a 長文 11.2週 nnzu
 歴史家の専門の仕事というものは、それを歴史家がどう理解するにせよ、たんに人間だけでなく、この地球上のあらゆる生命に本来的にそなわった限界や欠陥けっかんの一つたる一種の自己中心性を是正ぜせいしようとする一つの試みだといえるのである。歴史家がその専門的な見解に到達とうたつするためには、なによりもまず、みずからも一人の人間として免れるまぬか  ことのできないこの自己中心的な観点から、意識的に、また意図的に、その視角をそらそうとつとめなければならないのである。
 自己中心性の地上の生において果す役割はいわば両面価値的なものである。一方では、自己中心性はあきらかに現世の生の本質をなすものと考えられる。生あるものは、たとえささやかな付随ふずい的なものにせよ、事実この宇宙を構成する一片の分子だと定義することもできるのであって、しかもそれが、部分的にせよ他のものから解放され、さらにこの宇宙の他のものをじぶんの利己的な目的に添わせるそ   ように、あらん限りの努力をはらう一個の自律的な力として独立しているというような一種の「はなれわざ」を演じているものだとも考えられるのである。つまり、それぞれの生あるものはみな競ってみずからを宇宙の中心たらしめんとしているのであり、その際、他のあらゆる生あるものと、またこの宇宙そのものと、さらにこの宇宙を創造し維持いじしている万能の力――このつかの間の現象下にひそむ実在にほかならない万能の力――とも張り合おうとしているのだということになるのである。このような自己中心性は、すべて生あるものの存在に欠くべからざるものであるために、その生活の必要条件の一つとなっているのであるが、もしかりに完全に自己中心性を放棄ほうきするということにでもなれば、(たとえそれが生そのものの消滅しょうめつを意味することにはならないにしても)およそ生あるいかなるものも、まさにこの時、この場所において生をいとなむためのあの媒介ばいかい手段をも、同時に完全に喪失そうしつすることになるであろう。そしてこのような心理的な真実への洞察どうさつが、仏教の知的な出発点となっているのである。
 このように、自己中心性は生の一つの必要条件なのであるが、しかしこの必要条件は、同時にまた一つの罪でもあるのである。つまり自己中心性は、この世に生をうけたいかなるものも実は一つとして宇宙の中心たりえないものだとしてみれば、知的にも一つの誤りであり、またみずからが宇宙の中心ででもあるかのように行動で
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きる権利など、なに一つとしてもつものがないとしてみれば、それは道徳的にも誤りなのである。およそ生あるいかなるものも、おなじ仲間たる造物にしろ、また宇宙にしろ神もしくは実在にしろ、まるでそれらが一個の自己中心的な造物の要求にこたえるためにのみ存在してでもいるかのようにこれをみなしていい権利などすこしももたないはずなのである。このような誤った信念をもち、これにもとづいた行動をすることは、(これをギリシアの心理学の言葉に従えば)倨傲きょごうの罪と呼ばれるもので、この倨傲きょごうとは、(生の悲劇がキリスト教の神話のなかにあらわれているのに従えば)大魔王まおうサタンがみずから奈落ならくるにいたったあの法外な、罪深い、自殺的な驕慢きょうまんにほかならないのである。
 このように自己中心性が生の必要条件であるばかりでなく、同時に因果応報を伴うともな 一つの罪でもあるとしてみると、すべて生あるものは、終生ぬけさることのできない窮境きゅうきょうにおちいっていることになる。生あるものが、その生命を維持いじすることができるのも、ただそれが自己主張のあげくの自殺をも、また自己放棄ほうきからくる安楽死をも、ともにどうにかして避けるさ  ことができる限りにおいてであり、またその間においてのみなのである。この中道は、剃刀かみそりのように狭いせま 道で、そこを通ってゆく旅人は、その道の両側の二つの深淵しんえんへとひかれる力によって、たえず極度の緊張きんちょうを感じつつ、用心深く平均を保ちつづけなければならないのである。
 生あるものにその自己中心性の課している問題は、それゆえ生死の問題となるのであり、それはあらゆる人間がたえずつきまとわれている問題なのである。歴史家のものの見方にしても、この恐るべきおそ   挑戦ちょうせんに応えようとして人間が心に装ういくつかの道具のなかの一つにほかならないのである。
 
 (A・J・トインビー「歴史家の宗教観」)
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