、とぼくは思う。その瞬間しゅんかんに「人間─釣竿つりざお─糸─えさ(針)─魚」という、それをひとまとめにしてみると、まったく奇妙きみょうな混合生物ができあがっている。このとき、人間もふつうの生活のときとは微妙びみょうにちがう生物に変貌へんぼうしている。かれは細心の注意をはらって、からだの動きや感情や知覚をコントロールして、じぶんの生物的コードの一部分を、魚のそれとの接触せっしょくと横断が可能になるような状態に変化させておかなくてはならないからである。釣人つりびとはこのとき魚の生物コードの一部分をじぶんのなかにとりいれている。人間が水中に入りこんで乱暴に魚を手づかみにするときにはこういう微妙びみょうな変化はおこっていない。

中沢なかざわ 新一『みつの流れる博士』)
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