a 長文 4.1週 ra
長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。
 1生物の遺伝的複製技術という意味でのクローニングは、衝撃(しょうげき)ではない。誰(だれ)でも知っている、植物のいちばん簡単なクローニングは、「さし木」というかたちである。動物の場合は、さし木というわけにはいかないが、体の一部分から全体が再生するものはいる。2人間も含め(ふく )た脊椎動物(せきついどうぶつ)にとって、最も身近なクローニングは、一卵性双生児(いちらんせいそうせいじ)である。それほど頻繁(ひんぱん)に起こるわけではないが、しかしひとつの受精卵に由来し、しかも同一の子宮で育つ一卵性双生児(いちらんせいそうせいじ)が存在することは、古くから知られている自然界の出来事である。3この点では、体細胞(さいぼう)の核(かく)移植により作られ、母親とは別の胎内(たいない)で育てられてできている羊や牛のクローンなどよりも「完璧(かんぺき)な」クローンであると言える。
 4羊や牛のクローニングが社会的に衝撃(しょうげき)を与え(あた )たのは、言うまでもなく動物の核(かく)移植クローニングという技術が、人間にも応用されるのではないか、そして、ひとりの人間から、大量にコピーが作られるのではないかという憶測(おくそく)と危惧(きぐ)のためである。5同じ遺伝子だから同じ人格が作られるという憶測(おくそく)である。一卵性双生児(いちらんせいそうせいじ)でさえ、それぞれに独立した別個の人格を認めていることを考えれば、このような遺伝子決定論が間違い(まちが )であることは明白である。6にもかかわらず、人間の大量コピーというイメージが一般(いっぱん)化したのは、特に合衆国において、遺伝子を絶対視し、環境(かんきょう)因を軽視する傾向(けいこう)があるためでもある。7このことをスティーヴン・J・グールドは、「生まれ」に気をとられるばかりに「育ち」の重要さを見落としている社会の危険性として早々と指摘(してき)していた。
 8「ドリー」のニュースをはじめ、その後各国で報じられるクローニング成功のニュースに接するたびに、わたしの脳裏に浮かび(う  )あがる「複製」のイメージがある。一九九三年(平成五年)秋、伊勢神宮(いせじんぐう)で見た光景である。9この年は二十年に一度の「式年遷宮(せんぐう)」の年にあたるが、そのクライマックスである「遷御(せんぎょ)」の日、内宮のなかを撮影(さつえい)しながら、日の落ちる夕刻まで歩いたことがあった。0二十年ごとに御正殿(ごしょうでん)をはじめ、神宮すべての神殿(しんでん)から神宝
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までを新しく作り替える(か  )「式年遷宮(せんぐう)」は、簡単に言えば神々のお引越し(ひっこ )であるが、わたしには、それが形態的には一種の複製の儀式(ぎしき)のように見えたのである。建築的には耐用(たいよう)年数にいたらない二十年というサイクルで、いっさいの神殿(しんでん)がまったく同じ技法と形態のもとに作り替え(つく か )られる理由については、いくつもの説があるが、現実的な意味で説得力があるのは、「唯一(ゆいいつ)神明造」と呼ばれる建築様式の知識と技法を伝承してゆくための期間として、二十年が適当であったのではないかというものである。確かに平均寿命(じゅみょう)が現在よりもずっと短かった時代に、親から子へ、複雑で精緻(せいち)を極めた建築技法を伝えるには、十年では短かすぎ、かといって三十年では長すぎたのかもしれない。いずれにしても、「式年遷宮(せんぐう)」という儀式(ぎしき)の二十年という社会的時間が、世代間の知識の伝承という時間に関係しているという説は、できたばかりの白木の神殿(しんでん)をレンズ越し(ご )に眺め(なが )ながら、すんなりと受け入れることができたのだった。(中略)
 「式年遷宮(せんぐう)」における広い意味での様式の「複製」は、その背後に人生と社会が取りもつ「時間性」があるが、核(かく)移植クローニングによる人間の「複製」には、この「時間性」が欠落している。クローンである親から生まれた再クローンの牛が誕生している今日、クローニングを重ねるごとに、細胞(さいぼう)が若返る可能性があるという研究報告さえ出てきているが、結果の当否は別にして、現在わたしたちが目の当たりにしているクローニングとは、これまでの生物が性を介し(かい )て営んできた「時間性」に、根本的な変更(へんこう)を要請(ようせい)するものではないだろうか。クローニングの登場によって「適齢期(てきれいき)」という言葉が死語になるとは思わないが、しかしおしなべて生物は、「しかるべきときに、しかるべきことを」しながら世代を継い(つ )できたのだ。それは「しかるべきときに、しかるべきことを」という性の規則を、時間性として社会に組み込ん(く こ )できた人間にとって、「適齢(てきれい)」の意味を改めて問い直させるものではないかと思う。

 (港千尋(ちひろ)の文章)
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長文 4.1週 raのつづき
 1学問は世の役に立つかと考えるとき、よく私が思い浮かべる(おも う   )のは、天動説がくつがえされ、地動説が確立されるまでのヨーロッパの学者たちの探究です。地動説の萌芽(ほうが)は、すでに十四世紀にノルマンディの学者、ニコラ・オーレムの書いたものにあったそうですが、2十六世紀に入って科学的にこれを一歩進めたのは、ポーランドのコペルニクスで、けれどもキリスト教会の取り締まり(と し  )を恐れ(おそ )て、七十歳(さい)の死の数日前までその論文を発表しなかったといわれています。3そしてドイツのケプラー、イタリアのガリレイなどがこの考えを継承(けいしょう)してより実証に近づけますが、教会からは弾圧(だんあつ)を受け続け、一六一六年には、教皇パウロ五世は地動説を聖書に反するという理由で、断罪しています。
 4いうまでもなく、太陽が動くか地球が動くかは、私たちの日常生活にとって、まさにどうでもいいことです。今でも人類の圧倒的(あっとうてき)大部分は、お日様は東から昇っ(のぼ )て西へ沈む(しず )と思っており、生活感覚としてそれはまったく正しい。5天動説、つまり地球中心主義をくつがえすために、教会の弾圧(だんあつ)に耐え(た )、ずいぶんお金も使いながら、大勢の学者が執念深く(しゅうねんぶか )追究してきたことは、直接にはまったく「世の役に立たない」ことです。
 6けれども、地動説が確立されたことで、人間の世界に対する認識が根本的に改められ、宇宙科学をはじめとする科学や技術がどれだけ変わったか、その結果、地動説がどれだけ「人間の役に立っている」かは、改めていうまでもないでしょう。
 7英語で学者のことをスカラー、学校のことをスクールというのはご存じの通りですが、これはギリシャ語の「スコレー」「閑(ひま)」という言葉に由来しています。つまり、学者というのは元来「閑人(ひまじん)」であり、学問は「閑人(ひまじん)」のすることなのです。
 8小学校の就学率が一〇パーセントにも満たない、私が住み込み(す こ )調査をしていた頃(ころ)の西アフリカ内陸社会の村では、家族にとって大事な労働力である子どもが、畑仕事の手伝いもしないで、毎日朝から夕方まで学校に行っているなどというのは、とんでもないことで、学校はまさに「スコレー」の場なのだということがよく分かりました。9学校で教わることも、村の生活にとってすぐの役には立たない、公用語のフランス語の読み書きとか、それを使って習う、
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算数とか、歴史とか、地理です。日本でも、多くの人々の生活が貧しかった頃(ころ)には、事情は同じでした。0それなら、家の仕事を手伝わずに「スコレー」の場である学校で、すぐ役に立たないことを勉強するのは無意味かといえば、決してそうではなく、そのことを理解して、家が貧しくても無理をして子どもを学校に行かせた親は、日本にもいたわけですし、アフリカの村にだっているのです。
 それに、何の腹の足しにもならない知的好奇(こうき)心を満たすという、まさに「スコレー」と結びついた人間の営みは、「ヒトという、この不思議な生物」の、ヒト筋縄(なわ)では片づかない本質をなすもので、それはアフリカの村の、生活に恵まれ(めぐ  )ない人々にとっても同じです。
 ただ、だからといって、役に立たないことに甘んじ(あま  )ていて良いとは、私はまったく考えません。たとえ役に立ち方が迂遠(うえん)だといっても、学者が現実の社会にいま起こっていることに常に生き生きとした関心をもち、人々が求めていることに共感するのは、現地調査による体験知を重要な拠り所(よ どころ)とする人類学者にとって、不可欠のことです。とくに、人間社会の草の根に生きる人々と共感をもった交わりをもつこと、そのことを通して、たとえそれが極めて長い迂回(うかい)であっても、究極には役に立つことにつながる学問を、私たちはすることができるのだと思います。

(川田順造「人類の地平から」より)
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a 長文 4.2週 ra
 1科学文明の発達は、人間の日常から手間をどんどん省く。お店の入口に立てばドアは自動的に開き、階段のそばには必ずエスカレーターがある。ボタンを押せ(お )ばテレビがつき、クーラーが動きだし、音楽が流れはじめる。2電気製品のなかでも、特にAV機器においては、リモコンのないものは商品になりえないような世の中である。
 こうした世の中の進化現象は、あげればきりがない。3そして、なぜこうしたことが進化と形容されるかというと、これらはすべて、それまでの人間が必ず経験しなければならなかった数々の手間を、片っ端(かた ぱし)から省いていったからである。しかし、私は、人間はある程度の手間を自分でこなしてこそ成長するものだと思っている。4人間が人間らしく成長し本来あるべき姿にできるだけ近づくためには、「必要なる手間」が必ずあると思っている。手間とはそれを経験した人の個性を伸ばし(の  )人間らしさを増幅(ぞうふく)させるものなのである。
 5オーストラリアのある小学校では、卒業前に必ずオリエンテーリングがあるという。地図や磁石、懐中(かいちゅう)電灯、それに食料など野外活動に必要な道具を一そろい持ち、二人一組で指定された場所から数日の野宿をしながらゴールを目指す。
 6途中(とちゅう)、険しい地形もあれば、道に迷うこともある。もちろんヘビなどの危険な動物とも遭遇(そうぐう)する。携帯(けいたい)品のなかには血清もあるというから、その危険のほどがうかがえる。しかし、どんな障害も、すべて二人で切り抜け(き ぬ )ていかなければならないのだ。
 7このオリエンテーリングの授業は、子供たちに単にサバイバルの方法を教えるというものではない。そうやって野外活動をするためには、道を探し、危険を察知し、次に自分たちがとるべき行動を決めていかなければならないわけで、そこには的確な判断力が求められるし、パートナーとの協調性も必要になる。8そして何より、さまざまなことへの対応を考えて、あらゆる方向ヘアンテナを張りめぐらせておかなければならない。まさに、人間の本能的なアンテナの修練である。
 9現代では、あらゆるものがそろい、しかも面倒(めんどう)なことは避けれ(さ  )ばいいわけで、子供たちにとっては、あえて本能的なアンテナを張りめぐらせる必要がなくなってきているのではないだろうか。そのため、決定する力がにぶり、清濁(せいだく)の明確な区別もつけられないようになってきているように思う。0
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 便利さや快適さを求める人間の欲求が、文明を発展させてきたことは事実であろう。しかし、そのために、有形無形の人間本来の財産をたくさん犠牲(ぎせい)にしてきていることに、そろそろ私たちは気づくべきではないだろうか。
 私たちが、手間のかからない生き方をしている限り、生きることの喜びを感じることはできない。人間にとって、生きる喜びはどこにあるかと問われても即座(そくざ)に答えることは難しいだろう。しかしそれは、決して大げさなものでも派手なものでもなく、あえて言葉にするなら、心躍る(おど )状態、感動に満ちあふれる状態をもてる日々ではないかと思う。そんな喜びを味わわせてくれるものとは何なのか。それは、「今まで知らなかったことをきょう知った感激。また、あした新しいことを知るかもしれないという期待」である。
 私は十六歳(さい)から十八歳(さい)までの三年間、北大予科時代の恵迪寮(けいてきりょう)にお世話になった。この寮(りょう)が十数年前にその歴史を閉じることになり、私は元住民ということで、NHKからレポータを命じられ、もう一度訪れることができた。かつて私が住んでいた部屋を訪ねたとき、何よりも懐かしく(なつ   )、またうれしかったのは、壁(かべ)から天井(てんじょう)にかけてあますところなく書かれた落書きが健在だったことである。そして、その落書きのなかにあったのが「ボーイズ・ビー・アンビシャス」であった。もちろん、創設者のクラーク氏の言葉である。これは、多くの人が「少年よ大志を抱け(いだ )」の言葉として習っているはずだ。「野心を抱け(いだ )」と訳される場合もあるが、いずれにしろ、最初に私の目に飛び込ん(と こ )できたこの言葉は、そのときの印象のままに、決して陳腐(ちんぷ)になることなく、いまだに、こぎたない壁(かべ)の落書きと一緒(いっしょ)に私のなかで生きつづけている。
 生きる喜びとは、感性をとぎすまし、自然の大きさと人間の魅力(みりょく)を日々発見することにあると思う。
 そういう生き方をすることが私のアンビションである。だから私は、少年たちに、「少年よ野心を抱け(いだ )」と書いたとき、野心に「のごころ」と仮名をつけることにしている。

(牟田(むた)悌三(ていぞう)(むたていぞう)著『大事なことは、ボランティアで教わった』から)
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a 長文 4.3週 ra
 1人びとが時間に追われるようになったのは時計が発明されてからといわれる。考えてみれば太古の昔から、人びとは太陽や星の運行にともなって時が過ぎゆくことを実感していた。しかし、時は自分の上を流れゆくものであって、時間によって自らの行動を律しようとは思わなかったであろう。
 2日本社会でも、農業従事者が大部分を占め(し )た時代には、時計といえば、一家にひとつ柱時計があるくらい。日の出とともに田畑に出かけ、日の入りとともに家に帰って休むというのが当たり前の生活パターンだった。
 3こう書くと、なんだか随分(ずいぶん)遠い昔のことのようだが、つい十数年前、小さな農村で高齢(こうれい)者にたいして生活時間調査を試みてうまくいかなかったという話を聞いたことがある。4その村では大多数の高齢(こうれい)者は時計を持たず、何時に何をするという観念はない。時間ではなく、明け方とか、昼頃(ころ)とか、夕方というように、おおまかなくくり方で日常生活が十分間に合うのである。
 5いつでもだれもが時計を所持するようになると、ついつい時計をのぞく機会が増え時間を気にするようになる。「時のたつのも忘れて」ということが、しだいに少なくなるのは何とも寂しい(さび  )ことだ。
 6人びとが時間に追われるようになったもうひとつの理由は、テレビ画面の隅(すみ)に時刻が表示されるようになったことである。いつ頃(ころ)からこうしたことが行われるようになったのかよくわからないが、分刻みで表示される時間に追い立てられて、会社や学校に出かける人が大多数ではなかろうか。
 7朝のテレビ番組は時計代わりと言われるようになって久しい。画面に時刻表示がなかった頃(ころ)は、放映されている番組で大体の時刻を知るのが普通(ふつう)だった。時計代わりのテレビに時刻が表示されるようになり、今や時計そのものになってしまった。8私自身、画面に現れる時刻表示をちらちら見ながら、あと五分でとびださないと電車を逃がし(に  )てしまうと、毎朝どたばたしているのが実情である。
 今のところ分単位で表示されているから分刻みで行動している。9だが、これが秒単位で表示されるようになったら、と思うとぞっとする。秒刻みで行動することになれば、時間に追われるという感覚がいっそう切迫(せっぱく)したものになることは確かだ。
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 このところ、金銭消費から時間消費へと人びとの関心が移ってきているといわれる。0バブル紳士(しんし)たちの凋落(ちょうらく)ぶりを見ると、金で買える幸せには限界がある。それよりも充実(じゅうじつ)した時を持ちたいと考えるのは、きわめて当然のことだ。
 しかし、残念なことに、時間への関心は、時間にとらわれないことや時間に追いかけられないことではなくて、時間の能率的、効率的な使い方に向かっているような気がする。能率的、効率的に時間を使って、さて空いた時間をどうするかといえば、もうひとつ仕事を入れてしまうのが働き過ぎ日本人の悲しい性(さが)だ。
 能率的、効率的でない時間の使い方のできるチャンスをいかにして確保するかが、私を含め(ふく )て多くの日本人の課題であろう。だが実情は、南の島でのんびり時計のない生活をしたいと憧れ(あこが )ながら、相変わらず時間に追われているのが時間貧乏(びんぼう)の私なのである。

(袖(そで)井(い)孝子著「時間の話」による)
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a 長文 4.4週 ra
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 私ども彫刻(ちょうこく)に志すものが、人の顔を見て先ず心をひかれるのは、皮膚(ひふ)や髪()毛の色とか、目鼻だち口もと等のこまかいところよりも、もっと根本的な彫刻(ちょうこく)的の美しさにあります。すなわち一つの塊(かたまり)りとしての美しさ、凸凹(おうとつ)、面、線等がつくる美しさであります。
 人の顔は、たとえば巧み(たく )を極めた、不思議な技法でつくられた建築です。目鼻や口はこの建築の細部の装飾(そうしょく)のようなものでしょう。この建築の構造の不思議なこと、容易に人のうかがい知るを許さぬ処です。この秘密を開く事そこに私どもの苦しみも喜びも一にかかっているのであります。
 先頃(さきごろ)八月の初旬(しょじゅん)、信州に彫刻(ちょうこく)の講習会がありました。どういう方法でどんな風にやったらよいものかと、最初に相談を受けました時、私は人の顔について研究する事をすすめました。生人のモデルと塑()造台と粘土(ねんど)を用意して置く事、そして一人のモデルに研究者は八人位を限りとし、各自モデルについて見るところを粘土(ねんど)を以ってつくって見る、粘土(ねんど)をひねってはモデルを見る、こういった方法で勉強を続けて行ったら、その間にだんだん彫刻(ちょうこく)の会得も出来て行くでしょうと答えて置きました。
 人の顔なら誰(だれ)しも平生見馴れ(みな )ている処ですから、取りつきにくい事もないでしょう。しかし実際にこうしてやり出して見たら、平生見慣れている人間の顔が実はどんなにむつかしいものかという事に気がつくでしょう。それは平生ぼんやりものを見ているからです。で、こうしてだんだんものを見る修行が積まれてくると、見馴れ(みな )ている人間の顔にも、実に微妙(びみょう)にして複雑極まるいろいろの仕組みのある事がわかって来ましょう。して見れば、毎日同じ顔の人間の顔を見てくらすという、一見つまらなさそうな仕事も決して無意義ではありますまい、となおいい添え(そ )て置きました。
 考えて見ると私は人の顔を見る事が余程好きのようです。以前、私は長らく苦しい境遇(きょうぐう)に置かれていました。ほとんど慰め(なぐさ )のない生活でした。その中にあって、唯一(ゆいいつ)の慰め(なぐさ )は人の顔を見る事でした。電車の中で向かい側にいる人々の顔を見ているとすべてを忘れ
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る事が出来ました。電車賃のない時は、麹町(こうじまち)の勤め先から本郷の自宅まで、空腹と疲労(ひろう)のからだをひきずって歩いて帰る事さえしばしばありました。その折りさえ途上(とじょう)に出会う沢山(たくさん)の人々の顔が見られるので、どんなに苦痛をやわらげられたでしょう。
 本を読むよりも、人の顔を見る方がどんなによいか知れない、とよくその頃(ころ)思ったものです。もっとも本を読む暇(ひま)も多くは持たなかったけれど、本を読むよりも私は人の顔から、どんなに多くの学問をしましたろう。
 相者は人の顔を見て、その人の過去現在未来、その他いろいろの事をいいあてますが、全く人の顔にはその人の事は何でもありありと書いてあるものです。ただこれを読む事が大変むずかしいのです。
 友人中川一政氏がかつていった事に、芸術家は作品を作るが、一方においておのずからその顔を作ってゆくものであるとありましたが、まことに然りと思います。芸術家でなくても誰(だれ)も人の生活はその顔をつくることにあるともいえます。
 人間が一生の苦心でつくられたその顔は、その人と共にどこへ行くのですか。私は友人知人の死面をいくつか石膏(せっこう)にとったことがあります。死面はぬけがらです。その人の顔はその人の死と共に何処かへいってしまうのです。思うと全く神秘です。
 言葉は嘘(うそ)をいう事ができましょうが、顔は人を偽る(いつわ )事ができません。話を言葉だけで聞く人は真相を誤る事がありますが、顔から聞く時は先ず誤る事がありません。
 電話というものがあります。便利なものだとは思います。が、私はどうも電話を好みません。それはなぜかと考えて見るに、相手の顔が見えないという事に大部分その原因があるようです。ほんの通り一遍(いっぺん)の用談だけは済まされますが、少しこみ入った話になると電話では充分(じゅうぶん)通じません。こう感じる人は恐らく(おそ  )私ばかりではなかろうと思います。で、いかに私どもは平生顔によって人と話しているかという事がわかります。顔がものをいい、顔がものを聞く、この働きは全く不思議です。

(石井(いしい)鶴三(つるぞう)『顔』)
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長文 4.4週 raのつづき
 1私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
 2第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。3歴史と呼ばれ、人類の記憶(きおく)の中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶(きおく)によって濾過(ろか)され、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
 森鴎外(おうがい)の短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。4この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼み(たの )、薬棚(たな)の抽斗(ひきだし)から乾燥(かんそう)したサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云う(い )ことが随分(ずいぶん)ある。人ばかりではない。5すべての物にある。」といった感慨(かんがい)を綴っ(つづ )た作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外(おうがい)におけるサフランのようなものではないでしょうか。
 第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げ(たなあ )し、目的を一時保留して行動しなければならないからです。6言い換えれ(い か  )ば、現実行動にあたって失敗を避ける(さ  )には、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振(すぶ)りが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振り(ふ )ます。そのことによって、彼(かれ)はバッティングという行為(こうい)のプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
 7私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返し(く かえ )ても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使(くし)するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。8学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れ(はな )て、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。
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 また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。9武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回し(ふ まわ )ていれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手(こて)を打ち、突き(つ )を入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露(りゅうろ)してくるところに武術は成立します。0型は、行為(こうい)のプロセスを支えてくれるのです。
 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐える(た  )能力も身に付けることができるのです。芥川(あくたがわ)龍之介(りゅうのすけ)の短編小説『手巾(ハンカチ)』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然と(たんぜん )客を迎え(むか )ながら、しかし、机の下では「膝(ひざ)の上の手巾(ハンカチ)を、両手で裂か(さ )ないばかりにかたく、握っ(にぎ )ている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女(かのじょ)は「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐える(た  )ことができたし、また醜態(しゅうたい)をさらさずに済んだわけです。
 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈み(しず )ます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。

(山崎()正和「文明としての教育」の文章による)
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a 長文 5.1週 ra
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1文明とは何かを地球システム論的に考えると、「人間圏(けん)を作って生きる生き方」となります。人間圏(けん)の誕生がなぜ一万年前だったかというのは、気候システムの変動に関わってきます。2気候システムが現在のような気候に安定してきたのは一万年前のことです。それに適応してその頃(ころ)、我々はその生き方を変えたんですね。
 3人間圏(けん)を作って生きる生き方というのは、じつは農耕牧畜(ぼくちく)という生き方です。それ以前、人類は狩猟(しゅりょう)採集という生き方をしてきた。狩猟(しゅりょう)採集というのはライオンもサルも、あらゆる動物がしている生き方です。4したがってこの段階までは人類と動物の間に何の差異もなかった。これを地球システム論的に分析(ぶんせき)すると、生物圏(けん)の中の物質循環(じゅんかん)を使った生き方ということになります。生物圏(けん)の中に閉じた生き方です。
 5それに対して農耕牧畜(ぼくちく)はというと、たとえば森林を伐採(ばっさい)して畑に変えると、太陽からの光に対するアルベド(反射能)が変わってしまう。ということは、地球システムにおける太陽エネルギーの流れを変えているわけです。6また、雨が降ったとき、大地が森林でおおわれているときと畑とではその侵食(しんしょく)の割合が異なります。別の言葉でいえば、そこに水が滞留(たいりゅう)している時間が違っ(ちが )てくる。すなわち、エネルギーの流れだけではなく、地球の物質循環(じゅんかん)も変わるということです。7これを地球システム論的に整理して概念(がいねん)化すると、人間圏(けん)を作って生きるということになる。人類が生物圏(けん)から飛び出して、人間圏(けん)を作って生き始めたために、地球システムの構成要素が変わったわけです。
 8ところで、先ほど一万年前に人間圏(けん)ができたのは気候が変わったからだと言いました。そういう時期は最近の一〇〇万年くらいをとっても何回かあったでしょう。9人類の誕生以来の歴史七〇〇万年ぐらいまで遡っ(さかのぼ )てみれば、一万年前と同じような時期が何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール人が農耕を始めてもよかったことになる。でも、彼ら(かれ )はそうしなかった。0農耕牧畜(ぼくちく)という生き方を選択(せんたく)し、人間圏(けん)を作ったのは、われわれ現生人類
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だけなんです。
 それはなぜなのか。現生人類に固有の、何か生物学的な理由があるのではないかと考えられます。類人猿(るいじんえん)や他の人類にはなく、我々だけがもっている特徴(とくちょう)は何だろうと考えると、まず思い当たるのは「おばあさん」の存在です。おばあさんとは、生殖(せいしょく)期間が過ぎても生き延びているメスのことです。たとえば、類人猿(るいじんえん)のチンパンジーのメスと比べても、現生人類のメスは生殖(せいしょく)期間終了(しゅうりょう)後の寿命(じゅみょう)が長い。なおこの場合、オスは関係ありません。オスは死ぬまで生殖(せいしょく)能力があります。したがって、おじいさんは現生人類以外にも存在します。しかし、おばあさんは他の哺乳類(ほにゅうるい)には存在しないし、ネアンデルタール人の化石からも、現生人類のおばあさんに相当する骨は見つかっていません。おばあさんの存在は、現生人類だけに特徴(とくちょう)的なことなんです。
 では、おばあさんが存在すると何が起こるのか。すぐに思いつくのは、人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて子供を産んだ経験をもつわけですから、お産の経験を娘(むすめ)に伝えることができる。するとお産がより安全になり、新生児や妊婦(にんぷ)の死亡率も低くなりますね。
 さらにおばあさんは、娘(むすめ)が産んだ子供のめんどうもみます。たとえば娘(むすめ)の生殖(せいしょく)期間が一五年として、子育てに五年かかるとしたら三人しか産めない。ところがおばあさんがいることで五年が三年に短縮されたら五人産める。ということで、おばあさんの存在が人口増加をもたらしたのではないかと、私は考えています。このことは最近の研究からも確かめられています。
 我々現生人類は一五万年前ぐらいにアフリカで誕生したのですが、五、六万年前ぐらいには、すでに地球上に広く分布するようになっていました。人類のような大型動物が、なぜこんな短期間に世界中に拡散していったのか。これも現生人類の人口増加という問題を考えるとその理由が判ります。

 (松井(まつい)孝典『松井(まつい)教授の東大駒場(こまば)講義録』)
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長文 5.1週 raのつづき
 1日本がいかに湿潤(しつじゅん)な国か、私は外国を旅する度に、いやというほど思い知らされる。ヨーロッパと日本とではそれほど風土の差がないように思われるが、湿度(しつど)が違う(ちが )。だから、やたらにのどが渇く(かわ )。2日本人の旅行者にとって、何よりつらいのは、ヨーロッパの街でレストランに入っても、カフェへ立ち寄っても、水を出してくれないことである。人々はそんなに水を飲まないのだ。それに、日本以外の国では、生の水をそのまま飲めるようなところはめったにない。3だから、水はコーヒーなどよりも高い場合がしばしばある。金を払っ(はら )て水を飲むという発想が日本人にはないから、代金を請求(せいきゅう)されてびっくりする。私も驚き(おどろ )、いまさらのように日本人は「水の民」なんだなあと痛感した。
 4そのようなわけで、日本人の魂(たましい)の奥底(おくそこ)には、いつも水音が響い(ひび )ているのである。日本人は水の音に限りない親しみを抱き(いだ )、安らぎを覚え、懐かし(なつ  )さを感じるのだ。芭蕉(ばしょう)が「古池や」の一句をもって俳聖のように仰が(あお )れ、蕪村(ぶそん)が春の海を「のたりのたり」と表現したことで人口に膾炙(かいしゃ)されるようになったのも、けっしてゆえないことではない。
 5では、日本人の胸の奥(おく)で、水はどのような音を響かせ(ひび  )ているのであろうか。水音を表現した擬態語(ぎたいご)、擬声語(ぎせいご)が、その微妙(びみょう)な音をさまざまに伝えている。擬態語(ぎたいご)というのは、ものごとの状態を象徴(しょうちょう)的に音で表した語であり、擬声語(ぎせいご)というのは物事や動物の鳴き声などを写実的にとらえた語である。6言語学では、それをオノマトペというが、日本語には、こうした擬声語(ぎせいご)擬態語(ぎたいご)がきわめて多い。オノマトペが日本語の特質だといってもいいほどである。そして、それも水と深い関係があるように思われる。というのは、数多くの擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)のなかでも、ことに水に縁(えん)のある語が目立つからである。
 7じっさい、他の国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村(ぶそん)の句を外国語に翻訳(ほんやく)するのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したら
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いいのだろう。8私はさんざん苦労した揚げ句(あ く)、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
 日本語には、多彩(たさい)な水の表現があるのだが、こうしたオノマトペは、同質社会でこそ微妙(びみょう)な伝達の機能を発揮できるが、異質な風土異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。9なぜなら、擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)というのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象(ちゅうしょう)性をもたないからだ。
 したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると、とたんに行きづまってしまう。0オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味を伝えることのむずかしさは音楽の与える(あた  )イメージを言語で解説する困難さと同じだといってよい。この意味で擬声語(ぎせいご)、擬態語(ぎたいご)は言葉の本質とも言うべき抽象(ちゅうしょう)力を欠く低次の言語だといえなくもない。しかし、言語がその抽象(ちゅうしょう)力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。
 もし言語がこの世界の全てを表現し尽くせる(つ   )ものなら、言葉さえあれば、何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉では言い表せない別の表現を、人間は考え出してきたのだ。例えば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置き換える(お か  )などということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感覚を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。

(森本哲郎 『日本語 表と裏』)
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a 長文 5.2週 ra
 1何を読むかという前に、まず何はともあれ、夢中で読むという体験を一度味わう必要があります。読む対象はそれぞれの人によってことなりますが、とにかく面白く楽しい本であることが必要です。2そして一度読む楽しさを知ったら、あとは、この面白さの内容を次第に高めることが、楽しさを長つづきさせる秘訣(ひけつ)です。たとえば推理小説だけを読んでいると、最後にはせっかく面白かった本も、何となく空虚(くうきょ)な感じがしてきます。
 3一度読む楽しさを知った人は、あとは放っておいても、読書の本能ともいうべきものによって、自分にぴったりした本をもとめてゆくものです。また百冊の本のリストによって自分にふさわしい本を捜す(さが )ようになるのも、この時期です。4この時期になれば、百冊のリストを見ても恐れ(おそ )をなすどころか、逆に面白そうな本がこんなにならんでいてくれることに、ぞくぞくした楽しさを感じるようになるものです。ですから、読書の楽しさを知るということが、私たちが最初に体験しなければならないことになるのです。
 5ある人は訊ねる(たず  )かもしれません。「いまはテレビや映画や劇画によって読書以上の楽しみを味わえる時代なのに、なぜ古臭い(ふるくさ )読書などに執着(しゅうちゃく)するのですか」と。
 しかしテレビを見るのと本を読むのとは別々のことです。6テレビは私たちを自分の外へ引き出しますが、読書は自分の中へ引き戻し(ひ もど )ます。それに読書はいつどこででもできます。汽車の中でも、飛行機の中でも、昼でも、夜なかでも一冊の本さえあれば、自由に別世界に入りこむことができます。7同じ本でも、小説は劇画より、もっと自由自在に豊かに想像力の翼(つばさ)に乗って羽ばたくことができるのです。
 読書の楽しさの中で最大のものは、この自由感だということもできます。本の扉(とびら)を開けると、もう向こうはフランスだったり、江戸(えど)時代の日本だったり、幻想(げんそう)の世界だったりするわけですから。8そこでは、私たちの人生とは別の人生がはじまっています。別の人々と出会い、数奇(すうき)な運命をたどることができるのです。深い悲しみや喜びを味わうこともできますし、人生の裏面の赤裸(せきら)なすがたを見て戦慄(せんりつ)することもあります。私たちの魂(たましい)は地獄(じごく)を通り天国を通ります。9泣いている女にも会います。打ちひしがれた男にも出会
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います。幸福な人にも恋(こい)に悩む(なや )人にもぶつかります。私たちは思わぬ人生の寂し(さび )さや、孤独(こどく)感や、人々の愛を体験します。
 こうして一冊の本を読み終えたとき、私たちは読みはじめる前とは、別人になったように思えることがあります。0私は『罪と罰(ばつ)』を読んだとき、そんな気持ちを味わいました。しかしこうした経験は読書以外には絶対に味わえません。こうなると、読書は単なる楽しさから、もっと深いもっと複雑なものに変わってゆくことになります。
 読書の対象はこうして詩や小説から哲学(てつがく)や宗教へ、神話や心理学へ拡がってゆきます。しかし読書が生涯(しょうがい)を通じて私たちのそばにあるのは、それが何よりも楽しいことだからです。楽しくなければ何にもなりません。その証拠(しょうこ)には、何か無理をして勉強し、我慢(がまん)をして読書をしていた人は、目的を達すると、けろりと読書などしなくなるものです。
 私は自分でもスポーツが好きですし、映画もよく見るほうです。音楽なしでは一日もいられません。それでも、なお読書の楽しみを皆さん(みな  )に味わってほしいと思うのは、読書によって、そうしたスポーツや映画や音楽の楽しみが、一段と豊かになり深くなるものだからです。

(辻(つじ)邦生(くにお)『永遠の書架(しょか)にたちて』による)
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a 長文 5.3週 ra
 1創造には、情念の力がいる。芸術における創造はもちろん、あらゆる学問にも、また日常生活にもそれはいえることだろう。では、この情念は具体的にどのような情念なのか。
 エジソンの言葉に、「必要は発明の母である」(Necessity is the mother of invention)というのがある。2何か必要であって発明あるいは創造が生まれるという意味だが、問題はこの「必要」という言葉の解釈(かいしゃく)である。
 「必要」は、英語でおもに二通りの表現の仕方がある。ニーズとウォントである。だが、同じように「必要」と訳されながら、この二つの言葉の実際の意味は、かなり違う(ちが )のだ。
 3「ニーズ」という言葉は、空間的にいえば、外部の状況(じょうきょう)を判断して、割り出した必要性であり、時間的に見ると、過去から現在にかけて人間が経験したこと、得たものを基準にして割り出した必要性という意味に使われる。4これに対して「ウォント」は、自分の内部から出てくる必要性であり、現在と未来に時間軸(じく)をとった上での必要性を意味している。すなわち、欲望とか欠乏(けつぼう)を内包した「必要」がウォントの由来なのだ。
 5余談になるが、よく企業(きぎょう)のパンフレットなどに、「消費者のニーズをよく捉え(とら )て……」などと書かれているが、この表現はあまりよいとは思えない。ニーズというのは要するに過去の知識から割り出しただけのものであるから、そんなことをやっていたら企業(きぎょう)は立ち遅れ(た おく )てしまう。6それを書くならば、「消費者のウォントを見抜い(みぬ )て……」と書くべきだろう。
 とにかく、ニーズは、理性による判断から生まれた「必要」、ウォントは現在の自分の中にある何かとてもいたたまれないような、場合によってはたまらなく爆発(ばくはつ)したくなるような情念から生まれた「必要」という具合に解釈(かいしゃく)してもいいだろう。7私は、創造にはもちろんニーズもなければならないが、どこかの時点でウォントが生まれないとダメだと思うのである。つまり、創造活動を支える背景には「こんなものが創れたらいいな」と無心に思う欲望の念や、欠乏(けつぼう)しているものをひたすらに求める渇望(かつぼう)の念がなければならないと思うのだ。
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 8若い読者諸君には特にこのことを強調しておきたい。自分の将来を決めていくという時に、いろいろな情報がある。例えば、自分の偏差(へんさ)値がこの程度だからあの大学のこういう学部にいこうとか、こういう職種が有望だからこの企業(きぎょう)に就職しようという具合に、いろいろな情報からニーズを割り出して進路を決める人が非常に多い。
 9しかし、そういう決め方をした人は何らかの方法でニーズから割り出したものが、ウォントに切り替わら(き か  )ないかぎり、どこかで挫折(ざせつ)するのではないかと思う。「自分はこの学問をしたいんだ」「私はこの仕事につきたいんだ」というウォントをもった意志力がなければならないのである。0
 グロタンディエクやザリスキー先生のように、想像を絶する逆境の中を生きてきたハングリーな数学者が優れた業績をあげたのは、一つには、ウォントという情念が常に彼ら(かれ )を動かし続けたからに違い(ちが )ない。
 ものを創る過程には、総じて飛躍(ひやく)というものが必要である。創造しようとするものが、過去に類を見ない新しいものであればあるほど、なおさら、飛躍(ひやく)することが大事になってくる。そして飛躍(ひやく)するには、内なる欲望の力を借りなければならないのである。飛躍(ひやく)の原動力はニーズではなく、ウォントだと私は考えるのだ。

(広中平祐(へいすけ)「生きること 学ぶこと」)
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a 長文 5.4週 ra
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。展覧会も至る所で開かれている。だからといって、音楽を能率的に聴き(き )、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。おそらく、書物というものが鑑賞(かんしょう)するというより知識の伝授の媒体(ばいたい)と思われているせいであろう。確かに本とレコードでは違う(ちが )。本のほうがはるかに多目的である。鑑賞(かんしょう)するというよりは、情報を得たいために読まれる本のほうがずっと多いだろう。そんなことは十分承知の上で、なおかつ、私は遅読(ちどく)を勧める(すす  )。 
 速く読むということは一見能率的のように思えるが、結局は損をすることになる。私も必要に迫ら(せま )れて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いでよんだ本に限って、あとに何も残っていない。そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、全く読み違え(ちが )ていたことに驚く(おどろ )のである。こうなると、速読するよりは読まないほうがましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫ら(せま )れて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。しかし、必要に迫ら(せま )れたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫ら(せま )れる以上、あくまで誤解は許されないからだ。たとえ明日までにどうしてもこの一冊を読み上げねばならないという必要に迫ら(せま )れた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。そのほうが、いい加減に斜め(なな )読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 遅読(ちどく)を勧める(すす  )もう一つの理由は、いくら速く読んでみたところでたかが知れているということである。どんなに速読の技術を身に付けたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだときの二分の一に過ぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半
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分が前に述べたように誤読に陥り(おちい )やすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気付くであろう。実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択(せんたく)が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果を持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野は狭く(せま )なり、とても現代に追い付いていけないと言うかもしれない。確かにそういった不安が現代人を速読へと駆り立て(か た )ている。だが、そんなことは決してない。十冊読む人よりも五冊読む人のほうが視野が広く、立派な見識を身に付けているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。
 私は、読書とは「葦(よし)の髄(ずい)から天井(てんじょう)をのぞく」ことだと思っている。ふつうこの言葉は、そんなちっぽけな穴から天をのぞいてみても、広大な天のほんのわずかな部分が見えるだけだ、とその視野の狭(せま)さを笑ったものと解されている。確かにそういう意味だろう。しかし、実際にのぞいてみると分かるが、葦(よし)の髄(ずい)からでも結構天は仰げる(あお  )のである。いや、むしろ小さな穴からのぞいたほうが対象がよく見えることも多い。 
とにかく、本はゆっくり読むに限る。ゆっくり読めば一冊の本はどれほど多くを語ってくれることか。読書とはただそこに書かれていることを理解するという単純な作業なのではなく、いかにして、書物により多くのことを語らせるかという技術なのである。それは、優れたインタビュアーが相手からおもしろい話を十分に引き出すことができるようなものだ。性急な読書では本は何も語ってくれはしない。仮にその内容を要領よくつかんだとしても、ただそれだけの話である。それでは本を読んだというより、本をつかんだというに過ぎない。
 読書とはあくまで著者と読み手の対話なのである。読み手が時間をかけてゆっくりと問いかけなければ、著者は、それこそ通り一遍(いっぺん)の答しかしてくれないのである。

(森本哲郎(てつろう)「遅読(ちどく)術」)
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長文 5.4週 raのつづき
 1地球上の二酸化炭素は、大気と陸地、海洋とのあいだを出入りしています。
 陸地の植物は、光合成による無機物からの有機物生産(総一次生産といいます)の結果、一年に炭素換算(かんさん)で一二〇〇億トンの二酸化炭素を大気からとりこんでいますが、同時に呼吸のために一一九六億トンを排出(はいしゅつ)しています。2森林破壊(はかい)などの土地利用変化で一六億トンを排出(はいしゅつ)していますが、植林などをふくむ陸地での吸収で二六億トンの炭素を大気から固定しています。つまり陸地では、降水中の炭素量二億トンもふくめて一六億トンを大気からとりこんでいることになります。海洋は、さしひき一六億トンを大気から吸収しています。
 3一方、石油、石炭など化石燃料の燃焼によって、六四億トンの二酸化炭素が排出(はいしゅつ)されますが、吸収はありません。その結果、自然のバランスをこえて、さしひき三二億トンの炭素が排出(はいしゅつ)されて大気中の二酸化炭素を増やしつづけ、これが地球温暖化をひきおこしているとみられます。
 4バイオマスは、木を切って燃やして二酸化炭素を排出(はいしゅつ)しても、植林をすれば、いずれはまた、大気中の二酸化炭素を光合成で固定します。このようにバイオマスは、大気の炭素量に影響(えいきょう)をあたえないことから、カーボン・ニュートラルであるとみなされています。5バイオマスは、温室効果ガスの排出(はいしゅつ)がないカーボン・ニュートラルなエネルギー源として、地球温暖化対策の重要な柱のひとつになっています。
 世界の多くの国々は、バイオマスのエネルギー利用で二酸化炭素の排出(はいしゅつ)を減らす政策をすすめています。6二〇〇二年の「持続可能な開発に関する世界首脳会議」では、今後の実施(じっし)計画のなかで、バイオマスをふくむ再生可能エネルギーの利用促進(そくしん)が合意されました。
 日本でも、同年に政府がバイオマス・ニッポン総合戦略を作成して、各地にバイオマスタウンをつくるなど、バイオマス利用をすすめています。
 7バイオマスは太陽エネルギー、小水力、風力、地熱などとならんで日本では新エネルギーとよばれ、化石エネルギーや原子力に対して新しいエネルギー源とされていますが、もともとこれらのエネ
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ルギーは昔から使われてきたものを新しい技術でより効率よく、多様な形で利用しようとするものです。
 8消費してもつぎつぎとまた生みだすことができる資源を、再生可能資源とよんでいます。再生可能エネルギー源は、バイオマスのほかに太陽光や風力、水力などいろいろな自然エネルギーがありますが、工業原料にもなるのはバイオマスだけなので、エネルギーと原料と二重に期待されているわけです。
 9海外でも、バイオマスは化石エネルギーの消費を減らす重要な柱とみなされています。国際エネルギー機関(IEA)は、二〇二〇年の世界エネルギー需要(じゅよう)予測をしています。図のように、バイオマスと廃棄(はいき)物の割合は、世界のエネルギー需要(じゅよう)の約一〇%になっています。0図では、太陽エネルギー、風力などがその他の再生可能なエネルギーになっており、バイオマスも化石系のものをふくむ廃棄(はいき)物といっしょにしめされています。そして、再生可能エネルギー全体のなかでは、バイオマスが約七五%を占める(し  )ことになると予測されています。
 バイオマスを生かすには、その特性をフルに利用することが大切です。物質としてくりかえし使えばそれだけ、生産に投入したエネルギーはより有効利用できますし、うまく組み合わせると全体としての経済性も高まります。
 バイオマスの強みを生かして、日本の資源を徹底的(てっていてき)に活用し、化石資源を節約して、地球環境(かんきょう)をよくしたいものです。

(木谷収『バイオマスは地球環境(かんきょう)を救えるか』による)
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a 長文 6.1週 ra
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 1研究に限らず、大事業の成功に必要な三要素として、日本では昔から「運・鈍(どん)・根」ということが言われている。科学者の伝記を読むと、その人なりの「運・鈍(どん)・根」を味わうことができる。
 2「運」とは、幸運(チャンス)のことであり、最後の神頼み(かみだの )でもある。「人事を尽くし(つ  )て天命を待つ」と言われるように、あらゆる知恵(ちえ)を動員することで、逆に人の力の及ば(およ )ない運の部分も見えてくるようになる。3人事を尽くさ(つ  )ずにボーッとしているだけでは、チャンスを見送るのが関の山。運が運であると分かることも実力のうちなのだ。
 4次の「鈍(どん)」の方は、切れ味が悪くてどこか鈍い(にぶ )ということである。最後の「根」は、もちろん根気のことだ。途中(とちゅう)で投げ出さず、ねばり強く自分の納得がいくまで一つのことを続けていくことも、研究者にとって大切な才能である。5論文を完成させるまでの数々の自分の苦労を思い出してみると、「最後まであきらめない」、という一言に尽きる(つ  )。山の頂上をめざす登山や、ゴールをめざすマラソンと同じことである。
 6それでは、なぜ「鈍(どん)」であることが成功につながるのだろうか。分子生物学の基礎(きそ)を築いたM・デルブリュックは、「限定的いい加減さの原理」が発見には必要だと述べている。
 7もしあなたがあまりにいい加減ならば、決して再現性のある結果を得ることはなく、そして決して結論を下すことはできません。しかし、もしあなたがちょっとだけいい加減ならば、何かあなたを驚か(おどろ )せるものに出合った時には……それをはっきりさせなさい。
 8つまり、予想外のことがちょっとだけ起こるような、適度な「いい加減さ」が大切なのである。このように少しだけ鈍く(にぶ )抜け(ぬ )ていることが成功につながる理由をいくつか考えてみよう。
 9第一に、「先があまり見えない方が良い」ということである。頭が良くて先の予想がつきすぎると、結果のつまらなさや苦労の山の方にばかり意識が向いてしまって、なかなか第一歩を踏み出し(ふ だ )にくくなるからである。0
 第二に、「頑固(がんこ)一徹(いってつ)」ということである。「器用貧乏(きようびんぼう)」や「多芸は無芸」とも言われるように、多方面で才能豊かな人より、研究に
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しか能のない人の方が、頑固(がんこ)に一つの道に徹し(てっ )て大成しやすいということだ。誰(だれ)でも使える時間は限られている。才能が命じるままに小説を書いたりスポーツに熱中したり、といろいろなことに手を出してしまうと、一芸に秀でる(ひい  )間もなく時間が経ってしまう。私の恩師の宮下保司先生(脳科学)は、「頑固(がんこ)に実験室にこもる流儀(りゅうぎ)」を貫い(つらぬ )ており、私も常にこの流儀(りゅうぎ)を意識している。
 第三に、「まわりに流されない」ということである。となりの芝生(しばふ)はいつも青く見えるもので、となりの研究室は楽しそうに見え、いつも他人の仕事の方がうまくいっているように見えがちである。それから、科学の世界にも流行廃り(すた )がある。「自分は自分、人は人」とわり切って他人の仕事は気にかけず、流行を追うことにも鈍感(どんかん)になった方が、じっくりと自分の仕事に打ち込ん(う こ )で、自分のアイディアを心ゆくまで育てていけるようになる。
 第四に、「牛歩や道草をいとわない」ということである。研究の中では、地味で泥臭い(どろくさ )単純作業が延々と続くことがある。研究は決して効率がすべてではない。研究に試行錯誤(しこうさくご)や無駄(むだ)はつきものだ。研究が順調に進まないと、せっかく始めた研究を中途(ちゅうと)で投げ出してしまいがちである。成果を得ることを第一として、スピードと効率だけを追い求めていては、傍ら(かたわ )にあって、大発見の芽になるような糸口を見落としてしまうかもしれないのだ。(中略)
 頭のいい人は批評家に適するが行為(こうい)の人にはなりにくい。すべての行為(こうい)には危険が伴う(ともな )からである。怪我(けが)を恐れる(おそ  )人は大工にはなれない。失敗を怖がる(こわ  )人は科学者にはなれない。(中略)
 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚か(おろ )な赤裸(あかはだか)の自分を投げ出し、そうして唯々(いい)大自然の直接の教えをのみ傾聴(けいちょう)する覚悟(かくご)があって、初めて科学者にはなれるのである。

 (酒井(さかい)邦嘉(くによし)の文章)
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長文 6.1週 raのつづき
 1テレビで見える戦争の部分と見えない部分、その差がくっきりと出てきたことが、湾岸(わんがん)戦争の大きな特徴(とくちょう)である。テレビで戦争が見える、と一瞬(いっしゅん)思ったが、見えている部分はその一部である、ということに、一瞬(いっしゅん)遅れ(おく )て気がついてくる。2明るい部分が明るければ明るいほど、影(かげ)の部分、影(かげ)の形が、逆にはっきりしてくるともいえる。明るい部分とは、つまり映像や情報の流れている部分、暗い部分とは、映像が秘匿(ひとく)され、流れてこない部分である。
 3しかも、明るい部分は同時進行形、カラーの映像や音声つきで、そして大量に流れてくる。大量に情報が流れている、というのは、一見、情報がオープンに流れている、情報で満たされていると錯覚(さっかく)させるが、実は、その大量の情報は、その情報の影(かげ)にある、真実の情報を覆い(おお )かくす目くらましの効果を狙っ(ねら )ているものである。4いまのような情報化の時代の宣伝戦、情報戦は、情報を完全にシャットアウトするのではなく、むしろ情報をどんどん流すところに特徴(とくちょう)がある。情報を出さないことによってではなく、情報を積極的に流すことで、情報を管理する、操作するという方法である。
 5テレビは、映像情報に深くかかわっているだけに、目に見える部分、光の当たっている部分の情報を伝えることになりやすい。6テレビが、多くの情報を伝えれば伝えるほど、テレビのカメラが置かれていないところ、テレビカメラのアングルに入ってこない死角の部分、テレビのライトが当たっていない暗い部分があること、そしてテレビでは映像化しにくい重要な情報のあることを考えなければならない。
 7テレビによって見えている部分と見えない部分とを総合的に判断することによって、初めて、真実に近づくことができるのだ、といえる。
 しかも、テレビの発達した時代の情報戦宣伝戦では、見える部分の情報を流す役割を、映像を扱う(あつか )テレビが一手に引き受けることになりやすい。8テレビの伝える映像は、作為(さくい)によって出来た映像、作られた映像、虚偽(きょぎ)の映像、真実とは反対の映像の場合はもちろん、戦場からナマで送られてくる映像のように、映像そのものは真実であっても、全体像から切り取られた映像、真実のうちの一部、真実の一面にすぎないことも多い。
 9しかしたとえ一部であり一面であるにもせよ、テレビを通し
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て、しかもリアルタイムで「現場」を見てしまうと、人間は何となく、納得してしまう、満足してしまうことになりやすい。大量の情報が流れている時に、情報に対する飢餓(きが)感が少ないのは当然だ。0むしろ情報が全く流されずに、情報に対する飢餓(きが)、欲求の強い時にくらべて、情報操作、情報管理に対する抵抗(ていこう)は弱いともいえる。(中略)
 ソマリアでの食糧(しょくりょう)補給路を確保するために、首都モガディシオ近くに上陸したアメリカ軍(多国籍(こくせき)軍)は、先回りしたアメリカなどのテレビ・クルーの煌々(こうこう)としたライトの出迎え(でむか )を受けた。これでは上陸作戦も何もあったものではない、と米国防総省はメディア側に強く抗議(こうぎ)した。ソマリアの武装勢力の前に、自国軍の姿をさらけ出すようなものだ、という意味だろうが、もともと米国に対しては、武装勢力は抵抗(ていこう)をあきらめていたことを考えると、たてまえでは怒っ(おこ )てみても、メディアに報道されること、つまりメディアによって露出(ろしゅつ)されることは、ほんねのところでは歓迎(かんげい)していたのかもしれない。これからは、軍事力を動かすといっても、火力を使うよりは、存在を誇示(こじ)することにますます重点が移るだろうし、実際に戦闘(せんとう)を行っても、その何倍もの宣伝が必要になるからだ。ニュース源(ソース)の側がメディアによって露出(ろしゅつ)されたい、自らをメディアに露出(ろしゅつ)したいと望む状況(じょうきょう)が、メディアにとっては、新しい危険な状態だということにもなる。
 危険な状況(じょうきょう)は、戦争紛争(ふんそう)といった特別の状況(じょうきょう)の時だけの問題ではない。政治の世界で、行政の領域で、産業や企業(きぎょう)の分野で、あるいは文化や芸能界といったところまでもが、テレビに露出(ろしゅつ)される機会を必死に求めている時代だからだ。テレビにとりあげてほしい、テレビで広めてほしい、テレビに出演させてほしいと望む人たちは、政治家からタレント志望の若い女性まで、テレビの周辺に、うごめいているといってもよい。

(岡村(おかむら)麹明()の文章による)
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a 長文 6.2週 ra
 1国際感覚があるということは、ただ流暢(りゅうちょう)に外国語を話し外国人とそつなくつきあえるというような単純なことではありません。また国際感覚を身につけるということは、これさえ手に入れれば大丈夫(だいじょうぶ)というような一本の「魔法(まほう)の杖(つえ)」を見つけることでもありません。2国際感覚という言葉は、国際化という言葉がそうであるように、そのとらえ方が人によってまちまちだからです。
 ただ、いま私たちにとって大切だと思う問題は、たとえばそれが人権であれ、平和であれ、環境(かんきょう)であれ、それについて掘り下げ(ほ さ )て考えようとすれば、たいていの場合に、国際的な側面とかかわりあいをもってきます。3したがって、「国際感覚ってなんだろう」と考えることは、来たるべき二十一世紀に生きる私たちの生き方について考えることでもあるのです。それは、現代社会の中で、一人の人間が自分の生き方を貫こ(つらぬ )うとしたらいったいどういう資質が求められるのか、と問うことでもあります。
 4だから「国際感覚をもってる人って、どんな人でしょうね」とたずねられたとしたら、こう答えることだけはできそうです。「そうですね。あなたがたった一つの正答を期待しているとしたら、それを示すことは私にはできません。5でも、つぎのような最大公約数の回答を出すことならできるように思います」と。
 国際感覚を身につけている人というのは、たとえばつぎのような人のことです。「自分なりの意見をきちんともっている人」「それを正確に人に伝えることのできる人」6「つねにステレオタイプ(型どおり)の発想をさけようと努めている人」「海外のことだけでなく、日本についてもよく知ろうとしている人」そして「異文化と正面からむきあおうと心がけている人」などです。
 7ただ、私たち日本人の場合、どうしてもまず日本という国の枠(わく)を考え、その枠組み(わくぐ )の中で、「世界に誇れる(ほこ  )日本人の資質とは何か」と考えることになってしまいがちです。しかし、現代では、自分の国の国益さえ守れればそれでよい、という時代ではなくなってきています。8そのことは、グローバル・イシュー(地球的課題)が広く認識されるようになったことにもあらわれています。
 たとえば、世界の自然環境(かんきょう)を守ることと、ある国の経済的利益が衝突(しょうとつ)するということは、いくらでも起こりうることです。9そのときに私たちが、自分の国の国益だけにとらわれずに、より普遍(ふへん)的な視点から発想できるかどうかが問題になってきます。一つの時
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代を共に生きるということは、その時代が抱える(かか  )課題を、世界の人びとと共有することでもあるからです。0
 交通、通信手段の発達によって、実質的に地球は狭く(せま )なってきました。また、全世界が直面している困難な事態について、国境を越え(こ )て地球規模で協力しあうことが必要な時代になっています。いま時代は、国際化時代から地球時代へと、移り変わりつつあります。この変化に対応して、国家の枠組み(わくぐ )にそった国際感覚だけでなく、より広い、地球市民としての意識が要請(ようせい)されるようになってきました。
 この地球市民という言葉は、まだまだ私たちの耳にはなじまない言葉です。そもそも、私たち一人ひとりは、家族の一員であり、学校の生徒であり、クラブ活動のメンバーであり、自治体の住民であり、国家の国民であるという具合に、色々なレベルで帰属する集団や団体をもっています。それはあなたが同心円の中心に立って、そのまわりに大きな円がしだいに広がっていく様子を想像してもらうとわかりやすいかもしれません。地球市民というものは、そのいちばん広い同心円だと見ることもできます。
 地球市民は、地球上で暮らすすべての人びとが人間らしく生きることをたがいに保障しあうという理念によって結びつくべきものでしょう。「私が平和や人権を求めるように、地球上に暮らすほかのすべての人も、同じ願いをもつ権利がある」という考え方です。その意味で、地球市民であるということは、人間であることと同様に地球上に生きる私たち一人ひとりを包みこむ、もっとも普遍(ふへん)的な定義だといえるかもしれません。

(渡部(わたなべ)淳(じゅん)の文章による)
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a 長文 6.3週 ra
 1現代では学術研究の場においてだけでなく、企業(きぎょう)活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭(じんとう)にたって仕事を押し進め(お すす )ているのは専門家たちです。現代は、まさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。2それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕ん(はら )でいるのです。
 ただの専門家というのは、いわば塀(へい)に囲まれた住居の中だけで外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。3塀(へい)の中のことは四六時中よく見て廻(まわ)っているのですが、塀(へい)の外はなにも見えないし、かといって外へ出かけていく余裕(よゆう)もないのです。専門家は自分の専門とする事柄(ことがら)についてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄(ことがら)については無知だということになります。
 4ところが、自分の専門外の事柄(ことがら)についてある程度理解することができ、思慮(しりょ)分別を伴っ(ともな )た言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促し(うなが )たりすることがあるのです。5そういった言論の基盤(きばん)となるのは、何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般(いっぱん)的教養なのです。
 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。6大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、かれら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
 大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。7私たち一人一人が皆(みな)、自分の専門外の事柄(ことがら)に関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
 8「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄(ことがら)について考え、論じるときに拠り(よ )どころとなるのは常識です。そればかりではありません。9専
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門家が自分の専門の事柄(ことがら)について語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。0たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護(ようご)というのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。
 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。たんに皆(みな)がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄(ことがら)に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗(つうぞく)化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤(きばん)なのです。
 常識は言論の大きな基盤(きばん)です。けれども上手な言論というだけでなく、知恵(ちえ)を伴う(ともな )言論ということになると、教養が基盤(きばん)となるでしょう。
 教養は専門的技術(知識)と区別されています。プラトンは、その違い(ちが )をいくつかの対話篇(へん)のなかで指摘(してき)しています。たとえば『プロタゴラス』では、人が読み書きの先生や竪琴(たてごと)の先生や体育の先生から学ぶものは、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして、教養のために学ぶのだ、ということが言われています。医術や彫刻(ちょうこく)術のように、専門家(本職の師匠(ししょう))になるための技術として学ぶのではないということなのです。
 教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるのではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

(浅野楢英(ならひで)『論証のレトリック』による)
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a 長文 6.4週 ra
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ある夏の、ひどくむし暑い日のことだった。上の兄は学校へ行き、私と下の兄とだけが残されて、退屈(たいくつ)していた。二人はただ目的もなく大堰(おおせぎ)ばたの方へ歩いて行った。大堰(おおぜき)ばたの水は流れが止まったように淀ん(よど )でいて、岸には雑草がしげり、日ざしはじりじりと照りつけていた。そのとき兄は水面に近く、鮒(ふな)を見つけたのだった。
 鮒(ふな)は水温が上がり過ぎたために、苦しがって水面に浮かび(う  )、口をあけて喘い(あえ )でいた。それが意外にも五匹(ひき)、六匹(ぴき)……十匹(ぴき)もいた。私たちは興奮した。兄は流れの岸にうずくまり、手近なところに浮い(う )ている小鮒(こぶな)をそっと両手で追ってみた。鮒(ふな)は逃げる(に  )だけの気力もなく、黙っ(だま )て兄の手に捕らえ(と  )られた。それからが大変だった。水から上げたら魚は死んでしまう。鮒(ふな)を水の中で捕らえ(と  )たまま、兄はどうすることもできなかった。兄は顔だけをふり向けて、
「おい、うちへ帰って何か入れ物を持って来い。あき缶(かん)でも何でもいい。大急ぎだぞ」と言った。
 私は柔順(じゅうじゅん)な弟だった。いつも兄たちの命令には絶対服従だった。私は言いつけに従っていきなり走り出した。私自身、生きた鮒(ふな)を持って帰りたくもあった。だが、そこから私の家までは二百メートル以上もあった。私は日盛りの、人通りの絶えた乾い(かわ )た道を小さな下駄(げた)を鳴らして夢中になって走った。汗(あせ)を流し、暑さに喘ぎ(あえ )ながら家まで帰りつくと、あき缶(かん)を一つ見つけ出して、また同じ道を引き返した。その途中(とちゅう)で、石につまずいて転び、膝(ひざ)をすりむいてしまった。私は痛みに耐え(た )、泣きながら走った。それほど私は柔順(じゅうじゅん)な弟だった。そして兄を怨ん(うら )でいた。川岸まで駆け(か )戻っ(もど )てみると、兄はまだ元のところにうずくまって、一匹(ひき)の小鮒(こぶな)を両手でつかまえていた。兄は家に帰ってから、(おれが獲(と)った鮒(ふな)だ)と言った。私はそれが不満だった。
 鮒(ふな)よりも、私はトンボが好きだった。一番大型のオニヤンマは大型という魅力(みりょく)はあるが、黒と黄色のだんだら縞(しま)で下品だった。つか
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まえたことのうれしさはあるが、少年の心を陶酔(とうすい)にさそう「美」がなかった。そこへいくと、ギンヤンマという、あの中型のヤンマの美しさは私をうっとりさせた。私はほとんどヤンマを尊敬していた。
 夕方になると、時として私の家の前の道路に、無数のヤンマが飛んでくることがあった。おびただしい数だった。ところがその時刻がちょうど私の家の夕食だった。夕飯を食べながら、私は気が気ではない。箸(はし)を投げ出すなり土間に飛び降り、下駄(げた)を突っ(つ )かけると同時に竹竿(たけざお)をつかんで駆け出す(か だ )。ヤンマの群れの中で、やみくもに竹竿(たけざお)をふりまわすと、羽が切れたり、尾(お)が切れたりして落ちてくる。時として全身無傷のヤンマを取ることがあった。これは私たちの宝物だった。魚籠(びく)に入れて、布でふたをして、持って帰る。小部屋を閉め切って、ヤンマを飛ばしてみる。その飛び方の優雅(ゆうが)さに私は見惚れる(みほ  )のだった。

(石川達三「私ひとりの私」)
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長文 6.4週 raのつづき
 1一体、人間の頭の良さの特徴(とくちょう)とは何か。多くの研究者が、人間の知能の本質はその社会性にあると考えている。養老孟司(たけし)先生は、「教養とは他人の心がわかることである」としばしば言われる。他人と心を通じ合わせ、協力して社会をつくり上げることが、人間の頭の良さの本質である。
 2頭の良さが社会性と深く関わるということを、意外に感じる人もいるかもしれない。学校で勉強ができる子どもはなんとなくツンと澄まし(す  )ていて、あまりできない子のほうがかえって他人と温かく接することができる。3一般(いっぱん)にはそのような思い込み(おも こ )があるかもしれないが、現代の脳科学では、頭の良さとはすなわち他人とうまくやっていけることであると考えるのだ。
 他人の心を読み取る能力を、専門用語では「心の理論」という。コンピュータは、いくら計算が速くできたとしても、心の理論を持たない。4他人の心を読み取り、初めて会う人ともいきいきとしたやりとりができるといった「コミュニケーション」の能力においては、人間はコンピュータよりもまだまだ遙()かに優れているのである。
 人間の社会的知性を、他の動物に比べてみると、どうだろうか。5人間以外にも、社会をつくる動物はいる。アリは高度に発達した分業体制を持つし、猿(さる)の群れの中には社会的地位のようなものがある。しかし、これらの動物に比べてみても、人間の社会的知性が特に優れていることは疑いない。
 6現在までに得られている知見を総合すると、厳密な意味で他人の心を読み取ることができるのは、全ての動物の中で人間だけであるとされる。「惻隠(そくいん)の情」「あうんの呼吸」「本音と建前」といった言葉に表れているように、相手の考えが身振り(みぶ )や周囲の状況(じょうきょう)からは容易に判断できない場合でも、目には見えない相手の心を読み取る能力に大変優れている。
 7そのような能力は、動物にもあると考える人もいるかもしれない。ペットを飼っている人は、うちのポチ、うちのミイちゃんは私の心がわかるのよ、と反論したくなるかもしれない。
 犬は、人間の行動から意図を察知する能力に長けている。8飼い主が見た方向に自分も目を向けたり、手の動きが示すほうに走ったりといった行動は、知能が発達しているとされるチンパンジーよりもむしろ敏捷(びんしょう)で反応が良い。
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 どうして、犬は人間の意図を読み取れるようになったのか。9人類の歴史の中で、犬がペットとして飼われるようになった経緯(けいい)は明確ではないが、犬と人間がお互い( たが )の存在を「許容」するようになったことが一つの鍵(かぎ)であったと考えられている。
 野生の動物は、お互い( たが )に対する警戒(けいかい)心に満ちている。0異種の動物はもちろん、同種の仲間にさえ容易に警戒(けいかい)を解こうとはしない。目を合わせれば闘っ(たたか )たり、逃げだし(に   )たりすることが普通(ふつう)である。そのような状況(じょうきょう)では、相手の振る舞い(ふ ま )に合わせて自分が協力したり、微妙(びみょう)なニュアンスを読み取ったりといった認知能力は発達しない。
 英語に「犬は人間の最良の友」という表現がある。ある時期から、犬と人間がお互い( たが )の存在を許容し、リラックスしたままで「一緒(いっしょ)にいること」が可能になったことが、犬と人間の「社会的な関係性」が発達する上で大切なきっかけとなったと、科学者たちは考えているのだ。
 犬と人間だけではない。人間同士の社会的知性の進化においても、お互い( たが )の存在を受け入れ、共生することが本質的に重要であったとされる。
 異質な他者を受け入れ、共生することが「頭が良くなる」ことにつながる。最先端(さいせんたん)の科学の理論が描き出し(えが だ )たそのようなシナリオには、世知辛く(せちがら )なっていく現代を生きる人間が耳を傾ける(かたむ  )べきメッセージが潜ん(ひそ )でいる。
 一緒(いっしょ)に仲良くいることで頭が良くなる。私たち人間は、そのようにして「万物の霊長(れいちょう)」になったのである。

(茂木(もぎ)健一郎(けんいちろう)「それでも脳はたくらむ」)
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