a 長文 11.4週 nnzu2
 マナーの精神をもつ人とは、自制心・克己心こっきしん忍耐にんたい力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛容かんようさや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な企図きとを、気前よく破壊はかいする力を発揮できる必要がある。挨拶あいさつを例に取るなら、人は純粋じゅんすい贈与ぞうよによって、有用性に基づく交換こうかんから離脱りだつすることで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。おじぎをする前のなにものにも依存いぞんすることのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴはかれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。相手に屈服くっぷくしたからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが純粋じゅんすい贈与ぞうよのおじぎである。この瞬間しゅんかん、目的的生から解き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間しゅんかんを生みだす。挨拶あいさつのおじぎと私たちが神や仏の前で祈りいの 捧げるささ  姿勢とが類似しているのは、この両者が供犠くぎとして留保なく自己を差しだすこと、つまり純粋じゅんすい贈与ぞうよだからである。
 私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。それはバルネラブルな状態に自らをさらけだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「私」を、相手は無視したり拒否きょひしたりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。こうして無条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎをするたびに、大きな「かけ」をしているのである。
 自己が有用性に基づく交換こうかんから離脱りだつし、非―知の体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちは畏れおそ 歓喜かんきとを感じることができるのである。それは負い目を動機とする義務化した交換こうかんとしての挨拶あいさつではなく、純粋じゅんすい贈与ぞうよとして
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自己を差しだしたときに生じるのである。マナーの本性は純粋じゅんすい贈与ぞうよであり歓待かんたいなのだ。
 このような自己の境界線が溶解ようかいする非―知の体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、畏怖いふを感じることはない。そのような人は自己を破壊はかいすることなく、あくまで同一的な自己にとどまり、挨拶あいさつはたんなる形式的な社会的交換こうかんになってしまう。マナーがマニュアル化できる身体技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。挨拶あいさつの仕方のみならず、魅力みりょく的な笑い方さえ、マニュアル化して教えることができる。しかし、それではマナーは人間関係を円滑えんかつにするための贈与ぞうよ交換こうかんの身体技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きはしない。そして身体は、自己から切り離さき はな れて、ますます自分にとって道具のようなものになってしまうだろう。これではやがてマナーは贈与ぞうよ交換こうかんでさえなくなる。どこまでも私たちは「空虚くうきょの感」「不満と不安の念」を抱きいだ 続けるしかない。

 (矢野智司贈与ぞうよ交換こうかんの教育学』による。)
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