a 長文 6.1週 ra
一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。
 研究に限らず、大事業の成功に必要な三要素として、日本では昔から「運・どん・根」ということが言われている。科学者の伝記を読むと、その人なりの「運・どん・根」を味わうことができる。
 「運」とは、幸運(チャンス)のことであり、最後の神頼みかみだの でもある。「人事を尽くしつ  て天命を待つ」と言われるように、あらゆる知恵ちえを動員することで、逆に人の力の及ばおよ ない運の部分も見えてくるようになる。人事を尽くさつ  ずにボーッとしているだけでは、チャンスを見送るのが関の山。運が運であると分かることも実力のうちなのだ。
 次の「どん」の方は、切れ味が悪くてどこか鈍いにぶ ということである。最後の「根」は、もちろん根気のことだ。途中とちゅうで投げ出さず、ねばり強く自分の納得がいくまで一つのことを続けていくことも、研究者にとって大切な才能である。論文を完成させるまでの数々の自分の苦労を思い出してみると、「最後まであきらめない」、という一言に尽きるつ  。山の頂上をめざす登山や、ゴールをめざすマラソンと同じことである。
 それでは、なぜ「どん」であることが成功につながるのだろうか。分子生物学の基礎きそを築いたM・デルブリュックは、「限定的いい加減さの原理」が発見には必要だと述べている。
 もしあなたがあまりにいい加減ならば、決して再現性のある結果を得ることはなく、そして決して結論を下すことはできません。しかし、もしあなたがちょっとだけいい加減ならば、何かあなたを驚かおどろ せるものに出合った時には……それをはっきりさせなさい。
 つまり、予想外のことがちょっとだけ起こるような、適度な「いい加減さ」が大切なのである。このように少しだけ鈍くにぶ 抜けぬ ていることが成功につながる理由をいくつか考えてみよう。
 第一に、「先があまり見えない方が良い」ということである。頭が良くて先の予想がつきすぎると、結果のつまらなさや苦労の山の方にばかり意識が向いてしまって、なかなか第一歩を踏み出しふ だ にくくなるからである。
 第二に、「頑固がんこ一徹いってつ」ということである。「器用貧乏きようびんぼう」や「多芸は無芸」とも言われるように、多方面で才能豊かな人より、研究に
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しか能のない人の方が、頑固がんこに一つの道に徹してっ て大成しやすいということだ。だれでも使える時間は限られている。才能が命じるままに小説を書いたりスポーツに熱中したり、といろいろなことに手を出してしまうと、一芸に秀でるひい  間もなく時間が経ってしまう。私の恩師の宮下保司先生(脳科学)は、「頑固がんこに実験室にこもる流儀りゅうぎ」を貫いつらぬ ており、私も常にこの流儀りゅうぎを意識している。
 第三に、「まわりに流されない」ということである。となりの芝生しばふはいつも青く見えるもので、となりの研究室は楽しそうに見え、いつも他人の仕事の方がうまくいっているように見えがちである。それから、科学の世界にも流行廃りすた がある。「自分は自分、人は人」とわり切って他人の仕事は気にかけず、流行を追うことにも鈍感どんかんになった方が、じっくりと自分の仕事に打ち込んう こ で、自分のアイディアを心ゆくまで育てていけるようになる。
 第四に、「牛歩や道草をいとわない」ということである。研究の中では、地味で泥臭いどろくさ 単純作業が延々と続くことがある。研究は決して効率がすべてではない。研究に試行錯誤しこうさくご無駄むだはつきものだ。研究が順調に進まないと、せっかく始めた研究を中途ちゅうとで投げ出してしまいがちである。成果を得ることを第一として、スピードと効率だけを追い求めていては、傍らかたわ にあって、大発見の芽になるような糸口を見落としてしまうかもしれないのだ。(中略)
 頭のいい人は批評家に適するが行為こういの人にはなりにくい。すべての行為こういには危険が伴うともな からである。怪我けが恐れるおそ  人は大工にはなれない。失敗を怖がるこわ  人は科学者にはなれない。(中略)
 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かおろ 赤裸あかはだかの自分を投げ出し、そうして唯々いい大自然の直接の教えをのみ傾聴けいちょうする覚悟かくごがあって、初めて科学者にはなれるのである。

 (酒井さかい邦嘉くによしの文章)
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長文 6.1週 raのつづき
 テレビで見える戦争の部分と見えない部分、その差がくっきりと出てきたことが、湾岸わんがん戦争の大きな特徴とくちょうである。テレビで戦争が見える、と一瞬いっしゅん思ったが、見えている部分はその一部である、ということに、一瞬いっしゅん遅れおく て気がついてくる。明るい部分が明るければ明るいほど、かげの部分、かげの形が、逆にはっきりしてくるともいえる。明るい部分とは、つまり映像や情報の流れている部分、暗い部分とは、映像が秘匿ひとくされ、流れてこない部分である。
 しかも、明るい部分は同時進行形、カラーの映像や音声つきで、そして大量に流れてくる。大量に情報が流れている、というのは、一見、情報がオープンに流れている、情報で満たされていると錯覚さっかくさせるが、実は、その大量の情報は、その情報のかげにある、真実の情報を覆いおお かくす目くらましの効果を狙っねら ているものである。いまのような情報化の時代の宣伝戦、情報戦は、情報を完全にシャットアウトするのではなく、むしろ情報をどんどん流すところに特徴とくちょうがある。情報を出さないことによってではなく、情報を積極的に流すことで、情報を管理する、操作するという方法である。
 テレビは、映像情報に深くかかわっているだけに、目に見える部分、光の当たっている部分の情報を伝えることになりやすい。テレビが、多くの情報を伝えれば伝えるほど、テレビのカメラが置かれていないところ、テレビカメラのアングルに入ってこない死角の部分、テレビのライトが当たっていない暗い部分があること、そしてテレビでは映像化しにくい重要な情報のあることを考えなければならない。
 テレビによって見えている部分と見えない部分とを総合的に判断することによって、初めて、真実に近づくことができるのだ、といえる。
 しかも、テレビの発達した時代の情報戦宣伝戦では、見える部分の情報を流す役割を、映像を扱うあつか テレビが一手に引き受けることになりやすい。テレビの伝える映像は、作為さくいによって出来た映像、作られた映像、虚偽きょぎの映像、真実とは反対の映像の場合はもちろん、戦場からナマで送られてくる映像のように、映像そのものは真実であっても、全体像から切り取られた映像、真実のうちの一部、真実の一面にすぎないことも多い。
 しかしたとえ一部であり一面であるにもせよ、テレビを通し
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て、しかもリアルタイムで「現場」を見てしまうと、人間は何となく、納得してしまう、満足してしまうことになりやすい。大量の情報が流れている時に、情報に対する飢餓きが感が少ないのは当然だ。むしろ情報が全く流されずに、情報に対する飢餓きが、欲求の強い時にくらべて、情報操作、情報管理に対する抵抗ていこうは弱いともいえる。(中略)
 ソマリアでの食糧しょくりょう補給路を確保するために、首都モガディシオ近くに上陸したアメリカ軍(多国籍こくせき軍)は、先回りしたアメリカなどのテレビ・クルーの煌々こうこうとしたライトの出迎えでむか を受けた。これでは上陸作戦も何もあったものではない、と米国防総省はメディア側に強く抗議こうぎした。ソマリアの武装勢力の前に、自国軍の姿をさらけ出すようなものだ、という意味だろうが、もともと米国に対しては、武装勢力は抵抗ていこうをあきらめていたことを考えると、たてまえでは怒っおこ てみても、メディアに報道されること、つまりメディアによって露出ろしゅつされることは、ほんねのところでは歓迎かんげいしていたのかもしれない。これからは、軍事力を動かすといっても、火力を使うよりは、存在を誇示こじすることにますます重点が移るだろうし、実際に戦闘せんとうを行っても、その何倍もの宣伝が必要になるからだ。ニュース源(ソース)の側がメディアによって露出ろしゅつされたい、自らをメディアに露出ろしゅつしたいと望む状況じょうきょうが、メディアにとっては、新しい危険な状態だということにもなる。
 危険な状況じょうきょうは、戦争紛争ふんそうといった特別の状況じょうきょうの時だけの問題ではない。政治の世界で、行政の領域で、産業や企業きぎょうの分野で、あるいは文化や芸能界といったところまでもが、テレビに露出ろしゅつされる機会を必死に求めている時代だからだ。テレビにとりあげてほしい、テレビで広めてほしい、テレビに出演させてほしいと望む人たちは、政治家からタレント志望の若い女性まで、テレビの周辺に、うごめいているといってもよい。

岡村おかむら麹明の文章による)
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