a 長文 10.1週 nnzu2
 キャラ的なコミュニケーションには、本来はわかりにくいのが当たり前の内面的な人格を視覚化し、わかりやすくしようという社会的要請ようせいもあると言っていい。キャラ化は言うまでもなく人格の視覚化であり、記号化という側面を持つ。わかりにくさを忌み嫌うい きら 現代社会においては、人間の内面さえも単純に記号化しないではいられないのかも知れない。考えてみれば、アニメやマンガのキャラは、制作の過程でなんらかの役割を持たされるため、他のキャラとかぶることはあり得ない。もし、キャラがかぶるようであれば、それは当然、制作途上とじょう排除はいじょされる。もちろんキャラが立たないものは論外だ。
 こうやってみると、若者たちのコミュニケーションの所作は、まさにアニメ・マンガにおけるキャラ作りの状況じょうきょうと極めて近いと言うことができる。そして、まるで制作者というメタ物語的な視点からの監視かんしにおびえるかのように、彼らかれ は自分の立ち位置をいつも気にしながら生きているのである。
 コミュニケーションとは本来、相互そうごの人間関係強化へと向かうはずのものだ。知らない者同士がコミュニケーションを通じて深く関係を構築していくというわけだ。しかし、若者たちのキャラ・コミュニケーションでは既にすで 相互そうごの関係は表層的に成立してしまっている。そして、それ以上の深入りはご法度なのである。
 関係はタテに深まることはなく、その場に浮遊ふゆうしたまま、ヨコヘヨコヘと際限なく広がっていく。一見内面を吐露とろしあっているかに見えるブログのコミュニケーションも、いわば「ネタ」であり、それにお決まりのコメントをつけるという関係が際限なく繰り返さく かえ れるのだ。今の若者たちが、表層的な関係の友だちを信じられないほど多く持っているのは、まさにそういった関係のゆえだ。ここでは、コミュニケーションそのものがキャラになっているとも言えるのである。
 キャラ化はまた、お約束のコミュニケーション手法でもある。あらかじめ決められたキャラを前提に、フリとツッコミを繰り返しく かえ 、笑いを作る。若者たちのコミュニケーションは、基本的にその繰り返しく かえ だ。これは、コミュニケーションを常に想定内に収めるための技術だと言ってもいい。
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 アニメやマンガのキャラが決して決められた以外の振る舞いふ ま をしないように、若者たちのコミュニケーションもまた、自由闊達かったつ素振りそぶ をしながら、お約束の範囲はんいを絶対に出ないように細心の注意が払わはら れてもいるのだ。さらに言えば、笑いはコミュニケーションの広がりを防止する作用を持つ。だれかのツッコミにみんなが笑う。まただれかがツッコみ、みんなが笑う。コミュニケーションはいつもそこで終わり、次には続いていかない。これもコミュニケーションが思わぬ展開になることを防ぐ機能だと言っていい。
 ここでも、若者たちは生身のコミュニケーションのあり方に対して、ある種のおびえを感じているように見える。「お約束」「役割」のないストレートなコミュニケーションや、自分の予想を超えこ た未知なるコミュニケーションの広がりに対する強い拒否きょひ反応があるのではないだろうか。
 そう考えると、若者たちにとってのコミュニケーションとは、そもそも、「アニメやマンガのシナリオ=お約束」の世界の中で行われる儀式ぎしきのようなものなのかも知れない。だからこそ安心して、そこに「居場所」を持っていられるということなのだ。
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