a 長文 12.1週 nnzu2
 「ソト」と「ウチ」という観念は、本来は、外部と内部との対としてなんの変哲へんてつもないものだが、和つじ哲郎てつろうあたりがこれに特別な意味づけをあたえて以来、日本文化の特徴とくちょうをあらわすのには欠かせない観念となってしまった。たとえば、個人主義的な欧米おうべい人にとっては、個人あるいは個室という究極の「ウチ」があり、屋内、近所、町、国などと、次第に「ソト」の度合いが強まっていくだけである。しかしながら、日本人にあっては、固いかくとしての個人はなく、「ウチ」と「ソト」とが常に相対的に入れ子状になり、そのつど自分を、「ウチ」となる準拠じゅんきょ集団の一員として規定し、その集団の価値観を自分の内部に取りこんでしまうというのである。
 したがって、夫が「ウチのひと」になったり、会社が「ウチの会社」になったりして、内部のはじはみんなで隠蔽いんぺいしたり、外部のことは笑ってすませたりすることにもなってくる。つまり、「ウチ」はベタベタ、「ソト」は切り捨てとなり、女房にょうぼうの深情けと知的無関心とが同居するようになるのである。
 さて、日本語の以心伝心は、まさしくこの「ウチ」において肥大し、情を中心にして蔓延まんえんする。おかげで、家庭的な「ミウチ」は欧米おうべいにくらべ、まだまだ情緒じょうちょ的安定を見せており、あの「メシ、フロ、ネル」ですんでもいるが、同心円的に広がっていく「ウチ」のかなりの部分では、他人への臆病おくびょうなまでの配慮はいりょが要求され、時に、強迫きょうはく的なものにさえなってる。したがって、たとえ中身は空っぽであっても、ある種のフォーマリティとしての言語が贈答ぞうとう品のように交換こうかんされ続け、しかるべき人には、時におうじて、恭順きょうじゅんの意を表する儀式ぎしきが欠かせないのである。ここには、情的なやりとりと、それとは一見、相いれないように思われる形式的な言語との共犯関係ができている。つまり空っぽのフォーマリティであっても、それを発すること自体が情の表明になるわけだ。こうした「ウチ」への配慮はいりょ、ムラ社会の体質は、大都会のただ中にある会社や自治体にさえ根づよく残り、世間体や、世間からの無言の圧力が、人々に同調・同化を求め、そこでの対話を切り捨てているとしても、何の不思議もありはしない。
 そんなわけで、対人関係は、この「ミウチ」「ウチ」「ソト」
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の区別によって大きく変わり、「ミウチ」には無遠慮ぶえんりょ、「ウチ」には多少の甘えあま 臆病おくびょうなまでの配慮はいりょ、「ソト」には、完全な無関心が占めるし  ことになる。取引先や社内ではペコペコして、あれほどにも譲りゆず あっていたサラリーマンが、帰りの電車のなかで隣りとな あわせた見ず知らずの人には、これほどにも不躾ぶしつけになれるというのも、その秘密はここにこそあるわけだ。
 ただし、「ソト」のものが大衆や雑踏ざっとうとして出会われる限りでは、完全な無関心でいられるが、その人物が一人の他者としてこちらを見つめ、きっぱりとした態度で話しかけてきた場合には、わが同胞どうほうは、きわめて不安定な状態におかれてしまうにちがいない。「ミウチ」や「ソト」では言葉をかわさず、「ウチ」では儀礼ぎれい的・形式的な言葉しか使わない者にとって、立場をこえた個人対個人の対話などありえるはずもなく、この他者に対し、どのような態度で、どのような言語を使えばいいか、かいもく見当がつきかねるからである。
 つまり、「ソト」を意識しはじめると、私たちはきわめて観念的な恐怖きょうふ好奇こうき心との入りまじった態度をとることになる。できるならばこの他者を排除はいじょし、自分自身はふたたび居心地のよいタコツボに逃避とうひしたいと考えても、おかしくはないだろう。「ソト」と「ウチ」の文化論は、私たちの言語放棄ほうきとタコツボ指向とを際立たせてくれるものにほかならない。
 こうした私たちのタコツボ指向を物語る好例としては、わが国のいたるところに見うけられる仲間言葉があげられよう。政界のなかだけに閉じている政治言語、企業きぎょう社会のなかだけに閉じている業界用語、若者世代のなかだけに閉じている若者言葉などが、さらにそれぞれの下位区分をもち、行政語、官僚かんりょう語、マスコミ語、学生語、コギャル語といったさまざまな集団言語をつくり出しているのである。このような集団言語は、コミュニケーションの範囲はんいを限定することによって、なによりもまず、そこに自分たちのアイデンティティを求めようとする。

加賀野井秀一「日本語の復権」より。一部変更。)
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