1現代では学術研究の場においてだけでなく、企業活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭にたって仕事を押し進めているのは専門家たちです。現代は、まさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。2それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕んでいるのです。
ただの専門家というのは、いわば塀に囲まれた住居の中だけで外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。3塀の中のことは四六時中よく見て廻っているのですが、塀の外はなにも見えないし、かといって外へ出かけていく余裕もないのです。専門家は自分の専門とする事柄についてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄については無知だということになります。
4ところが、自分の専門外の事柄についてある程度理解することができ、思慮分別を伴った言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促したりすることがあるのです。5そういった言論の基盤となるのは、何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般的教養なのです。
アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。6大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、かれら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。7私たち一人一人が皆、自分の専門外の事柄に関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
8「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠りどころとなるのは常識です。そればかりではありません。9専
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