a 長文 10.1週 nu2
 1英語の「コンピュータ」を無理矢理日本語にすると、「電子計算機」ということになるだろう。しかし今どき「コンピュータ」で単純(たんじゅん)な計算だけしている人はあまり居(い)ない。「コンピュータ」とは、計算はもちろんのこと、さまざまな情報(じょうほう)を入れたり出したり保存(ほぞん)したり整理したりするものだ。2フランス語の造語(ぞうご)である「ordinateur(オーディナトゥール)」とは、英語の「orderオーダー」と同じく、「命令、指図する」とか「順序(じゅんじょ)、順番」「整理、整頓(せいとん)」「注文」といったような意味合いになる。3これこそ「コンピュータ」を意味する言葉として最適(さいてき)ではないか。その証拠(しょうこ)にスペインでも英語の「コンピュータ」という単語は使わず、フランスの「オーディナトゥール」に似(に)た綴り(つづ )の「ordenador(オルデナドール)」という単語を使っている。
 4このように、現代(げんだい)の日本でも、英語をそのまま安易(あんい)にカタカナ語にして使用するのではなく、ちゃんと意味が分かるような日本独自(どくじ)の造語(ぞうご)を作ればいいのだ。そして外国語の仕入れ先として、米国だけに頼っ(たよ )てしまっていては駄目(だめ)だ。5世界中の言葉を見回して、単語の意味を吟味(ぎんみ)する。その中で、一番よいと思われる外国語を参考にして日本語の造語(ぞうご)を作るようにしなければならない。
 過去(かこ)に遡れ(さかのぼ )ば、日本でも明治維新(めいじいしん)の頃(ころ)には外国語に対する日本語の造語(ぞうご)が数多く作られていたのだ。
 6政治(せいじ)でも経済(けいざい)でも学問でも、世界から遅れ(おく )をとっていた日本は、国際(こくさい)化に向けてさまざまな努力をした。その一環(いっかん)として、まずは外国語を日本語に変換(へんかん)する作業を始めたのだ。考えに考えて、日本ならではの言葉を作った。7その良い例が「経済(けいざい)」や「経営(けいえい)」などといった単語だ。これらは日本で作られた単語だが、今では漢字の本場である中国に逆(ぎゃく)輸入(ゆにゅう)され、中国でも普通(ふつう)に使われるようになった。僕(ぼく)の専門(せんもん)分野である数学に関する中国での専門(せんもん)用語も、日本人が考えて作ったものが多いのである。
 8こうしてざっと調べるだけでも、明治時代には最先端(さいせんたん)の技術(ぎじゅつ)や
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科学、医学などが輸入(ゆにゅう)されると同時に、それに伴う(ともな )日本語の考案にも尽力(じんりょく)していたということが分かる。それらの言葉は、決して安易(あんい)なカタカナ語のようなものではなかった。9だからこそ、当時日本で作られた言葉の大多数が、今の中国でも使われるほどになったのだ。
 ところがその後、言葉を作る努力を怠り(おこた )、ついには完全に放棄(ほうき)してしまった。僕(ぼく)が思うには、それは戦前の頃(ころ)からだろう。0医学の世界ではドイツ語を使うために、医者は「カルテ」や「メス」などという言葉を使うようになった。それが、医学界だけではなく広く一般(いっぱん)に流通し、やがてカタカナ語として定着してしまったのだ。
 これだけカタカナ語が氾濫(はんらん)している現代(げんだい)だからこそ、明治維新(めいじいしん)の頃(ころ)の日本に戻り(もど )、日本語の大掃除(そうじ)をすれば面白いと思う。今のカタカナ語の半分でも日本語に作り直す。定義(ていぎ)作業に関しては多くの専門(せんもん)家などに意見を聞き、造語(ぞうご)の候補(こうほ)をいくつも出してもらう。その大本として、国語審議(しんぎ)会が大いに働けばよいのである。
 日本人の固有の発想で新しく言葉を作る。これはとても素晴らしい(すば   )ことだと思うのだが、皆さん(みな  )はどう思われるだろうか。

 (ピーター フランクル『美しくて面白い日本語』(宝島社(たからじましゃ))より)
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a 長文 10.2週 nu2
 1そのつもりになって神経(しんけい)を集中、注意すれば、われわれの能力(のうりょく)は大幅(おおはば)にアップする。たとえば、騒音(そうおん)のひどい電車の中で会話をしている二人がいるとする。聞きづらいにしても、なんとか互いに(たが  )言っていることがわかる。2ところがこれをテープレコーダーで録音して聞いてみると、全体が雑音(ざつおん)でぬりつぶされてしまい、なにを言っているのか、まるでわからない。
 3機械は正直に音をとらえているのだが、それではわからない声を話している当人たちは聞きとっている。必要な音だけを選んで、不必要な音をすてて聞きとっていることがわかる。4機械はただ聞いているにすぎないが、人間は注意して、大事な音だけをとらえるからこういう違い(ちが )が出る。同じ人間でも、当人ではなく、そばで立ち聞きしている人には、テープレコーダーほどではないにしても、聞きとれないところがずいぶんあるにちがいない。
 5こどもが重い病気にかかって、その母親がつきっきりで看病(かんびょう)している。連日の寝不足(ねぶそく)で、母親は、ときどきまどろむ。そんなとき、台所でものが落ちて大きな音がしても、母親の目は覚めることはない。6ところが、目の前の病児が、なにか小さな声でうわごとのようなことでも言うと、母親はハッとわれにかえり子供(こども)の顔をのぞく。
 7看病(かんびょう)する母親にとって、台所の物音など問題ではないから、いくら大きな音がしても、目を覚ましたりはしない。それが気にかけているこどもだと、ほんの小さな声でも聞きもらすことがない。8心を向けているところにはたいへん鋭敏(えいびん)な神経(しんけい)がはたらくのである。
 「気をつけ」という号令をかける。これは、注意力を集中させ、力を発揮(はっき)するようにということである。9体操(たいそう)などでは「気をつけ」によって、もっている能力(のうりょく)を高めることができる。ぼんやり、注意散漫(さんまん)にしていては、なにもできない。
 スポーツですばらしい力をだすのは、集中しているからである。0集中が持続できなくて、崩れる(くず  )と、それまででは考えられないようなミスが出たりして、試合ならたちまち負けてしまう。スポーツで勝つには、何としても、始終集中を維持(いじ)する必要があるのであ
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る。スポーツの選手はこのことを経験(けいけん)でよく知っている。集中できないで、強くなったり、試合に勝つことはできない。
 勉強のよくできる生徒が、スポーツでも優秀(ゆうしゅう)な成績(せいせき)をおさめることがあるのは、勉強を通じて体得した集中力をスポーツでも発揮(はっき)するからである。逆に(ぎゃく )また、スポーツで養った集中力を勉強に生かせば短い時間で効率(こうりつ)のよい学習ができる。文武両道(ぶんぶりょうどう)といわれるのは、こうした集中力を頭の活動にも、体の活動にも、うまく使っているケースのことである。
 ところで、この集中力を持続するのはなかなか容易(ようい)なことではない。それが可能(かのう)になるには、訓練が必要である。
 「陸上競技(きょうぎ)の四百メートル走で、全部を短距離(たんきょり)のように疾走(しっそう)することは難しい(むずか  )。それで四百メートルは中距離(ちゅうきょり)ということになっていた。かつてソ連で、これを短距離(たんきょり)なみに、始めから終わりまで全力を出し切って走る方法を考案、実地に試みて成功した。その結果、四百メートルは短距離(たんきょり)なみに走ることができるようになったのである。
 どうして、それが可能(かのう)になったのか。まず四百メートルを百メートルずつ四つに区分し、それぞれを十メートルと九十メートルに分ける。そして十メートルを全力疾走(しっそう)、九十メートルは力を抜い(ぬ )て走る。これを四回くりかえすと、四百メートルになる。それに慣れ(な )たら、二十メートルと八十メートルにして、同じく全力疾走(しっそう)と力を抜い(ぬ )た走り方をする。次は、三十メートルと七十メートル、さらに四十メートルと六十メートルにし、やがて全力疾走(しっそう)九十メートル、流す走り十メートルにし、ついには九十九メートル、百メートルの全力疾走(しっそう)にこぎつける。こうすれば四百メートルすべてが、短距離(たんきょり)と同じような走り方ができるようになる。すこしずつ集中持続をのばしていく方法である。」
 勉強における集中持続も似(に)たような具合にのばすことができる。
 大体、三十分くらいの集中継続(けいぞく)なら、一カ月もすればできるようになるであろう。欲(よく)を言えば、もうすこしのばして一時間くらいに
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長文 10.2週 nu2のつづき
したい。それができるようになればしめたものである。
 集中しているかどうかは、メトロノームのような音を出すものをそばにおいてしらべる。その音が気になるようなら、注意が集中してない証拠(しょうこ)である。没頭(ぼっとう)、夢中(むちゅう)になれば雑音(ざつおん)など気にならなくなる。
 勉強はどれくらい長い時間、机(つくえ)に向かっているかではなく、どれだけ集中しているかによって成果がきまってくる。だらだらした長時間勉強など、そもそも勉強の中に入らない、と言ってもよいくらいである。

(外山滋比古(とやましげひこ)「ちょっとした勉強のコツ」より)
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a 長文 10.3週 nu2
 1中学生の悩み(なや )で、一番多いのは友人についてだという。ぼくなんか、それを聞くと、青春をなつかしんで、うらやましくなってしまう。
 心がすっかり通じあった、なんでも語りあえる友、というのはいいものだ。2だれもいっとき、それを夢みる(ゆめ  )。
 しかし、本当のところは、そんなものはないと思う。
 心が本当に通じあったら、気味が悪い。人間と人間とは、どんなに通じあっているようでも、いくらかはすれ違う(  ちが )。3それが、他人の間の自分というものだ。他人とは、自分と違う(ちが )心を持ち、自分と微妙(びみょう)に心がすれ違う(  ちが )ので、自分にとって意味を持つ。
 4そうしたすれ違い(  ちが )から、人間と人間のドラマが生まれる。そうしたすれ違い(  ちが )から、新しい発想が生まれ、議論(ぎろん)が創造(そうぞう)へと発展(はってん)する。だれひとりとして同じ心を持たない、この人間たちの意味はそこにある。
 5また、なんでも話しあえる、というのも嘘(うそ)だろう。嘘(うそ)でないとしても、そんなになんでも話してしまっては、自分がなくなってしまう。自分だけのために、なにがしかは心の底にとっておくものだ。6それが自分の心の重荷になろうとも、それを支える(ささ  )のが、自分というものである。
 こうしたことを無視(むし)して、友人と考えていては、裏切ら(うらぎ )れて当然だと思う。それに、あんまりベッタリした友人関係は、長持ちしないものだ。
  (中略(ちゅうりゃく))
 7本来は、友人というのは、それぞれに自分の心をとっておきながら、ふれあいのなかでいたわりあうものだろう。それは、完全には重ならず、完全には通じあわぬ、断念(だんねん)の上で成立する。
 8しかし、きみたちにしても、そんなことは、無自覚にしろ、承知(しょうち)の上のことかもしれぬ。自分と他人がそれぞれに確立(かくりつ)したうえでおたがいに関係をとり結ぶこと、そうしたことへの一種のおそれが、友人についての夢(ゆめ)を持たしているのかもしれぬ。
 9それは、ぼくにも多少はおぼえがある。自分が他人と違う(ちが )自分になっていくこと、他人を自分と違う(ちが )人格(じんかく)と意識(いしき)していくこと、そ
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うした過程(かてい)の反動として、自分と一体化した他人として、友という幻影(げんえい)を求める。0それが、青春の一時期であるにしても、そうした幻影(げんえい)を持てればしあわせである。
 ただし、幻影(げんえい)はやはり幻影(げんえい)である。そして、友人が持てないというのは、幻影(げんえい)が持てないというだけのことで、友人ができないと悩む(なや )ほどのこともあるまい。
 そしてやがて、自分とは違っ(ちが )た心を持った他人との、友人関係が作られていくと思う。そのとき、きみはだれでもないきみ自身の心を持ち、そして友人もまた彼(かれ)自身の心を持つことを、たがいに認め(みと )あうだろう。彼(かれ)は、きみと違っ(ちが )ていて、心がすれ違う(  ちが )からこそ、友人となる。
 自分と似(に)た人間を求めて、友人を作るというのを、ぼくはあまりすすめない。たしかに、自分と似(に)ているだけに、つきあいやすい。しかし、あきやすかったり、はなにつきやすいのも、自分と似(に)た相手だ。
 なるべくなら、どんなグループにあっても、そしてそのグループの人間が自分と似(に)ていなくても、そのなかでこそ、友人ができたほうがよい。そこで、自分に似(に)た相手を探し(さが )ても、見つからないだろう。
 自分と性格(せいかく)が違い(ちが )、自分とものの考え方の違う(ちが )相手のほうが、友人としてはおもしろい。違う(ちが )考えをしたり、意見がくい違う(ちが )からこそ、関係をとり結ぶ意味があるのだ。似(に)た相手より、似(に)ない相手を探し(さが )てみたらどうだろう。それなら、友人になれる相手は、いくらでもいる。
 似(に)たもの同士が群れ(む )あうのは、ぼくはむしろつまらなく思う。違和感(いわかん)を持つグループのなかでこそ、友は必要なのだ。
 それは、自分の人格(じんかく)を確立(かくりつ)し他人の人格(じんかく)を認める(みと  )ようになることでもある。自分と違っ(ちが )た心を持った他人の価値(かち)を知ることである。他人の心を大事にできるためには、自分の心を大事にできなければ
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長文 10.3週 nu2のつづき
ならないが、そうしたなかで友は作れる。
 でも、青春、自分が確立(かくりつ)していくなかで、友を求めて悩む(なや )のは自然なことだ。そうした悩み(なや )は、青春にはあってよいと思う。少なくとも、友ができないと断念(だんねん)して、自分の殻(から)にこもったりはしないことだ。求めることなく、殼()にこもったりしていては、その自分が作られることもない。自分というものは、こうした過程(かてい)を通じてだけ作られるもので、自分の殻(から)のなかで自分を作るわけにはいかない。人間というものは、さなぎの中にあって蝶(ちょう)になるものではない。

(森毅(つよし)「まちがったっていいじゃないか」より)
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a 長文 10.4週 nu2
 1音楽に限ら(かぎ )ず文化というものは、共有財産(ざいさん)として皆(みな)が自由に使える形で常に(つね )身の回りにあってこそ発展(はってん)するという面をもつ。2モーツァルトの音楽を聴く(き )と牛の乳(ちち)の出が良くなるとか、良い子が育つというような話が本当かどうかはともかくとして、音楽がコンサートの場だけでなく、様々な社会的局面で人間を育み、文化を涵養(かんよう)してゆく機能(きのう)を果たすことを考えれば、それらが自由に使えるということは重要なことである。3少なくとも、モーツァルトの音楽を使うたびに著作(ちょさく)権(けん)料を取られていたのでは、そのような文化の広がりが望めないばかりか、音楽の創作(そうさく)活動自体も窒息(ちっそく)してしまうだろう。
 4アフリカ諸国(しょこく)などでは、自国の音楽文化が西洋の音楽家にリソースとして勝手に使われることに対抗(たいこう)し、西洋の著作(ちょさく)権(けん)の考え方を導入(どうにゅう)したことがかえって地元の人々の音楽活動を抑制(よくせい)する結果になってしまったりもしたようだ。5それらの地域(ちいき)には、皆(みな)が共通に使えるメロディなどの素材(そざい)を共有財産(ざいさん)としてストックし、使い回すことによって新しい音楽づくりをしてゆく文化があった。西洋の搾取(さくしゅ)をおそれるあまり、彼ら(かれ )の日常(にちじょう)そのものが変質(へんしつ)し、窒息(ちっそく)させられてしまったのである。
 6アフリカだけの問題ではない。西洋の近代文化は、作者個人(こじん)の独創(どくそう)性(せい)をことさら重視(じゅうし)する文化には違い(ちが )ないが、それが「文化」である限り(かぎ )、その独創(どくそう)性(せい)は決して作者一人のものではありえない。7バッハやモーツァルトなど、多くの先達たちの残した「遺産(いさん)」に取り囲まれ、それらを模倣(もほう)したり換骨奪胎(かんこつだったい)したりして摂取(せっしゅ)する一方で、それらと対峙(たいじ)しのりこえることを通して、音楽文化は育まれてきた。
 8「保護(ほご)」して勝手に使わせないようにするだけでは文化は育たない。それらを共有財産(ざいさん)として皆(みな)で分かち合い、余す(あま )ところなく使い回すための公共の場が確保(かくほ)されていることは、文化を生み出す土壌(どじょう)には不可欠(ふかけつ)なのである。9著作(ちょさく)物の保護(ほご)年限(ねんげん)がどんどん延ばさ(の  )
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れてゆく今日の風潮(ふうちょう)の中で、著者(ちょしゃ)の「権利(けんり)」に目を奪わ(うば )れるあまり、文化のそういう側面が忘れ(わす )られてはいまいか。
 0個人(こじん)情報(じょうほう)保護(ほご)もそうだが、文化は社会全体で育ててゆくものだという視点(してん)を失い、個人(こじん)の権利(けんり)だけが暴走(ぼうそう)するのはこわいことだ。著作(ちょさく)権(けん)という考え方自体、決して一枚岩(いちまいいわ)的に成立したわけではなく、芸術(げいじゅつ)の社会的位置や文化産業のあり方の変化の中で、西洋社会が皆(みな)で工夫を加えながら育んできたものだ。西洋社会がこのような考え方をなぜ必要とするにいたったか、それが日本の社会に何をもたらし、何を失わせたのか、そういうことをあらためて認識(にんしき)しなおすことが今求められている。

 (渡辺(わたなべ)裕(ひろし)『考える耳』(春秋社))
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a 長文 11.1週 nu2
 1粗大(そだい)ゴミのゴミ捨て(す )場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい捨て(す )てある。それは環境(かんきょう)を汚染(おせん)するわけです。そんなことならばもうちょっと高くても品質(ひんしつ)のいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども捨て(す )なくていい。2そうすればゴミ捨て(す )場もそれだけよけいな負担(ふたん)を背負わ(せお )ずにすむわけです。けれども、日本人は使っては捨て(す )、使っては捨て(す )という生活に疑問(ぎもん)を持っていません。
 3何年も寸法(すんぽう)ひとつ狂わ(くる )ずに、引き出しも扉(とびら)もピッタリとしている家具への愛着は、毎日の暮らし(く  )、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に耐える(た  )ものをつくった人の腕前(うでまえ)に対する尊敬(そんけい)でもあるわけです。
 4たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブク(あわ)のように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、尊敬(そんけい)されているでしょう。いつまでも本棚(ほんだな)に置いておきたいと思うでしょう。5そこから得たものは、それぞれの人格(じんかく)の中に深くはいりこんで、読者の人間を豊か(ゆた )にしたでしょう。すぐに忘れ去る(わす さ )一過(いっか)性(せい)のよみものとは、違う(ちが )ものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
 6一方で使い捨て(つか す )の安物を買っていると思えば、他方では五万円もするような化粧(けしょう)品のクリームも売れている。その原価(げんか)は五分の一以下と言われているのに、独占(どくせん)によるチェーンストアヘの支配(しはい)が強くて、ほんとうの市場価格(かかく)まで下がりません。7公正取引委員会が外圧(がいあつ)(外部の力)によって、やっと重い腰(こし)を上げ、最近、一、二の小売店で値崩れ(ねくず )を起こしています。私(わたし)たちは幻(まぼろし)に対しておカネを払っ(はら )ていたのです。
 家の中には、誰(だれ)も弾か(ひ )ないピアノやオルガンもあれば、テレビもあります。8ビデオデッキも、CDプレイヤーもあります。地震(じしん)があれば押しつぶさ(お    )れるのはあたりまえだというくらい、いろいろな
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ものが置いてある。ほんとうの安全には手抜き(てぬ )をした家の中に、そして安全を手抜き(てぬ )した町づくりの中に、変なぜいたくがあるのです。こういう豊か(ゆた )さはおかしいのではないかとおもいます。
 9では、ほんとうの豊か(ゆた )さ、なんとなく豊か(ゆた )な気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の酋長(しゅうちょう)が書いた本です。0その中で、こういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ。ひとつに統一(とういつ)された満足感が必要だ。そういう生活が、人間として幸せで豊か(ゆた )な生活なんだと言っている。
 頭だけあるいは手だけを酷使(こくし)して、ほかのところを顧み(かえり )ないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつになって幸せになることが豊か(ゆた )なのだと言っているのです。一部分だけが満足している状態(じょうたい)は、病気だと言っているのです。
 同じことは教育の中にもあります。教育は全人格(じんかく)的発展(はってん)、人間としての成長を促す(うなが )ものですが、現在(げんざい)、日本の教育は偏差(へんさ)値(ち)の点をとる教育になっています。だから人間の子として楽しくないのです。
 また、日本は労働時間が非常(ひじょう)に長い。残業をすれば手当てももらえます。お金だけ、あるいは企業(きぎょう)の中で出世することだけを考えれば、頭と職業(しょくぎょう)に必要な手、目だけを働かせて「職業(しょくぎょう)バカ」になることもできる。それが日本では大変いいことだと考えられている。あの人は会社のために妻(つま)も子も忘れ(わす )、一身を捧げ(ささ )て、ただただ会社のために尽くし(つ  )てきた。企業(きぎょう)にとってはいい社員であるのですが、そういうのは豊か(ゆた )ではないと『パパラギ』は言っている。
 つまり、会社人間はある専門(せんもん)的なことについてはベテランになっ
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長文 11.1週 nu2のつづき
ていくし、お金も儲ける(もう  )かもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一冊(さつ)も読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、地域(ちいき)社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく豊か(ゆた )ではありません。それは人間としての生活ではないからです。

(暉峻淑子(てるおかいつこ)「ほんとうの豊か(ゆた )さとは」より)
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a 長文 11.2週 nu2
 1杉(すぎ)の木は樹幹(じゅかん)がまっすぐで、気持ちがいい。見ているだけで、私(わたし)の心はいつもすがすがしくなる。枝打ち(えだう )や間伐(かんばつ)など、手入れをする人の労苦も尊い(とうと )。
 黒々とした大地に深く根を張り(は )、大空高くへと曲がりもくねりもせずに伸び(の )ている幹(みき)。2たてに筋(すじ)の入った褐色(かっしょく)の肌(はだ)に目を当てると、自然に上へ上へとひきあげられていく。もっこりと茂る(しげ )緑は、松や落葉松(からまつ)よりずっと厚(あつ)味があって目を包んで休ませてくれ、さらにはるかに高い梢(こずえ)は、さわやかな風を呼ん(よ )でいる。3年若い(わか )杉(すぎ)の木の梢(こずえ)は、先のとがった円錐(えんすい)形だが、風雪に耐え(た )て何百年も生きてきた老大木の梢(こずえ)はもうとがってはおらず、樹冠(じゅかん)がおだやかにまあるくなっている。それは威厳(いげん)のある古老がふと洩らす(も  )微笑(びしょう)のようだ。
 4樹幹(じゅかん)の肌(はだ)の色がいい。幅広く(はばひろ )たてにすうっとはがすことのできる樹皮(じゅひ)は、引っ張っ(ひ ぱ )てみると実に強くて丈夫(じょうぶ)だから、古来、屋根を葺(ふ)いたり、垣根(かきね)に張っ(は )たりした。鋭い(するど )樹脂(じゅし)の香り(かお )も、胸(むね)の底まで清めてくれるような感じがする。5檜(ひのき)ほどの香気(こうき)ではないけれども、杉(すぎ)の香り(かお )は庶民(しょみん)的でいい。
 ちょうどドイツ人や北欧(ほくおう)の人びとにとって、樅(もみ)の木が宗教(しゅうきょう)的なほどに大切で親しいものであるように、私(わたし)たち日本人の生活に杉(すぎ)の木は切っても切れぬ縁(えん)がある。6何よりも木の形が美しい。木材としての利用価値(かち)が高い。日本各地でよく育つ。日本の樹木(じゅもく)のなかでいちばん背(せ)が高くなり、ものによっては五十メートルにもなるし、いちばん長生きする木でもある。7鹿児島(かごしま)県屋久島(やくしま)の「屋久(やく)杉(すぎ)」には、樹齢(じゅれい)二千〜六千年と推定(すいてい)されるものが何本もある。だから京都をはじめ全国の神社やお寺の境内(けいだい)には、必ずといっていいほどめでたい杉(すぎ)の木が大事に植えられている。
 8わが国はどこに行っても杉(すぎ)の木がある。かつては生えていなか
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った北海道の札幌(さっぽろ)あたりにも杉林(すぎばやし)がある。日本の造林(ぞうりん)面積の半分近くは杉(すぎ)の木だそうで、檜(ひのき)や松や落葉松(からまつ)などよりも、はるかに多い。9丸太のままでも板にしても、建材・土木材として、あるいは酒樽(さかだる)や経木(きょうぎ)や割り箸(わ ばし)などの生活用材としても何しろ利用範囲(はんい)が広い。単位面積当たりの生産量が非常(ひじょう)に大きく、育てるのもかなりやさしい。日本のように温帯で降水(こうすい)量の多いところが最適(さいてき)地なのだ。杉(すぎ)は、日本の、日本らしい木である。
 0ただ、戦後のわが国では、何よりも経済(けいざい)効率(こうりつ)を考えなくてはならなくなって、木ではないと言われたブナ(ブナは漢字で木へんに無と書く)の木を、ブナ退治(たいじ)と称し(しょう )て片端(かたはし)から切り倒し(き たお )て、全国に杉(すぎ)の木を植えた。森はいま杉(すぎ)花粉でその仕返しをしているらしい。
 かつて杉(すぎ)は日本に固有の、日本にしかない木だと言われた。たしかに中国にいま植わっている杉(すぎ)は日本から苗(なえ)や実を持っていって植えたものが多い。しかし四川省などには、葉の形などが少しちがう杉(すぎ)の一種が自生しているという。いずれにしても、針葉(しんよう)がまるで小さな鎌(かま)のような形をしていて、枝(えだ)と葉のつながりぐあいがはっきりしていない日本杉(すぎ)は、問題なく日本固有であるらしい。
 江戸(えど)時代にケンペルがドイツへ、シーボルトがオランダへ、杉(すぎ)を持っていったけれども、年間平均(へいきん)気温が低いうえ、降水(こうすい)量が日本の半分から三分の一しかないヨーロッパでは、ついに育たなかった。だから銀杏(いちょう)は移植(いしょく)できたヨーロッパに杉(すぎ)の木はない。代わりに寒さや乾燥(かんそう)に強い樅(もみ)やトウヒがよく育っている。ただし日本の杉(すぎ)は五十年で成木になるが、ドイツの樅(もみ)は百五十年かかる。彼ら(かれ )が歴史を長いスパンで考えるのは、そういった自然条件(じょうけん)のせいだろう。日本各地の美しい杉林(すぎばやし)は、秋田、吉野(よしの)、高知、立山、天竜(てんりゅう)、久万(くま)など林業者の労苦の結実だが、日光その他の古い並木道(なみきみち)も忘れ(わす )がたい。各地の山々の尾根(おね)筋(すじ)には松が多いが、山の下の水気の多いところには杉(すぎ)がよく育つ。
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長文 11.2週 nu2のつづき

 私(わたし)の瞼(まぶた)のうらにいつも浮かぶ(う  )のは、長野市の西方、戸隠山(とがくしやま)の怪奇(かいき)な岩壁(かべ)の真下、戸隠(とがくし)奥社(おくしゃ)への参道の老杉並(すぎなみ)木だ。文字通り天をつかんばかりの堂々たる一本一本が何か神々しくもおごそかなたたずまいである。それでいて、その肌(はだ)に手を当てると、真冬でもなんとなくあたたかい。あの参道の巨木(きょぼく)のほとんどすべてに、若い(わか )日の私(わたし)は手を当てて歩いた。近くまた行こうと思う。

(小塩節「木々を渡る(わた )風」より)
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a 長文 11.3週 nu2
 1わたしのところに、父親のすすめる学校に行くのはいやだから家出したいとか、高校の娘(むすめ)が化粧(けしょう)のことで注意したら、ろくに口もきかなくなったというような手紙がきている。こんな状態(じょうたい)を、世では親子の断絶(だんぜつ)というのだろう。
 2なぜ、このような断絶(だんぜつ)がくるのか。断絶(だんぜつ)などという言葉をつかうと、事は深刻(しんこく)に見えてくる。だが、ありきたりの言葉でいえばお互い( たが )の「わがまま」なのだ。わたしは以上の話をきいて要するに「わがまま」な話だと思った。
 3「わがまま」というのは、身近なものの間にほど現れる(あらわ  )現象(げんしょう)である。他人同士だと、相手の話をよく聞こうとする姿勢(しせい)があり、相手の身になって、相手を傷つけ(きず  )ないようにと心を配るが、親子や、兄弟、夫婦(ふうふ)などには、つい「わがまま」が出てしまう。
 4「わがまま」とは、何か。我(われ)のまま、我(われ)の思うままにふるまうこと、つまり、自己(じこ)中心的にふるまうことだ。この世のいざこざは、この自己(じこ)中心が原因(げんいん)なのだ。
 5「受容(じゅよう)」という言葉がある。受け入れるという意味だが、断絶(だんぜつ)、わがままは、相手を受け入れない姿勢(しせい)なのだ。
 親子にしろ、夫婦(ふうふ)にしろ、毎日生活して、同じ家に、同じ食べ物を食べて生きていると、つい相手を自分と同一の人間であるかのように錯覚(さっかく)してしまう。特に親は子どもを、自分の血肉(けつにく)をわけた者として、文字通り自分の分身だと思いこんでいる。
 6何の問題もない時は、自分に顔が似(に)ていたり、同じ食べ物が好きだったり、似(に)た性格(せいかく)だったりする相手は、たしかに分身に思われ、一体感を感じさせる好ましい存在(そんざい)なのだ。
 7だから、一朝、恋愛(れんあい)問題や進学問題など、どうしてもはっきりとした態度(たいど)を取らねばならぬ事態(じたい)に直面し、意見が異なる(こと  )と、たちまち、お互い( たが )の態度(たいど)は硬化(こうか)する。受容(じゅよう)の精神(せいしん)が欠けているのだ。だから、相手を絶対(ぜったい)に受け入れない。8「あんな女のどこがいい」
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「断じて(だん  )、この学校にはいる」「こんな話のわからぬ親はごめんだ」「親のいうことをきかぬわがまま者」とお互い( たが )にゆずらぬことになる。
 9わたしたち人間には、教養、性格(せいかく)にかかわりなく、自分と同じ考え、同じ思想になれないものはイカンという、ぬきがたい感情(かんじょう)がある。相手が自分と同じ考え方をしないと憎む(にく )、というこの感情(かんじょう)は親子の場合も同じであろう。
 0これは、なぜか。一人一人は、顔のちがうようにまったくちがった人格(じんかく)の持ち主だというこの簡単(かんたん)な事実を認め(みと )ないからである。相手は自分ではないという自明のことがわかっていないからである。
 さらにいえば、相手から見れば、自分もまたちがった人間であるということ、その自分を認め(みと )てほしいように、相手も認め(みと )てほしいのだということがわからないということなのだ。つまり、この世の一人一人はみんなちがった思想や考えを持って生きていることを、認め(みと )たくないということなのだ。
 というのは、みんな自分と同じ顔でないのはけしからん、といっているわからずやのようなものなのである。
 では、なぜ、相手が自分と同じ考えの人間でなければならないのか。なぜ、わたしたちは、他の人を認め(みと )ないのか。よく考えてみよう。それは、自分は絶対(ぜったい)正しい人間だ、自分は最もよい人間だという考えを、無意識(むいしき)のうちに心の奥深く(おくふか )に根強く持っているからだ。そんなに、わたしたちは「正しい」だろうか、「よい人間」だろうか。否(いな)である。
 が、この世の憲法(けんぽう)は自分なのだ。カンニングした時に、隣(となり)の友だちがカンニングしないとそれは、いやな奴(やつ)なのだ。
 わたしたちにとって、話のわかる人間というのは、自分と同じ考えを持つ人間、自分のいうことを聞く人間なのだ。この世のすべての人が、自分と同じ考えになったら、どんなことになるか。
 それは頭を冷やして考えてみたら、すぐわかることだ。「それほど自分は正しいのか」、自分という人間をよく胸(むね)に手を当てて考え
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長文 11.3週 nu2のつづき
てみたら、わたしたちは、親子でも、きょうだいでも、夫婦(ふうふ)でも、友人でも、自分の考えを相手に押しつけ(お   )たり、激しく(はげ  )拒否(きょひ)したりすることはなくなるはずなのだ。
 この自分の存在(そんざい)が認め(みと )られたいのなら、他の存在(そんざい)をも認め(みと )受容(じゅよう)して生きていかねばならない。車でも、相手を認め(みと )ずに突進(とっしん)したらどうなるか、大ケガや死を招く(まね )だけである。

(三浦(みうら)綾子(あやこ)「あさっての風」より)
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a 長文 11.4週 nu2
 1「意地」という日本語は、広い意味ではこころをさすが、こころのなかでも、自分の思ったことをやり通そうとする気持ちをあらわしているようである。したがって、意地は意志(いし)といってもよかろう。
 2ところが、そのような意志(いし)を、どういうわけか日本人はあまりこころよく思っていなかったようである。その証拠(しょうこ)に、意地という言葉はけっしていい意味に使われていない。3「意地が悪い」とはいうが、「意地がいい」とはいわないし、「意地がきたない」とはいっても、「意地がきれい」とは使わない。「意地になる」というのは、わざと人にさからうことだし、「意地を張る(は )」ような人間はけっして好まれない。4こう見てくると、日本人は意地を持てあましているとさえいえそうである。それはなぜなのであろうか。
(中略(ちゅうりゃく))
 では、「意地」と「意志(いし)」とはどのようにちがうのか。5「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑(こうじえん)』)という意味においては、たしかに「意地」は「意志(いし)」と同義(どうぎ)のように思えるが、たとえば「男の意地」「女の意地」「武士(ぶし)の意地」などというときの意地は、けっして意志(いし)と同じではない。6こころみに「男の意地が立たない」といった表現(ひょうげん)を「男の意志(いし)が立たない」といいかえてみれば、それがよくわかる。「意志(いし)が立たない」などという言葉はあまりきいたことがないが、あえてそれを解釈(かいしゃく)すれば、「こころざしが立たぬ」、つまり、だらしがないということになるのだろう。7「男の意地が立たぬ」というのを、「オレはそんなだらしない男ではない」の意と解する(かい  )こともできようが、「意地が立たぬ」は、もっとべつのニュアンスを持っているように思われる。8だから、これは外国語には絶対(ぜったい)に翻訳(ほんやく)できない日本的な感情(かんじょう)の表現(ひょうげん)というしかない。
 では、そのような「意地」とは何なのか。それにはやはり、「意志(いし)」と比較(ひかく)して考えてみるのがいちばんである。
 9まず第一に気付くのは、「個人(こじん)の意志(いし)」とはいうけれども、「個人(こじん)の意地」とはいわないということだ。また、「男の意地」とは
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いうが、それを「男の意志(いし)」とするとおかしなことになる。0ここから、「意志(いし)」というものが、あくまで個人(こじん)のものであるのに対して――むろん、みんなの意志(いし)ということもあるが、その場合でもそれは個人(こじん)の意志(いし)の集まりであって、意志(いし)の原点はあくまで個人(こじん)にある――「意地」とは集団(しゅうだん)に共通したある種の表象、個人(こじん)の意志(いし)から独立(どくりつ)したいわば「公認(こうにん)された意志(いし)」であることに気付く。つまり、「男の意地」というのは、男ならばとうぜん持たねばならぬ気構え(きがま )のことであり、それはけっして個人(こじん)的なものではなく、あくまで社会、あるいは特定の集団(しゅうだん)に課せられているある種の規範(きはん)なのである。
 だとすれば、「意志(いし)」と「意地」のちがいは、意志(いし)は個人(こじん)的なものであるが、意地は社会的・集団(しゅうだん)的なものである。だからこそ、「男の意地」「女の意地」「武士(ぶし)の意地」「ヤクザの意地」「若者(わかもの)の意地」というふうに、意地はすべて集団(しゅうだん)に帰属(きぞく)するのだ。その「意地」を「意志(いし)」という言葉におきかえると、まったく意味をなさないのは、意志(いし)はあくまで個人(こじん)個人(こじん)のものだからにほかならない。
 (中略(ちゅうりゃく))
 共通のイメージに自分を合わせる、らしくあろうとする――いずれにしても、それは骨(ほね)の折れることにちがいない。だから「意地を通す」ことは窮屈(きゅうくつ)になる。『草枕(くさまくら)』の主人公は、そのように自分の「意志(いし)」からではなく、世間的な共通のイメージに合わせて「意地」を張る(は )のがホトホトいやになって、「非人情(ひにんじょう)」の天地を求め、山の中へ入って行った。彼(かれ)は「意地」を通すかわりに、自分の「意志(いし)」をつらぬいたのである。

 (森本哲郎(てつろう)『日本語 表と裏(うら)』(新潮(しんちょう)文庫)より)
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a 長文 12.1週 nu2
 1馬耳東風、ということばがある。
 他人のことばや意見などを心に留め(と )ないできき流すことを言う。馬の耳に念仏(ねんぶつ)。こういう人間には何を言ってもしかたがない。われわれはたいていのことをきき流しにしている。2大事なことでも、左の耳から入ったらそのまま右の耳から出て行ってしまう。とくに馬耳東風をきめこんでいるのではなくても、耳は馬の耳である。そして、馬はそのことをご承知(しょうち)ないから、のんきなものだ。
 3学会などの研究発表では、たいていあとに質問(しつもん)の時間がある。かつては、ほとんど質問(しつもん)する人はなかった。外国人の講師(こうし)だと、不思議がる。どうして、日本人は質問(しつもん)をしないのだろう。4全部賛成(さんせい)なのか。それともすべてを無視(むし)しているのか、わからない。手ごたえがなくて不気味だ、と言う。馬の耳では質問(しつもん)したくてもできないのだということを彼等(かれら)は了解(りょうかい)しない。5われわれ自身もわかっていない。
 先日、あるところで、日本人の耳は悪いという話をしたら、あとでそんなことがあるものか、と反論(はんろん)された。病気にも自覚症状(しょうじょう)があるうちは軽いが、本当に重症(じゅうしょう)になると自分の悪いことがわからなくなってしまうことがある。
 6「馬耳症(しょう)」という病気も、自覚症状(しょうじょう)がないところを見ると、膏盲(こうこう)に入(い)ったと考えなくてはなるまい。集団(しゅうだん)的にかかっている慢性(まんせい)病で、ひょっとすると、死ななくては治らないかもしれない。
 7それでも、このごろの講演(こうえん)ではあとに質問(しつもん)する人がふえた。やっと日本も外国なみになってきたかと喜んでいる人があるが、それはすこし早合点ではなかろうか。
 8その質問(しつもん)というのが、実に愚(ぐ)にもつかぬささいなことばのあげ足とりであることが多い。講師(こうし)がちょっとはさんだことばをとりあげて、その使い方に異論(いろん)をさしはさむ。9講師(こうし)がそれに答えるのだが、お互い( たが )の頭にある考えがまるで違っ(ちが )ており、自分の考えだけが正しいと思っているから、質疑(しつぎ)応答(おうとう)をくりかえしていると、ますま
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すこんがらがってしまう。0すると、別の質問(しつもん)者が立ち上って、第一の質問(しつもん)者の言ったことの尻尾(しっぽ)をつかまえて問題にする。それがまた第三の質問(しつもん)者を誘発(ゆうはつ)する。
 もとの話を全体として把握(はあく)していないから、どんどん枝葉(えだは)末節へ話が散ってしまう。もう何の話をしているのかわからない。それでもあとで司会者は、活発な質疑(しつぎ)がおこなわれて、と言う。冗談(じょうだん)ではない。馬の耳にはまとまったことを理解(りかい)することができない。わかるのはせいぜいニンジンの葉っぱくらいである。(中略)
 相手の言うことをじっくりよくきくという訓練ができていない。都合のいいところだけをこまぎれにきいて、それをつなぎあわせて相手が言ったことにしてしまう。ことに立場の違う(ちが )人間同士のときにはこの傾向(けいこう)がつよい。ときとしては、意識(いしき)的に馬耳東風をきめこむ。
 ひところ、対話をしよう、討論(とうろん)をしよう、と言われたことがある。集まってカンカンガクガクの論(ろん)をかわす。いかにも活発な意見の交換(こうかん)があったようだが、要するに、自分の言いたいことを勝手に言い合うだけである。
 相手の言い分など、はじめから問題にしていない。だから話し合えば合うほど、感情(かんじょう)的になって、まとまる話もこわれてしまう。そのせいだろうか。このごろは、かつてのように対話や討論(とうろん)が必要だとは言われなくなった。
 ときに「きき上手」といわれる人もないではないが、これは耳がよくて、他人の意見をよく理解(りかい)するということではないようだ。うまく受け答えして、相手に十分話させることの意味である。
 意見が対立するとき、相手の言い分を誤り(あやま )なく理解(りかい)するという意味での「きき上手」というのには、ことばすらない。ことだまのさきおう国が、どうしてこういうことになったのか。

(外山滋比古(とやましげひこ)「ことばの作法」より)
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a 長文 12.2週 nu2
 1電車のなかや教室などで、手もあてずに平気で大きなあくびをする人がふえている。電車のなかの携帯(けいたい)電話、お化粧(けしょう)、爪(つめ)切り、飛行機のなかのマニキュアなど。
 2「夜中にアパートであついシャワーをあびる」「深夜も好きな音楽をたのしむ」など。
 これは本人しかいない内的世界ではそれもいいが、音がまわりにもれてくることも考えなくてはならない。3ウォークマンの音もれ以外にも似(に)た現象(げんしょう)はいろいろある。
 「サークルのなかで、親しいふたりが、いつもふたりだけで、とくべつ仲よくすることのどこがわるいか」という者もいる。4まわりの人はひがんでいるのだ、と思ってすませるつもりであろうか。
 狭い(せま )エレベーターのなかで、それまでの会話を声高につづける人もいる。
 5たばこの投げすて、ガムの投げすては駅員さんがいちいちひろっている。
 寿司(すし)屋の職人(しょくにん)が、あいまにたばこを吸い(す )ながらすしをにぎっており、床屋(とこや)のおじさんは、剃刀(かみそり)を片手(かたて)にテレビを見ている。
 6いつかタクシーのなかの株式(かぶしき)情報(じょうほう)が耳ざわりだったので、「ラジオを小さくしてくれませんか」と言ったら「なんでや?」と聞き返してきた、運転手がいた。
 7謝恩(しゃおん)卒業パーティーなどで、先生方などまったく無視(むし)して、ごちそうの前にはりついている盛装(せいそう)の学生も少なくない。
 これらは、自分のしたいことを好きなときにして、人には「迷惑(めいわく)はかけていないつもり」のしぐさの例である。
 8人に迷惑(めいわく)をかけてはいない、というのはまだ「消極的な生き方」であり、だれかを積極的に思いやるとかだれかにまなざしを投げかける、というのとはちがう。だれかにまなざしを投げかけるとは、やさしさを相手にふりむけることであり、これはより「積極的な生き方」なのである。9これらすべての例において、多くのひと、とくに独身(どくしん)貴族(きぞく)といわれる人びとは、だれか特定の相手に直接(ちょくせつ)には「迷惑(めいわく)をかけていない」つもりでいるのであろう。
 0しかし、およそ、ひとに迷惑(めいわく)をかけてはいないつもりだ、ということは、せいぜい言いわけ程度(ていど)の生き方である。これに対して、
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だれかを思いやるとか、たしなみのこころを持ち、つつしみ深く生きる、ということとは、月とすっぽんくらい違う(ちが )生き方であり、プラスとマイナスの違い(ちが )があるのであり、両者は決して同じことではない。
 わたしは街をよごしていない、というだけの人と、積極的にみぞ掃除(そうじ)をする人はちがう。吸いがら(す   )を駅のホームに投げすてていないというのと、毎朝ひろっている人とはちがう。
 もともとわれわれの自由には二つある。ひとつはしたいことをする自由である。「そうする」自由と権利(けんり)がわれわれにはある。しかし、自分の選択(せんたく)で、たとえそうできることでも、自分はあえて「そうしない」という自由もある。たとえばせまい診療(しんりょう)所の待合室では、あえてたばこを吸わ(す )ないのは、その人のやさしさであろう。むかし、田舎(いなか)では、秋の柿(かき)の木の実をわざといくつか残しておいて、烏(からす)などに食べさせることにしていた。(中略)
 たしかに公衆(こうしゅう)道徳(どうとく)は低下した。ひとには迷惑(めいわく)はかけていないつもりの人が何と多くなったことであろう。そういうことはしない、という思いやり、つつしみ、やさしさをまわりにふりまくひとがいなくなったら、その社会はほろびる。
 しかし、社会、国家もいまそういう方向へむかっているのではないか。ひとこと声をかけるとか、少し相手にもまなざしを向けることが、いま求められている小さな積極性(せい)であろう。外食も、音楽も、おしゃれもすべていま風にというのは、けっこうであるが、それだけではまわりに友人をつくることはできない。
 いま日本は見えない坂を転げ落ちているのではないか。それは見えないからだれも知らないふりをしていることができる。そうして気づいたとき、すべてが終わっているということにならなければいいのだが。
 まじめな自分主義(しゅぎ)を超え(こ )て、もう一度人間としての「つながり」と「つらなり」に目を向けて生きる――これが市民として、いまわれわれ日本人に求められているのだ。

(小原信「シングル・ルームの生き方」より)
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a 長文 12.3週 nu2
 1「自分」というものに「気がついた」感じになった日のことは、くっきり覚えている。十歳(さい)のある日だ。前後の記憶(きおく)はなく、その瞬間(しゅんかん)の情景(じょうけい)だけが――日差しや風の吹き(ふ )具合なども含め(ふく )て―― 一枚(まい)の絵はがきのように心に残っている。
 2学校の昼休みだった。教室のはずれに廊下(ろうか)から校庭におりる五、六段(だん)の階段(かいだん)があり、わたしはそこに一人で坐っ(すわ )ていた。
 よく晴れた日で、おでこのあたりが、ぽかぽか暖かい(あたた  )。3食後で、お腹( なか)もちょうどよく満ち足りており、階段(かいだん)の木目の肌(はだ)ざわりも心地よい。いつもなら友だちと、わいわいガヤガヤやっている時間なのだが、その日はなぜか一人だった。
 4校庭で遊んでいる友だちの姿(すがた)を目で追いながら、「ひとりでいる」ことにも満足している。(みんな元気にやっているな、よしよし)と、すこし、オトナになったような感じとでもいったらいいだろうか。
 5そんな、ひなたぼっこの気分でぼんやりしているときだった。
 (あれ? あれあれ? こりゃなんだ?)
 いままで感じたことのないようなヘンな気分が、わき出てくるではないか。6あたりの喧騒(けんそう)が、すーっと遠のき、シンとしてしまった。友だちの姿(すがた)は確か(たし )にあそこにあるのに現実(げんじつ)感がない。豆つぶのようにチラチラしているだけだ。
 (なんだなんだ、いったいどうなっちゃったのだ!)
 7外側は、くつろいだ姿勢(しせい)のまま、心の中は驚い(おどろ )てあわてふためいている。心臓(しんぞう)がドキドキして大騒動(そうどう)だ。なにがなんだか判ら(わか )ず、じっと凍っ(こお )たままでいるうちに、まるで自分の中の何かが一枚(まい)はがれたように、(あ、そうか!)と感じた。8わたしというのは、わたし一人しかいないんだ。
 書いてみれば身もフタもない。が、なんとも奇妙(きみょう)な「了解(りょうかい)」があった。ややこしくなるのを恐れ(おそ )ずに、そのときの気分を、ずらずら述べ(の )てみると……
 9(わたしのことを「わたし」と感じることが出来るのは、このわたししかいない。今まで、どれだけ沢山(たくさん)のいきものが生まれ、死
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んでいったか。これから、どれだけ沢山(たくさん)のいきものが生まれ、死んでいくか。
 0いきものという大河(たいが)が、太古と未来を貫い(つらぬ )て、ごうごうと流れており、本日ただいまも――こうして、わたしが学校の階段(かいだん)に坐っ(すわ )ているこの時も――世界中に数知れないいきものが、満ちており、わたしはその中の、ほんとにちっぽけな存在(そんざい)だ。
 しかし、しかしである。ちっぽけではあるが、この、ここにいる直子を「わたし」と思えるのは、わたしだけじゃないか。この直子を「わたし」と思える、という事態(じたい)は大昔まで遡っ(さかのぼ )ても、いちどもなかったし、今後どれだけいきものの歴史が続こうとも、もう二度とない。
 つまり、「直子=わたし」という状態(じょうたい)は、この世では「まったくく初めて」の出来事なのだ! 「じつに特別」なことなのだ! こりゃすごい)というわけである。いわゆる「自己(じこ)の発見」的な芽が出たときだったらしい。
 その後しばしば、あの瞬間(しゅんかん)を思いだした。そして、直子という「にんげん」が、ほかならぬ「わたし」であることを不思議に思ったり、「わたし」を無視(むし)するかのように、直子という「にんげん」が沢山(たくさん)登場し、勝手に振る舞っ(ふ ま )て(と思えて)、ヤキモキしたり腹(はら)を立てたりした。(こんな直子は「わたし」じゃない)と。
 そのヤキモキ状態(じょうたい)が極まったのが十代だった気がする。――そう、これも十代の特徴(とくちょう)なのだろう。つまりは、直子と「わたし」のバランスがうまくとれないことだったようだ。

(工藤(くどう)直子「出会いと物語」より)(原作を一部手直ししてあります)
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a 長文 12.4週 nu2
 1一番わかりやすいのは、スズメバチと熊(くま)の関係である。スズメバチにとって熊(くま)は天敵(てんてき)だ。せっかく築い(きず )た巣を壊し(こわ )、中の蜂蜜(はちみつ)やら幼虫(ようちゅう)を台無しにしてしまう。2スズメバチ自体は、強力な社会性(せい)と毒による攻撃(こうげき)力をもっているため、実質(じっしつ)的な天敵(てんてき)は熊(くま)以外には見当たらない。巣を破壊(はかい)するといった無謀(むぼう)な行動を起こすのは熊(くま)くらいのものだ。3スズメバチとその唯一(ゆいいつ)の天敵(てんてき)である熊(くま)との攻防(こうぼう)は、おそらく何十万年以上ものあいだ続いているため、スズメバチは熊(くま)のような黒っぽい体色に対しては、攻撃(こうげき)をしかける習性(しゅうせい)が選択(せんたく)されたらしい。4山菜採り(と )に行った黒っぽい服装(ふくそう)の人や頭の黒い人間がスズメバチに襲わ(おそ )れるのは、その習性(しゅうせい)のためというのがもっぱらの説だ。造成(ぞうせい)地では人間がブルドーザーでスズメバチの巣を破壊(はかい)しているが、せいぜいこの四〇〜五〇年のことだ。5スズメバチがブルドーザーを目掛け(めが )て攻撃(こうげき)するといった習性(しゅうせい)を獲得(かくとく)するには、何万年もの時間が必要であるに違い(ちが )ない。
 6スズメバチと熊(くま)の例を見て「異種(いしゅ)の動物のコミュニケーションにおいて色に意味がある」と気づいたのは、人間が熊(くま)と見誤ら(あやま )れて実際(じっさい)に襲わ(おそ )れているからである。もしそうでなければ、そのような関係性(せい)にはまったく気がつかなかったかもしれない。7仮に(かり )スズメバチが熊(くま)を攻撃(こうげき)しているのを目撃(もくげき)しても、スズメバチの巣を壊し(こわ )た熊(くま)が襲わ(おそ )れているのだろうとしか見えないだろう。8スズメバチが人間を襲う(おそ )といった、本来の行動とは違う(ちが )誤っ(あやま )た行動をかいま見せることにより、われわれはその特殊(とくしゅ)な関係性(せい)にはじめて気づかされる。
 9おそらく、この広い地球上には生物種同士の攻防(こうぼう)に「色が重要な意味をもつ」例が山ほどあるに違い(ちが )ない。ただ、人間がそのような局地紛争(ふんそう)には気がついていないだけだ。色のもつ意味は、動物のライフスタイルによってまったく異なる(こと  )可能(かのう)性(せい)がある。0この点については、残念ながらわれわれはどのような工夫をしても、その実
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体を知るのは難しい(むずか  )だろう。
 一方、スズメバチにとっての熊(くま)の体色のような特別な関係を意味する色とは異なり(こと  )、警戒色(けいかいしょく)や目玉模様(もよう)はかなり普遍(ふへん)的な信号として、広範(こうはん)に使われているものと推測(すいそく)される。ただし、その信号を受信する側が、本能(ほんのう)的にそれを避ける(さ  )のか、学習によって学んでいるのかは、ケース・バイ・ケースの(場合による)ように思われる。有毒なジャコウアゲハは真っ黒な翅(つばさ)に赤いスポットを見せびらかすかのごとくゆっくりと飛ぶ。天敵(てんてき)である鳥は、いとも簡単(かんたん)に捕まえ(つか  )て食べることができるが、そのまずさに懲り(こ )て二度とこのような紋様(もんよう)をしたチョウを食べなくなる。つまり、味と紋様(もんよう)という二つの形質(けいしつ)を学習によって結びつけるという過程(かてい)を経(へ)て、警戒色(けいかいしょく)は成立している。この場合、死なない程度(ていど)の毒だからこそ、経験(けいけん)が生かされ学習が成立している。では警戒色(けいかいしょく)のすべてがこのような学習によって成立しているのだろうか? もし、そうだとするならば、警戒色(けいかいしょく)や目玉模様(もよう)は、学習能力(のうりょく)がある程度(  ていど)高い捕食(ほしょく)者、脊椎動物(せきついどうぶつ)、つまり、哺乳類(ほにゅうるい)、鳥、爬虫類(はちゅうるい)、両生類、魚類などに向けたシグナルなのだろう。
 しかし、強力な毒をもつ有毒の蛇(へび)が見せる警戒色(けいかいしょく)などは、捕食(ほしょく)者に学習する余裕(よゆう)はない。かまれてしまったら一巻(かん)の終わりだ。ひょっとしたら、捕食(ほしょく)者は本能(ほんのう)的に蛇(へび)を避ける(さ  )ように遺伝子(いでんし)に書きこまれている場合もあるかもしれない。被(ひ)食者の警戒色(けいかいしょく)は痛い(いた )目にあわないとわからないシグナルなのか? 遺伝子(いでんし)の中に刷りこまれている記憶(きおく)なのか? 私(わたし)が蛇(へび)ぎらいである理由や記憶(きおく)をたどってみてもよくわからない。

 (藤原(ふじわら)晴彦(はるひこ)『似せ(に )てだます擬態(ぎたい)の不思議な世界』(化学同人))
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