a 長文 12.1週 nnzu
 われわれが日常しばしば経験する事実として、次のようなものがある。われわれが本を貸した場合に、借りた人が用ずみの後直ちに自発的に返してこないことが少なくない。それは、どのような意識によって裏づけられているのであろうか。その意識は、次の事実から推測され得るように思われる。すなわち、そのような場合に貸した人が本の返還へんかんを要求するしかたが、はなはだ特色的である。私は何回か外人から本を借りたことがあるが、返還へんかんがおくれると、貸した人(外人)は、きわめて「事務的」に、「先日あなたに貸した何々の本は、もし用ずみなら返してもらいたい」と言ってくる。われわれ日本人――少なくとも、私の知っている範囲はんいの、私と同じくらいの年齢ねんれいの人々――は、こういうふうに言うことに抵抗ていこうを感じ、若干悪びれて口実をもうけ言いわけをして(たとえば、「ぼくの友達であの本を見たいという者があるのだが。……」というふうに)でないと、返してもらいたいとは言えない。あたかも貸主のこのような行動のしかたに対応するかのごとく、借主は、用ずみの後に直ちに返さないことについて何ら罪の意識をもたないのが普通ふつうであり、むしろ、返還へんかんの要求があるまで返さないでもっているのが当たりまえででもあるかのごとくであり、むしろ、返還へんかんの要求をうけても、悪びれることもなく、また言いわけをすることもないのが普通ふつうのようである。私自身、本を貸してそのまま返してもらえないままになっている例は決して少なくない。極端きょくたんな例としては、こんな経験がある。私は学生からる本を貸してくれとたのまれ、快く貸したところ、二年ばかりたっても返してくれないので催促さいそくした。かれはその本の各所にペンや鉛筆えんぴつですじをひいたままで、何の悪びれるところもなく返してきたのである。……私の所有物である本を他人に貸したときは、私の現実支配の事実が終ったことによって、その本に対する私の所有権は弱いものになり、これに対応してその反面で、借主があらたにはじめた現実支配の事実は、私の所有権から独立した一種の正当性をもちはじめ、だんだん所有権に近いものになってくるように思われるのである。
 このような例は無数につづくが、最近までも減ることなく新聞をにぎわしている問題としていわゆる役得という現象がある。役得というのは、る地位についていることによって得られる利益で、
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しかも公式には承認されていないもの、を指すことばである。役得には種々のものがあるが、ここでの問題に関係があるものとしては、他人の財産の管理にあたる者が、その管理財産で私的に飲食ないし宴会えんかいをしたり旅行に行ったりする場合をあげることができる。もちろん、その管理者がその地位にもとづく職務として他人を接待する必要があって、管理財産で飲食ないし宴会えんかいをしたり温泉に行ったりすることは、正当である。しかし、その範囲はんいをこえて私的な目的でそのような行為こういをすることは、民事上は他人の財産に対する侵害しんがいであり、刑事けいじ上は「他人ノ事務ヲ処理スル者自己若クハ第三者ノ利益ヲ図りまたハ本人二損害ヲ加フル目的ヲ以テ任務二背キタル行為こういシ本人ニ財産ノ損害ヲ加エタルトキ」(刑法けいほう二四七条)というのに該当がいとうして背任罪となるのである。会社の重役が会社の費用で、自分の私宅を建築或いはある  修理したり、私宅用の美術品を買入れたり……して、会社の財産状態を悪化させ、取引先ないし債権さいけん者ひいては経済界一般いっぱんに大きな迷惑めいわくをかけた話が、最近の新聞の紙面をにぎわせたが、会社財産の実質上の所有者である株主に迷惑めいわくをかけたという最も重要なことが、新聞では必ずしも大きく取りあげられていないように思われる。(中略)いちばん面白いのは、第二次大戦中、「公物と思う心が既にすで 敵」という標語が郵便局のかべにはってあった、という事実である。民法の所有権の考え方を前提するなら、「公物」――国民個人の所有物でなくて「公け」すなわち政府や府県市町村の所有物――と思うことは、それを国民個人の私的利益のために使ってはならない(他人の所有権を侵害しんがいしてはならない)ということを意味するはずであるのに、この標語は逆に、公物と思うだけで「既にすで 敵」だと言うのである。言うまでもなくその理由は、「公物」だと思うとむだに使う、という傾向けいこうがあるからで、「むだ使いは敵だ」という戦争中の標語を特に「他人の所有物」たる公物について言ったまでのことである。
 (川島武「日本人の法意識」より)
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