1労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が含まれている。一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。
2自分のためだけの労働もあるのではないか、という反論があるかもしれない。なるほど、ロビンソン・クルーソー的な一人の孤立した個人の自給自足的労働を極限として思い浮かべるならば、どんな他者のためという規定も帯びない生産物やサービス活動を想定することは可能である。3じっさい、私たちの文明生活においても、一人暮しにおける家事活動など、部分的にはこのような自分の身体の維持のみに当てられたとしか考えられない労働が存在しうる。
4しかし、そのようにして維持された自分の身体は、ほとんどの場合、ただその維持のみを目的として終わることはなく、むしろ今度はそれ自身が他の外的な活動のために使用されることになる。5また自分自身を直接に養う労働行為といえども、そこにはそれをなし得る一定の能力と技術が不可欠であり、それらを私たちは、ロビンソン・クルーソー的な孤立に至るまでの生涯のどこかで、「人間一般」に施しうるものとして習い覚えたのである。6自分自身を直接に養う労働行為において、私たちは、「未来の自分」「いまだ自分ではない自分」を再生産するためにそれを行うのであるから、いわば、自分を「他者」であるかのように見なすことによってそれを実行しているのだ。7自分一人のために技巧を凝らした料理を作ってみても、どことなくむなしい感じがつきまとうのはそのゆえである。
8さらに、私たちは、資本主義的な分業と交換と流通の体制、つまり商品経済の体制のなかで生きているという条件を取り払って、たとえば原始人は、閉ざされた自給自足体制をとっていたという「純粋モデル」を思い描きがちである。9だが、いかなる小さな孤立した原始的共同体といえども、その内部においては、ある一人の労働行為は、常に同時にその他の成員一般のためという規定を帯
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