1スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。2これはとくにテレビの場合に著しい。それは直接の体験ではないばかりではない。いつでもリプレイでき、画像を止めることも、そこに動きの説明を書き込むこともできるからである。3観戦する側は、スタジアムにいるわけではなく、自分の家の室内にいて、ときには別の行為をしながらときどき観るといった経験が可能である。スポーツは日常生活のなかに同化してしまうのであり、スポーツがわれわれを日常性から逸脱させることはない。4われわれはスポーツのみならず、スポーツする身体も消費しているのである。
テレビによる経験は、最初からある距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。5しかしこれはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。6つまりスポーツをメディアが構成する言説として受けとる。これは特異な経験ではない。現代社会での経験は、生の出来事を経験するよりも言説に媒介された経験の方が正常だと言えるからである。7衛星中継の発達によってわれわれの経験する空間はネーションを超えてひろがり、日本にいながら世界のどこかで行われているゲームを観戦することができる。8だがじかに目で観ている場合と、速度、力、全体の雰囲気は違っている。テレビのカメラを通したものであるし、レンズやフレーム、クローズ・アップとロング・ショットというイメージ言説のモードは免れない。
9しかしスタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が記号化できないことに他ならない。0そのときテレビでは決してありえない絶対的瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重拘束)の状態にあ
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