1「ソト」と「ウチ」という観念は、本来は、外部と内部との対としてなんの変哲もないものだが、和辻哲郎あたりがこれに特別な意味づけをあたえて以来、日本文化の特徴をあらわすのには欠かせない観念となってしまった。2たとえば、個人主義的な欧米人にとっては、個人あるいは個室という究極の「ウチ」があり、屋内、近所、町、国などと、次第に「ソト」の度合いが強まっていくだけである。3しかしながら、日本人にあっては、固い核としての個人はなく、「ウチ」と「ソト」とが常に相対的に入れ子状になり、そのつど自分を、「ウチ」となる準拠集団の一員として規定し、その集団の価値観を自分の内部に取りこんでしまうというのである。
4したがって、夫が「ウチのひと」になったり、会社が「ウチの会社」になったりして、内部の恥はみんなで隠蔽したり、外部のことは笑ってすませたりすることにもなってくる。5つまり、「ウチ」はベタベタ、「ソト」は切り捨てとなり、女房の深情けと知的無関心とが同居するようになるのである。
さて、日本語の以心伝心は、まさしくこの「ウチ」において肥大し、情を中心にして蔓延する。6おかげで、家庭的な「ミウチ」は欧米にくらべ、まだまだ情緒的安定を見せており、あの「メシ、フロ、ネル」ですんでもいるが、同心円的に広がっていく「ウチ」のかなりの部分では、他人への臆病なまでの配慮が要求され、時に、強迫的なものにさえなってる。7したがって、たとえ中身は空っぽであっても、ある種のフォーマリティとしての言語が贈答品のように交換され続け、しかるべき人には、時におうじて、恭順の意を表する儀式が欠かせないのである。8ここには、情的なやりとりと、それとは一見、相いれないように思われる形式的な言語との共犯関係ができている。つまり空っぽのフォーマリティであっても、それを発すること自体が情の表明になるわけだ。9こうした「ウチ」への配慮、ムラ社会の体質は、大都会のただ中にある会社や自治体にさえ根づよく残り、世間体や、世間からの無言の圧力が、人々に同調・同化を求め、そこでの対話を切り捨てているとしても、何の不思議もありはしない。
0そんなわけで、対人関係は、この「ミウチ」「ウチ」「ソト」
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