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 現代では学術研究の場においてだけでなく、企業きぎょう活動の場においてもまた専門化がすすんでいます。それぞれの場で陣頭じんとうにたって仕事を押し進めお すす ているのは専門家たちです。現代は、まさに専門家たちの時代であるというべきかもしれません。それだけにまた現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性もおおいに孕んはら でいるのです。
 ただの専門家というのは、いわばへいに囲まれた住居の中だけで外からの情報を得ることもなく、生活している人みたいなものです。へいの中のことは四六時中よく見て(まわっているのですが、へいの外はなにも見えないし、かといって外へ出かけていく余裕よゆうもないのです。専門家は自分の専門とする事柄ことがらについてはよく知っていても、ただそれだけだったらほとんどすべての事柄ことがらについては無知だということになります。
 ところが、自分の専門外の事柄ことがらについてある程度理解することができ、思慮しりょ分別を伴っともな た言論を展開できる人たちがいるのです。その言論は当の専門家をもうなずかせたり、一考を促しうなが たりすることがあるのです。そういった言論の基盤きばんとなるのは、何なのでしょうか。それはもはや専門的な知識や技術ではなく、常識や一般いっぱん的教養なのです。
 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念)に基づいて言論を展開することが有効だとしています。大衆を相手にした場合、大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙して、ほかの人たちの意見にではなく、かれら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということです。
 大衆というのは、ここでは専門的知識をもたない人たちのことを意味しています。私たち一人一人がみな、自分の専門外の事柄ことがらに関してはそういう大衆の一人だといえるでしょう。専門家がきわめて精確な専門的知識に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門家以外の大衆には難しくてついていけないわけです。
 「エンドクサ」「人々に共通な見解」というのは、常識にほかなりません。人が自分の専門外の事柄ことがらについて考え、論じるときに拠りよ どころとなるのは常識です。そればかりではありません。
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門家が自分の専門の事柄ことがらについて語る場合でも、専門的知識をもたない大衆を相手にするならば、常識を通じてでなければわかってはもらえないでしょう。常識というのは、時代によっても社会によっても異なります。たとえば昔は「地球は不動である」というのが常識であったのが、いまは「地球は動く」というのが常識です。しかしまた、たとえば基本的人権の擁護ようごというのはいまや世界の常識であっても、その人権の内容が異なるとすれば、基本的人権に関するある国での常識が他の国では通用しないこともあるわけです。
 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。たんにみながそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄ことがらに関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗つうぞく化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、または非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤きばんなのです。
 常識は言論の大きな基盤きばんです。けれども上手な言論というだけでなく、知恵ちえ伴うともな 言論ということになると、教養が基盤きばんとなるでしょう。
 教養は専門的技術(知識)と区別されています。プラトンは、その違いちが をいくつかの対話へんのなかで指摘してきしています。たとえば『プロタゴラス』では、人が読み書きの先生や竪琴たてごとの先生や体育の先生から学ぶものは、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして、教養のために学ぶのだ、ということが言われています。医術や彫刻ちょうこく術のように、専門家(本職の師匠ししょう)になるための技術として学ぶのではないということなのです。
 教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるのではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

(浅野楢英ならひで『論証のレトリック』による)
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