a 長文 5.1週 ra
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 文明とは何かを地球システム論的に考えると、「人間けんを作って生きる生き方」となります。人間けんの誕生がなぜ一万年前だったかというのは、気候システムの変動に関わってきます。気候システムが現在のような気候に安定してきたのは一万年前のことです。それに適応してそのころ、我々はその生き方を変えたんですね。
 人間けんを作って生きる生き方というのは、じつは農耕牧畜ぼくちくという生き方です。それ以前、人類は狩猟しゅりょう採集という生き方をしてきた。狩猟しゅりょう採集というのはライオンもサルも、あらゆる動物がしている生き方です。したがってこの段階までは人類と動物の間に何の差異もなかった。これを地球システム論的に分析ぶんせきすると、生物けんの中の物質循環じゅんかんを使った生き方ということになります。生物けんの中に閉じた生き方です。
 それに対して農耕牧畜ぼくちくはというと、たとえば森林を伐採ばっさいして畑に変えると、太陽からの光に対するアルベド(反射能)が変わってしまう。ということは、地球システムにおける太陽エネルギーの流れを変えているわけです。また、雨が降ったとき、大地が森林でおおわれているときと畑とではその侵食しんしょくの割合が異なります。別の言葉でいえば、そこに水が滞留たいりゅうしている時間が違っちが てくる。すなわち、エネルギーの流れだけではなく、地球の物質循環じゅんかんも変わるということです。これを地球システム論的に整理して概念がいねん化すると、人間けんを作って生きるということになる。人類が生物けんから飛び出して、人間けんを作って生き始めたために、地球システムの構成要素が変わったわけです。
 ところで、先ほど一万年前に人間けんができたのは気候が変わったからだと言いました。そういう時期は最近の一〇〇万年くらいをとっても何回かあったでしょう。人類の誕生以来の歴史七〇〇万年ぐらいまで遡っさかのぼ てみれば、一万年前と同じような時期が何度もあったはずですから、たとえばネアンデルタール人が農耕を始めてもよかったことになる。でも、彼らかれ はそうしなかった。農耕牧畜ぼくちくという生き方を選択せんたくし、人間けんを作ったのは、われわれ現生人類
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だけなんです。
 それはなぜなのか。現生人類に固有の、何か生物学的な理由があるのではないかと考えられます。類人猿るいじんえんや他の人類にはなく、我々だけがもっている特徴とくちょうは何だろうと考えると、まず思い当たるのは「おばあさん」の存在です。おばあさんとは、生殖せいしょく期間が過ぎても生き延びているメスのことです。たとえば、類人猿るいじんえんのチンパンジーのメスと比べても、現生人類のメスは生殖せいしょく期間終了しゅうりょう後の寿命じゅみょうが長い。なおこの場合、オスは関係ありません。オスは死ぬまで生殖せいしょく能力があります。したがって、おじいさんは現生人類以外にも存在します。しかし、おばあさんは他の哺乳類ほにゅうるいには存在しないし、ネアンデルタール人の化石からも、現生人類のおばあさんに相当する骨は見つかっていません。おばあさんの存在は、現生人類だけに特徴とくちょう的なことなんです。
 では、おばあさんが存在すると何が起こるのか。すぐに思いつくのは、人口増加です。なぜかというと、おばあさんはかつて子供を産んだ経験をもつわけですから、お産の経験をむすめに伝えることができる。するとお産がより安全になり、新生児や妊婦にんぷの死亡率も低くなりますね。
 さらにおばあさんは、むすめが産んだ子供のめんどうもみます。たとえばむすめ生殖せいしょく期間が一五年として、子育てに五年かかるとしたら三人しか産めない。ところがおばあさんがいることで五年が三年に短縮されたら五人産める。ということで、おばあさんの存在が人口増加をもたらしたのではないかと、私は考えています。このことは最近の研究からも確かめられています。
 我々現生人類は一五万年前ぐらいにアフリカで誕生したのですが、五、六万年前ぐらいには、すでに地球上に広く分布するようになっていました。人類のような大型動物が、なぜこんな短期間に世界中に拡散していったのか。これも現生人類の人口増加という問題を考えるとその理由が判ります。

 (松井まつい孝典『松井まつい教授の東大駒場こまば講義録』)
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長文 5.1週 raのつづき
 日本がいかに湿潤しつじゅんな国か、私は外国を旅する度に、いやというほど思い知らされる。ヨーロッパと日本とではそれほど風土の差がないように思われるが、湿度しつど違うちが 。だから、やたらにのどが渇くかわ 日本人の旅行者にとって、何よりつらいのは、ヨーロッパの街でレストランに入っても、カフェへ立ち寄っても、水を出してくれないことである。人々はそんなに水を飲まないのだ。それに、日本以外の国では、生の水をそのまま飲めるようなところはめったにない。だから、水はコーヒーなどよりも高い場合がしばしばある。金を払っはら て水を飲むという発想が日本人にはないから、代金を請求せいきゅうされてびっくりする。私も驚きおどろ 、いまさらのように日本人は「水の民」なんだなあと痛感した。
 そのようなわけで、日本人のたましい奥底おくそこには、いつも水音が響いひび ているのである。日本人は水の音に限りない親しみを抱きいだ 、安らぎを覚え、懐かしなつ  さを感じるのだ。芭蕉ばしょうが「古池や」の一句をもって俳聖のように仰があお れ、蕪村ぶそんが春の海を「のたりのたり」と表現したことで人口に膾炙かいしゃされるようになったのも、けっしてゆえないことではない。
 では、日本人の胸のおくで、水はどのような音を響かせひび  ているのであろうか。水音を表現した擬態語ぎたいご擬声語ぎせいごが、その微妙びみょうな音をさまざまに伝えている。擬態語ぎたいごというのは、ものごとの状態を象徴しょうちょう的に音で表した語であり、擬声語ぎせいごというのは物事や動物の鳴き声などを写実的にとらえた語である。言語学では、それをオノマトペというが、日本語には、こうした擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごがきわめて多い。オノマトペが日本語の特質だといってもいいほどである。そして、それも水と深い関係があるように思われる。というのは、数多くの擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごのなかでも、ことに水にえんのある語が目立つからである。
 じっさい、他の国の言葉で日本語ほど多様な水の表現をもっている例はないといってもいいのではあるまいか。だから、さきの蕪村ぶそんの句を外国語に翻訳ほんやくするのは至難なのである。たとえば英語やドイツ語やフランス語で「のたりのたり」をどのように表現したら
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いいのだろう。私はさんざん苦労した揚げ句あ く、ついにこの句を外国の知人に説明し得なかった。
 日本語には、多彩たさいな水の表現があるのだが、こうしたオノマトペは、同質社会でこそ微妙びみょうな伝達の機能を発揮できるが、異質な風土異質な文化のなかに住む人にはさっぱり通じない。なぜなら、擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごというのは、あくまで感覚的な言語であって、言語の重要な性格である抽象ちゅうしょう性をもたないからだ。
 したがって、感覚的にわかるこれらの言葉の意味を説明するとなると、とたんに行きづまってしまう。オノマトペは、いわば音楽なのであり、その意味を伝えることのむずかしさは音楽の与えるあた  イメージを言語で解説する困難さと同じだといってよい。この意味で擬声語ぎせいご擬態語ぎたいごは言葉の本質とも言うべき抽象ちゅうしょう力を欠く低次の言語だといえなくもない。しかし、言語がその抽象ちゅうしょう力をもって伝達し得る領域には限界がある。人間の言語は、しょせん万能ではないのだ。
 もし言語がこの世界の全てを表現し尽くせるつ   ものなら、言葉さえあれば、何もかも理解できてしまうだろう。しかし、そうはいかない。そうはいかないからこそ、言葉では言い表せない別の表現を、人間は考え出してきたのだ。例えば絵画であり音楽である。セザンヌの絵を、あるいはモーツアルトの音楽を言葉にそっくり置き換えるお か  などということができるであろうか。私はオノマトペを言語と音楽との接点として考える。それは人間の感覚を音声そのものによって表現しようとする伝達の手段だからだ。

(森本哲郎 『日本語 表と裏』)
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