a 長文 10.3週 nnzu2
 「極東の島国日本」などとしばしばいわれるように、日本を孤立こりつした「島国」とする見方は、おそらく現代日本人の圧倒的あっとうてき多数の常識であり、これまでの多くの日本人論、日本文化論もそれを大前提として論じられてきたといってよい。
 そして日本の「島国」であることが強調される場合、そこには対立する二つの文脈があったと思われる。その一つは、とくに敗戦後、日本の国際社会への復帰に当って、それまでの独善的、閉鎖へいさ的な日本人のあり方に対する反省が強く求められたさいなどに強調された文脈で、「島国根性の打破」「島国性の克服こくふく」がこの中で声高に叫ばさけ れたのであり、現在もなお同じ方向でこうした主張が展開されることが多い。
 これに対し、他の一つとして、「島国」であることに日本人、日本文化の独自性、均質性の基盤きばんを求める文脈があり、この見方は海によって周辺の世界から隔てへだ られ、また海に守られることによって他民族による軍事的な侵略しんりゃくをまぬかれ、政治的な支配を受けることなく周辺から技術、文化を吸収、「島国」の中でそれを熟成してきたところに、日本文化の特質を見出そうとする。それは日本が「島国」であることに積極的な意味を求めようとする見方で、現在の日本文化論の中で、こうした立場に立つ見解は多い。
 この二つの見方は、まったく相反する方向から日本をとらえており、前者は「近代化論」につながる志向を持つのに対し、後者は日本文化の独自性を強調し、ときに天皇が長期にわたって日本列島の国家に関わりつづけてきたことを賛美する方向に進む場合も見られる。とはいえ、この両者はともに共通した「日本は島国」という認識の上に立っている。そしてたしかに現在の日本国が島によって構成された国―「島国」であることはまぎれもない事実であり、この点についてはあたかも異論の入る余地のまったくない「常識」であるかの如くごと に見えるのである。
 しかし一歩突き放しつ はな てこの「常識」を見直してみると、それがしばしばきわめて底の浅い、偏っかたよ た見方であることはただちに明白になる。
 そもそも日本国が現在の島々から成り立つようになったのは敗戦後のことで、中国東北、朝鮮半島ちょうせんはんとうを植民地としていた「大日本帝国だいにっぽんていこく」の時代はそうでなかったという自明な事実――それが
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いかに嫌悪けんおすべき状況じょうきょうであったとしても――を想起する必要がある。この「常識」の基礎きそがまことに不安定であることはこれによっても明らかであろう。
 それとともに、この「常識」の中では、「島国」を構成する島は本州・四国・九州を中心とする島々に限定され、北海道・沖縄おきなわがほとんど欠落することになっている場合が多い。そしてそれを意識した議論の場合でも、琉球りゅうきゅう、アイヌの問題は「日本文化」の源流、古層としてとり上げられるにとどまり、日本列島の人間社会の歴史全体の中で、その独自な位置づけを与えあた られることはない、といってよかろう。
 そしてなによりも不思議なことは、「島国論」に基づく日本論が、現在の日本国内の島々の間の海のみを、人と人とを結びつけるものとし、他の海のすべてを、人と人とを隔てるへだ  海としている点である。しかしなみ荒いあら 玄界灘げんかいなだ隔てへだ た九州と対馬の間に人びとの文化の交流が縄文じょうもん時代以来あったとしながら、ドーバー海峡かいきょうほどではないにせよ、狭いせま 対馬と朝鮮半島ちょうせんはんとうとの間の海―朝鮮ちょうせん海峡かいきょうが人と人とを隔離かくりしたなどと考える議論の不自然さは、だれが見ても明らかであろう。また南九州と奄美あまみ沖縄おきなわとの間に文化の交流があったとすれば、宮古、八重山と台湾たいわんとの間に同じことのあったのは当然であり、東北と北海道の間の海が人と人とを結ぶならば、北海道とサハリン、沿海州との間の海が同じ役割をしないはずはないのである。
 「島国論」が成り立つためには、このあまりにも当然な事実が無視されなくてはならないのである。それゆえ、こうした「日本島国論」は根本的に、現在の日本国の国境に規定された俗説ぞくせつ、国家そのものをつくりだした「虚構きょこう」であり、その非歴史性、一面性のゆえに、たやすく政治的なイデオロギーに転化しうる議論、と私は考える。

網野善彦「日本論の視座」より)
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