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 じつは、物理や化学の研究者のあいだでは抄録しょうろく誌の利用率は、一部の化学者を除いて、それほど高くないのである。
 その一つの理由として、研究者にとっては論文は要約だけでは役に立たないことがあげられる。もっとも要約されたかたちの抄録しょうろくは有用であり、必要である。しかし、かれ自身の研究に直接に関連のある研究であれば、抄録しょうろくを読んだだけで用がすむということはあり得ない。本文を読もうと決心した途端とたんに、かれにとっては著者抄録しょうろくは意味を失う。著者抄録しょうろくは著者の目で見た内容抄録しょうろくであり、かれは自分の目でその論文を読むのだからである。論文のなかで、著者はかれの代わりに実験や計算をやってくれている。かれは、著者とともに考えを進め、しばしば著者のやり方に不満をおぼえ、時として著者と反対の結論に到達とうたつする! それは一種の創造の過程と言っていいかもしれない。こういう読者にとっては、要約は単にきっかけを与えあた てくれるにすぎず、その集録である抄録しょうろく誌に目をさらす時間はどちらかというと空しいものと感じられる。
 結果だけを必要とする読者は要約集で用が足りる。その先をめざす読者にとっては、第一線の結果の羅列られつよりも一つ一つの結果が得られた過程のほうが大切なことが多い。本論文を通じて著者とともに創造の過程に参画してはじめて、将来の展望がひらけるからである。
 最良の要約は、あるいは、発展の機縁きえんを生むだけのものを内蔵しているかもしれない。しかし、それを読み解くには、鉛筆えんぴつを片手に本論文のなかの計算を追跡ついせきする以上の努力がいるだろう。

 要約精神の権化は教科書である。高校の物理の教科書は、アルキメデス以来の物理学者がつみ上げてきたものの要約だ。学問は日に日に進むから、要約すべき素材は年々ふえる。教育にあてるべき若年の期間はかぎられているから、教科書の厚さはふやせない。何を捨て、何をえらぶか――二千年の物理学をいかに要約・抄録しょうろくして読者を今日の視点に近づけるか――は教科書の筆者の最大の問題である。
 そういう目で見ると、今日の教科書は、どれをとってみてもかなりよくできている。よくまあこんなにつめこめたと思うくらい
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だ。しかしそれは抄録しょうろくであるがゆえに「つまらない」という宿命をもっている。抄録しょうろくの集積をよみつづけることができるのは、はっきりした目的をもって何かを探し求めている人――ロケット技術者――か、たちまち眼光紙背がんこうしはい徹してっ てその抄録しょうろくの秘めているものを見ぬくことのできるえらい人だけだ。高校生はどちらでもないから、彼らかれ にとって教科書がつまらないのは、石を投げれば下に落ちると同じぐらい自然な話である。私の知っているある大学生の話では、彼女かのじょの高校の物理の時間は、生徒が輪番りんばんに教科書を音読する、P先生が「質問はありませんか」と言う、だまっていると「じゃ、次……」という調子だったそうだ。彼女かのじょが文系に進んだのは当然である。「P先生よ、地獄じごくに落ちろ!」だ。
 教科書が要約集であることは、まあ、仕方がなかろう。しかし、講義までが要約でいいという法はない。教科書の一ページの背後には厖大ぼうだいな研究があり、それらすべては自然そのものとのつき合いから生まれている。その創造の過程を解き明かし――歴史の話をするという意味ではない――生徒をその過程に招待するのが教育というものであろう。そんなことをしたら教科書全部はとてもやれない――そのとおり。教科書あるいは抄録しょうろく集というものは元来そういうふうに使うべきものなのだ。

 (木下是雄『日本語の思考法』より)
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