1渓流に糸をたれた釣人のすがたを見ると、変な連想だけれども、ぼくはいつもじぶんの張った網でじっと獲物のかかるのを待っている蜘蛛のすがたを思い出してしまう。たんに、獲物を待っているすがたが似ている、というのではないのである。2釣りをしている人間が自然とのあいだにつくりあげようとしている一つの「関係」のようなものが、蜘蛛が網をとおして蝿とのあいだにつくりあげようとしている「関係」と、とてもよく似ているとぼくは思うのだ。
3蜘蛛は蝿とはちがったやりかたでまわりの世界を見、知覚し、その世界のなかを動きまわり食べながら、生きている。蜘蛛と蝿は生物としての構造が違う。4だからそれぞれは、それぞれのちがったやりかたで自然の世界を生きている。ちょっと気どって記号論風に言えば、ふたつの生物は異質なコードをとおして、まわりの自然と交流しあっているのだ。5だから、もしも蜘蛛が空中に張りわたしたあの網さえなければ、蜘蛛と蝿とはおたがいのあいだになんの関係もつくりあげることのないまま、おなじ空間のなかの違う世界を棲みわけつづけることもできただろう(なにしろ、ふたつの生物は別種のコードをとおして、おなじ空間を別のもののように知覚しているのだから)。6ところが、ここに網がある。蜘蛛が長い生物進化のなかでつむぎだしてくるのに成功した網がある。この網が異質なコードのあいだの接続を実現してしまうのだ。蝿は網にかかる。この瞬間に蝿はいやおうなく、別種の生物である蜘蛛のコードをうけいれざるをえなくなるのである。7またそれと同時に、蜘蛛のほうも蝿のコードをうけいれる準備をととのえておかなければならなかったはずだ。もし蜘蛛が蝿の生物学的なコードをまったく無視していたりすれば、蜘蛛の張った網はいつまでもむなしく風のそよぎばかりをうけとめていなければならないだろうから。
8捕食という生物の現象のなかには、いつもこういう「コード横断(transcodage)」がおこっている。つまり、ひとつ
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