1化粧することや食べることを始めとする、電車の中での人前での行為については、すでにいろいろ論じられている。一つは、若い人々は、他人に対して透明なバリヤのようなものを張り巡らして、自分の空間を遮断しているから、人中での化粧も食事も平気なのだという言い方。2つまり、彼らの前には他人はいるのだが、いないも同然だから見られても平気だというのだ。もう一つは、今の若い人々の間でプライベート空間についての考え方の変化が起こったという言い方。3つまり、自分の部屋が電車の中にそのまま移動したような感覚をもっているから、座席に坐りながら音楽を聞いたり、漫画を見たり、勉強をしたり、化粧をしたり、食事をしたりすることに何の抵抗もないのだそうだ。4彼らの間では、公的空間と私的空間の区別はもはや意味をもたない。二つは溶け合い、境界は不分明になり、自分のいるところはいつでもプライベート空間に変貌する。
5なるほど、目の前には、隣には、他人はいるが、しかし彼らは単にそこに居合わせただけであって、そのことによって自分たちの行為が変わるわけではない。他人に迷惑さえかけなければ、化粧も食事もウォークマンもいいではないか。6自分の坐っている場所は、自分の空間、要するに、プライベート空間なのである。バリヤでもプライベート空間でも、自分たちの周囲には透明な幕が張り巡らされていて、そこには他人は入ることはできない。7だから、そばに他人がいても、その他人が彼らの関心をひくことはない。かくして、実に奇妙な光景が電車の中に現れることになる。
だが、本当にそうだろうか。わたしはむしろ逆の事態が起こっているのではないかと考えている。8そこにあるのは、他人への無関心ではなく、逆に他人視線への強い欲望なのではないか。要するに、他人がいるのにその他人への心が働かないというのではなく、それは今までとは違う、自分を現す一つの方なのではないか。9実は、彼らは自分たちの行為をもっと見てもらいたいではないか。あれらの現象は、誰かに見られたい、人々に注目されたい、みなの中
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