1マナーの精神をもつ人とは、自制心・克己心・忍耐力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛容さや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な企図を、気前よく破壊する力を発揮できる必要がある。2挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって、有用性に基づく交換の環から離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。3おじぎをする前のなにものにも依存することのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴは挫かれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。4相手に屈服したからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが純粋贈与のおじぎである。この瞬間、目的的生から解き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間を生みだす。5挨拶のおじぎと私たちが神や仏の前で祈りを捧げる姿勢とが類似しているのは、この両者が供犠として留保なく自己を差しだすこと、つまり純粋贈与だからである。
私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。6それはバルネラブルな状態に自らを曝けだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「私」を、相手は無視したり拒否したりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。7もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。8こうして無条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎをするたびに、大きな「賭」をしているのである。
自己が有用性に基づく交換の環から離脱し、非―知の体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちは畏れと歓喜とを感じることができるのである。9それは負い目を動機とする義務化した交換としての挨拶ではなく、純粋贈与として
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