1歴史家の専門の仕事というものは、それを歴史家がどう理解するにせよ、たんに人間だけでなく、この地球上のあらゆる生命に本来的にそなわった限界や欠陥の一つたる一種の自己中心性を是正しようとする一つの試みだといえるのである。2歴史家がその専門的な見解に到達するためには、なによりもまず、みずからも一人の人間として免れることのできないこの自己中心的な観点から、意識的に、また意図的に、その視角をそらそうとつとめなければならないのである。
3自己中心性の地上の生において果す役割はいわば両面価値的なものである。一方では、自己中心性はあきらかに現世の生の本質をなすものと考えられる。4生あるものは、たとえささやかな付随的なものにせよ、事実この宇宙を構成する一片の分子だと定義することもできるのであって、しかもそれが、部分的にせよ他のものから解放され、5さらにこの宇宙の他のものをじぶんの利己的な目的に添わせるように、あらん限りの努力をはらう一個の自律的な力として独立しているというような一種の「はなれわざ」を演じているものだとも考えられるのである。6つまり、それぞれの生あるものはみな競ってみずからを宇宙の中心たらしめんとしているのであり、その際、他のあらゆる生あるものと、またこの宇宙そのものと、さらにこの宇宙を創造し維持している万能の力――このつかの間の現象下にひそむ実在にほかならない万能の力――とも張り合おうとしているのだということになるのである。7このような自己中心性は、すべて生あるものの存在に欠くべからざるものであるために、その生活の必要条件の一つとなっているのであるが、もしかりに完全に自己中心性を放棄するということにでもなれば、8(たとえそれが生そのものの消滅を意味することにはならないにしても)およそ生あるいかなるものも、まさにこの時、この場所において生をいとなむためのあの媒介手段をも、同時に完全に喪失することになるであろう。9そしてこのような心理的な真実への洞察が、仏教の知的な出発点となっているのである。
このように、自己中心性は生の一つの必要条件なのであるが、しかしこの必要条件は、同時にまた一つの罪でもあるのである。0つまり自己中心性は、この世に生をうけたいかなるものも実は一つとして宇宙の中心たりえないものだとしてみれば、知的にも一つの誤りであり、またみずからが宇宙の中心ででもあるかのように行動で
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