普通に日本的性格、従って日本文化の特色として挙げられることは、日本人の同化力に基づいて外来文化を受容し集大成して文化が複質性または重層性を示してゐるといふのである。なるほどそれも一つの特色として挙げられるかも知れない。しかしどこの国の文化をとつて見ても外来文化の影響を受けてゐないところはなく、そしてまた大抵の場合にはそれを同化して独自の文化を発展させそして複質的または重層的文化を形成してゐるのである。また仮にそれが日本文化の特色であるとしてもそれは単に形式的な原理であつて、日本文化の内容そのものを具体的に捉へてゐるものではない。それならば何がいつたい日本的性格であるか。何がいつたい日本文化の内容上の特色であるか。日本的性格又は日本文化にはどういふ諸契機が見られるか。それをはつきり捉へることは甚だ困難なことであるが、一つの試みを提出するのも必ずしも無意義ではなからうと思ふ。大体に於いて日本的性格、従つて日本文化に三つの主要な契機が見られるやうに私は思ふ。自然、意気、諦念の三つである。
その三つは互ひにどういふ関係に立つてゐるか。先づ外面的には自然、意気、諦念の三つは神、儒、仏の三教にほぼ該当してゐると云ふやうにも見ることができる。従つて発生的見地からは神道の自然主義が質料となつて儒教的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたと云ふやうにも考へられる。さうしてそこに神儒仏三教の融合を基礎として国民精神が涵養され日本文化の特色を発揮したと見られるのである。
今、質料とか形相とか云つたが、この二つを内面的関連に於いて見ることが必要である。形相といふものは外部から質料に加へられるといふ様なものではない。質料の中にもともと形相が潜んでゐてそれがおのづから発展し自己創造して行くと共に自己に適合したものを外部から摂取するのである。理想主義のあらはれの意気といふことと、非現実主義のあらはれの諦念といふこととは外来的な文化によつてはじめて新たに付け加へられた性質ではなく、既に神道の自然主義の中に萌芽として含まれてゐたものが次第次第に明瞭にあらはれて来て、それと同時に外来的ではあるが自己に適合した要
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