a 長文 10.4週 nu
 はじかれたように、ぼくはふすまに手をかけた。一気にひきあけると、廊下ろうかにとびだした。
 でも、やっぱりそこには、だれもいないのだ。それなのに、だれもいない廊下ろうかを、小さな足音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ぼくの体の中に、大きな恐怖きょうふがふくれあがってきた。その恐怖きょうふが、悲鳴になって口からあふれでそうになったとき、表座敷おもてざしきに通じる廊下ろうかの角を曲がって、ひょいと、いとこの昌一しょういち姿すがたをあらわした。
「よお。しげちゃん。」
 もし、昌一しょういちのそういう声をきかなかったら、まちがいなくぼくは叫んさけ でいただろう。だって、中学生の昌一しょういちの頭は坊主ぼうず刈りが で、おまけにその日昌一しょういちは、中学校の制服せいふくの白い開襟かいきんシャツと黒い学生ズボンをはいていたものだから、ぼくにはまるで、さっきの男の子が急に大きくなって、またそこにあらわれたような気がしたのだ。
「よお。」
 立ちすくむぼくに向かってもう一度声をかけながら、昌一しょういちが近づいてきた。いつも無愛想な顔にせいいっぱい愛想のいい、照れたような笑いを浮かべう  ている。
しょう……ちゃん。」
 ぼくは、かすれたような声で、いとこの名を呼んよ だ。
「い……今、だれかと、すれちがわなかった? 小さい……坊主ぼうず頭の男の子と……。」
 昌一しょういちは、ぎょっとしたようにうしろをふりむき、それから、きょろきょろとあたりをみまわし、ちょっとかたをすくめてみせた。
「いいや。だれとも……。なんや? それ。」
 ぼくの全身に、どっと冷たいあせがふきだした。あの子は、この暗い廊下ろうかから、あとかたもなく消えうせてしまったのだ。
 それが、ぼくがぼっこにであった最初だった。
 ぼくは今でも、あの夜のことを思いだす。裏庭うらにわやみの中で降るふ ように花を散らしていたさくらを。長い廊下ろうか天井てんじょうで、頼りたよ なくゆれて
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いた電灯を。ぼくと昌一しょういちの間を埋めう ていた、あのなつかしいおばあちゃんの家のにおいを……。
 でも、そのときにはぼくはまだ、自分が本当にこの家で暮らすく  ことになるなんて思ってもいなかった。いつかまた、ぼっことであう日がくるとは考えもしなかった。
 それなのに、あのぼんやりとした春の夜、ぼくのまわりではもう、新しいなにかがうごきだそうとしていたのだ。


富安とみやす陽子「ぼっこ」)
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