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 いちばん運動会らしいのは、やはり、かけっこ。このごろは五十メートル競走、八十メートル競走と呼ばよ れる。六人が一組になって走る。一着から三着までが、それぞれの旗のところへ並ぶなら 。こういうのは五十年前にわれわれもやったのと同じだからなつかしさもひとしおである。
 来賓らいひん席はテントの中にある。かけっこのコースは反対側になるから、スタートからゴールまでが一望の中におさまる。ピストルがなると、小さな足が目もとまらぬ速さで前後する。目がチクチクする。どういう応援おうえんをしたらよいのかわからないから、手もちぶさたにながめているより手がない。
 そのうちに、おもしろいことに気がついて、急に力を入れて見るようになる。というのは、スタートとゴールで、順位が大きく変わるということだ。
 スタートで出おくれたこどもが、三、四十メートルのところから頭角をあらわし、六、七十メートルではトップに立ち、そのままゴールへ入る。そういう組がいくつもいくつも出てくる。はじめは偶然ぐうぜんかと思っていたが、どうもそうではなさそうである。たいていの組で大なり小なりそういう傾向けいこうがみとめられる。スタートからずっとトップで通すというのは例外である。
 途中とちゅう伸びの てきた子がよい成績せいせきをあげる。もし、スタート地点から十メートルくらいのところで優劣ゆうれつをきめれば、ゴールでトップになる子はおそらくおくれた方に入ってしまうに違いちが ない。早いところで、ゴールの順位を占ううらな ことがいかに危険きけんであるか、これらのかけっこは、これでもか、これでもかと見せていた。こどもたちにはかけっこの教訓を汲みく とることはできまいが、先生たるものは見逃すみのが 手はない。
 かたわらにおられる温厚おんこうな校長先生に
「かけっこだけではなく、勉強にも、これとたことがおこっているのではありませんか」と言ったら、校長先生も深くうなずかれた。
 こどもはどこで力を出すかわからない。スタートの近くで、ああだ、こうだと言ってみてもしかたがない。
 小学校のかけっこはせいぜい百メートル競走である。それでも出
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おくれた子が途中とちゅうからぐんぐん出てくる。ゴールへトップで入った子がいちばん早いのは、百メートルまでのことであるのも忘れわす てはならない。ゴールが二百メートルにのびれば、あるいは、ちがう子が出てきてトップに立つかもしらぬ。さらに四百メートル、千五百メートルならまた別のこどもが出てくる。
 人生は七十年余りあま 走りつづける超大ちょうだいマラソンである。学校教育はそのはじめのうちの二十年くらいにしかかかわらない。そこで、この生徒は優秀ゆうしゅう、とか、劣等れっとうだとかきめつけてしまうのは、百メートル競走なのに、スタートから三十メートルくらいのところの順位でものを言っていることになる。
 その運動会のかけっこを見ていても、本当のレースは半分くらいを走ったところから始まるのがわかる。学校の先生は、この点について、用心の上にも用心をしたい。めいめいのペースというものがある。百メートルではビリでも五千メートルならトップに立つということはある。学校ではいっこうにパッとしなかったのが、世の中へ出て、二十年、三十年すると、目ざましい快走かいそうを見せているという例はいくらでもある。
 目先はいけない。重ねて言うが、教育は長い目を要する。


(外山滋比古しげひこ「空気の教育」)
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