a 長文 12.2週 nnzu2
 さいから人は大人と呼ばれるのか、大人とは何か。そういう議論は繰り返しく かえ 起きるようだ。従来なら「成人すれば大人」と考えればよかったのだから話は簡単だが、最近はその基準が曖昧あいまいになってきている。精神科の臨床りんしょうの現場でも、しょうや家庭内暴力といった思春期の病理に基づく問題を三十代、四十代になってから呈するてい  ケースが目に付く。
 いっぽう、十二、三さいでしっかりしたプロ意識を持ったタレントやスポーツ選手もいれば、「高校を出ればおばさん」と言っている少女もいる。早々に「私なんてこんなもの」と自分に見切りをつけてしまう、若者の『早じまい感』を問題視する精神科医もいる。
 一体、だれが大人でだれが若者なのか。その区別はとてもむずかしい。
 先にあげた「思春期の病理を抱えるかか  大人」には、親や周囲との関係の中で激しい自己否定に陥っおちい ているという共通点がある。「私は親に好かれていなかった」「自分なんて生きていても仕方ない」と、彼らかれ はつぶやく。一方、「大人顔負けのプロ意識を持った子供」は、自分の才能や使命をしっかり自覚している。「もうおばさんだ」という十代も、ある意味、「若くなければ自分には価値がない」と自覚しているのかもしれない。
 そう考えると、健全な大人とは「今の自分は何をすべきか」を知っている人たち、ややゆがんだ大人とは「もう何もできない」と知ってしまっている人たち、そして大人とは言えない人たちとは「何ができるか分からない、だれか教えて欲しい」と他人に依存いぞんしている人たち、と定義できるかもしれない。もちろんその場合、年齢ねんれいは関係ない。
 もちろん、子供や若者はまだ自分に何ができるか、分からなくて当たり前だ。何もすべての若者が、幼いころから迷わずに自分の道を進む必要はない。「何ができるだろう」と試行錯誤しこうさくごしたり、ときには「だれか教えて」と周りの大人にすがったり、それは若者に与えあた られた特権であるはずだ。
 ところが今は、その上の世代の大人たちが「自分で自分の人生を自由に決められる時代」の特典をフル活用し過ぎて、いつまでも
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考えたり立ち止まったり、無分別に人生をやり直したりし続けている。それもまたその人の自由なのであるが、彼らかれ が問題なのは、そうやって逡巡しゅんじゅんを続けてうまく行かなくなったときに、「親の愛情不足が原因だ」「指導してくれない先輩せんぱいが悪いのだ」と他者の責任にしようとすることだ。自由な決定をするときには、それと引換えひきか に自分で責任を取る必要があることを、今の大人(年齢ねんれい的な意味での)は忘れてしまっている。「子供っぽい大人」の大軍は、更にさら その下の世代である今の若者、それに続く子供から、試行錯誤しこうさくごや他者への依存いぞんの自由を奪っうば ている。彼らかれ が「迷う自由がないならさっさと自分に見切りをつけて、やれることをやるしかない」と思ってしまうのも、ごく当然だ。
 もちろん、だからといって、今の三十代から五十代の人たちに、「迷うな、早く人生を決定しろ」と強制することはできない。私自身その世代に属する一人として、仕事にしても人生にしても未だに迷っているし、ときには自分の不全感を他人の責任にしたくなることもある。現代という時代が、『迷える子供的大人』を必然的に生んでいるとも考えられる。
 ただ、そうやって迷うのは自由だが、そのしわ寄せが若者に行くことはあってはならない。迷っている大人を待たずに、しっかり自己決定できる若者に重要なポストを与えるあた  といった英断を、企業きぎょうや役所もどんどんすべきだと思う。そうすれば若者達も、早々に諦めるあきら  ことなく、もっと自由に自分の可能性を伸ばしの  て行けるはずなのだ。
(中略)
 そして、下の世代の邪魔じゃまをしない。これが大人の最低条件だ。それをクリアしている人は、世の中の何割だろうか。案外、どの世代にも同じような割合でしかいないような気もする。小学校にも一割の大人、政治の世界にも一割の大人、といった具合だ。もしそうだとしたら、選挙権などの『大人にしか与えあた られていない権利』についてもいつか見直しが必要、といった時代も、冗談じょうだんではなく来るのではないだろうか。

香山リカ「若者の法則」より)
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