a 長文 7.1週 ri2
 1柳田(やなぎだ)國男(くにお)の日記によれば、柳田(やなぎだ)は、一九四五年八月一一日――「土よう 晴あつし」とある――に、元警視総監(けいしそうかん)長岡(ながおか)隆一郎(りゅういちろう)より、「時局の迫れ(せま )る話を」、つまり終戦が近いことを知らされる。2日記は、この事実を記したあと、「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」と、自身の決意を記した文が続く。
 この決意の結果、柳田(やなぎだ)が戦後まもなく上梓(じょうし)したのが『先祖の話』である。3この著作での柳田(やなぎだ)の学問的な問題意識は、家の存続ということの信仰(しんこう)上の基盤(きばん)を明らかにすることにあった。それはさらに、戦争における死者を救済し、慰霊(いれい)しなくてはならないという、実践(じっせん)的な問題意識によって駆り立て(か た )られていた。4「人を甘んじ(あま  )て邦家(ほうか)の為(ため)に死なしめる道徳に、信仰(しんこう)の基底が無かつたといふことは考へられない。さうして以前にはそれが有つたといふことが、我々にはほゞ確かめ得られるのである」。戦争による死を犬死にしてはならない、というわけである。
 5だが、家の存続を支える祖霊(れい)崇拝(すうはい)の伝統の存在を実証することが、どうして、死者の救済になるのだろうか? 戦場に散った若者たちの死は、国のための、国体のための、もっと端的(たんてき)に言えば天皇や皇室のための死であった。6敗戦ということは、死者たちがそれのために死んでいったものが、つまり天皇や皇国といった観念が、無意味なものへと転ずることである。つまり、天皇をその内部に位置づける万世一系の血統から、その超越(ちょうえつ)性が完全に奪わ(うば )れることを意味する。7このとき、死者たちの死を無価値から救済するためには、皇室や天皇家の伝統などはその一部でしかないような、もっと包括(ほうかつ)的で深い伝統が、日本人という「民族の自然」にはあることを実証し、その死を意味づけ直すほかない。8そうして、死をあらためて意味づけるような参照枠(わく)として柳田(やなぎだ)が提起したのが、家の存続を支える先祖信仰(しんこう)である。皇室や国体のため(のみ)の犠牲(ぎせい)と見れば、若者たちの死や彼ら(かれ )を戦場へと送り出した戦前・戦中の日本人の行動は、無価値だったとしか解釈(かいしゃく)できない。9しかし、彼ら(かれ )が守ろうとしたのは、敗戦によって失われることのない家であり、それゆえ彼ら(かれ )は祖霊(れい)の集合の中に迎え入れ(むか い )られるのだとすれば、その死
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も、それを応援(おうえん)した人々の行動も無価値とは言えないだろう。
 0なぜ、柳田(やなぎだ)は家の存続にこだわるのか。家が、常民の道徳・規範(きはん)の源泉になっていると、柳田(やなぎだ)は考えるからである。家とは、死者を、祖霊(れい)の集合の中に繰り込み(く こ )、生者と親しい相互(そうご)交流の関係におくシステムである。柳田(やなぎだ)によれば、常民が道徳的でありうるのは、祖霊(れい)のまなざしによって見守られている、との意識があるからだ。桑原(くわばら)武夫との対談で、柳田(やなぎだ)は、日本人の美質として「義憤(ぎふん)」と「制裁があること」を挙げ、それは、「あなたと話をしていても、あの隅(すみ)あたりでだれかが聴い(き )ていて、あれあんな心にもないことを言っている、と言われたんじゃたまらんという」心持ちによって支えられている、と論じている。「あの隅(すみ)あたりで」あなたを見たり、聴い(き )たりしているのが、祖霊(れい)である。あるいは、「気がとがめる」という感覚も、祖霊(れい)のまなざしを前提にしている。それは、「自分の周囲の、自分のことを一番憂え(うれ )ている人(つまり祖霊(れい))が一緒(いっしょ)になって気にかけるだろう」という意味だからである。
 ここには、常民の現在を承認したり否認したりする、「超越(ちょうえつ)」的なまなざしを確保しようという問題意識がある。そのまなざしを、「家」というシステムを媒介(ばいかい)にして定礎(ていそ)しようとするときには、そのまなざしの「超越(ちょうえつ)性」は極小化し、「内在性」の方に引き寄せられている。すなわち、まなざす祖霊(れい)は、常民の経験的な現在との間に、親密な相互(そうご)交流がありうるような、具体的な他者として表象され、イメージされているのだ。それは、経験的な他者の直接の延長上にある。
 柳田(やなぎだ)は、敗戦がもたらした空白を埋める(う  )ものを、日本社会の堅固(けんご)な――と彼(かれ)が信ずる――伝統の中に見出そうとした。 

(大澤()真幸『不可能性の時代』による)
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a 長文 7.2週 ri2
 1「近ごろの若いものは……」などという言いまわしがあります。これは、おそらく、はるかな大昔からつづけられてきた繰り(く )ごとでしょう。2現在しぶい顔をして、そんな文句を言っている人でも、かつて若かったころには、自分の親父とか先輩(せんぱい)などに、さんざんそう言って罵ら(ののし )れてきたにちがいないのですが、そのくせ、こんど自分の番になると、やはり同じような言葉づかいで、新しく出てくるものをさまたげようとしています。3自分では正直に良心的に、むしろきわめて好意的に判断しているつもりでも、新しくおこってきたものが危険に見えてしかたがないものです。
 4ところで、そこが問題です。新しいものには、新しい価値規準があるのです。それが、なんの衝撃(しょうげき)もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。5だから、「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの、自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっている場合があるということを十分に疑い、慎重(しんちょう)に判断すべきです。
 6たとえ未熟でも若いということは生命的にのぞましいことです。いくら年のコウ、亀(かめ)のコウを鼻にかけ、若いものを見さげても、やはり年寄りだと言われるといやな気がするし、若いと言われればおせじだとわかっていてもうれしくなる。7若いということは、無条件にいいことだと考えてよいのです。そして、若さこそ二度と取りかえせないものです。若いものの言動が気になるのは、それに対する絶望的な一種のやきもちであり、ひがみ根性だと考えるべきです。8「近ごろの若いものは……」などと、かりそめにも言いたくなりだしたら、それはただちに老衰(ろうすい)の初期兆候だと考えて、ゆめゆめ口には出さず、つつしんだほうがお身のためだと忠告しておきます。
 9尊敬すべき老人にたいしては、やや苛酷(かこく)で乱暴なものの言い方をしたようですが、しかし私がここで年寄りというのは、けっして、たんに年齢(ねんれい)的な意味ではないのです。0若さというのは、その人の青春に対する決意できまります。いつも自分自身を脱皮(だっぴ)し、固定しない人こそ、つねに青春をたもっているのです。現在、権威(けんい)にされているものでも、かつて、古い権威(けんい)を否定したときの情熱をもちつづけ、さらに飛躍(ひやく)して自分自身と時代をのりこえて進んでいる
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場合には、その人はうち倒さ(たお )れる古い権威(けんい)側ではなく、若さと新鮮(しんせん)さの陣営(じんえい)にあるのです。また、いくら年齢(ねんれい)的に若くても、妙(みょう)に老成し、ひねこびて固まっている人もいます。大きく歴史的に見れば、若い新しい世代が古い世代をのり越え(こ )ていくことはたしかですが、個々の場合は、かならずしもそのとおりには当てはめられません。くれぐれも肝(きも)に銘じ(めい )てほしいのは、年功が無意味であると同じように、また、たんに年齢(ねんれい)的な若さもけっして特権ではないということです。

(岡本(おかもと)太郎(たろう)『今日の芸術』による)
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a 長文 7.3週 ri2
 1テレビの前では、私たちは自分の個人的体験をあまり考慮(こうりょ)することなく、映像に比較的(ひかくてき)忠実に物語を見ている。2また、茶の間や自分の小さな部屋にいながら、世界全体と直接交流しているかのような錯覚(さっかく)に陥る(おちい )ことは当然体験される。あたかも自分がその番組に参加しているような気安さもある。
 3この点は映画を見る時とは違う(ちが )ものであり、映画にあっては、やはり映画独特の世界の中に出向いているのだという「お客さん」意識があるものである。茶の間の雰囲気(ふんいき)とテレビの映像は矛盾(むじゅん)なくつながる。4食事中に殺人事件や暴力事件が報道されても、私たちは平気でいたりする。このようなテレビ文化がいろんなところに大きな影響(えいきょう)力をおよぼすであろうことは、容易に想像できることである。
 5たとえば選挙にあっても、あるいは商品のコマーシャルにあっても、テレビなしにはそれらの選挙活動も、商品の販売(はんばい)力の増大も難しいものである。6現代においては、あらゆる生産品ないし商品は、もはやその性能においても同じレベルであることが多い。そうなると宣伝力、とくにテレビでの宣伝力が大きくその販売(はんばい)力を動かす。7見ている人の消費熱をいかに引き出すかということがコマーシャルの最大の使命であるが、コマーシャルの送り手と視聴(しちょう)者は、いわば欲望を引き出そうとする者と引き出されてしまう者の関係にある。8つまり茶の間でテレビを通じ、視聴(しちょう)者と生産者が欲望を介し(かい )て手をつないでいるのである。
 9このようなテレビを中心とした映像文化に、生まれたときからなじんでいる人間と人生の途中(とちゅう)からそれを知った人間とは、どこか違う(ちが )ように思われる。0実際、若者にとって本を中心にした楽しみは急速に減少しているようだ。出版社の人たちに聞いてみても内容が難しく、かつぺージ数の多い本は売れにくくなりつつあるという。さらに山手線を一周する間に読み切れるくらいの本でなければ売れないともいう。そうなると、彼ら(かれ )が手にとるのは本といっても名ばかりのものであって、映像に近い本が中心になるのは当然の経過であろう。また、なまじ小説ばかり読んでいる人のほうが精神的に不健康というデータすら見られる。
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 活字の本とテレビを中心とした映像文化と、どこが違う(ちが )のであろうか。まず、本は自分で買うという能動性が要求される。また、それを読むにはかなりの時間がかかるし、思考プロセスが相当、介入(かいにゅう)するものである。批判的なスタンスを取ることが可能であると同時に、それを要求されるものでもある。そしてまた、個人の想像力がテレビ以上に要求されるものであることは言うまでもない。ラジオもまた、映像がないだけにテレビ以上に想像力が要求される。逆にテレビの場合はチャンネルをつけるまでは能動性はあるにしても、映っている画像、流れてくる情報に対して、私たちは完全に受動的な立場となる。とくにいやおうなく私たちの欲望を引き出そうとするコマーシャルに対して批判的なスタンスを取ることはきわめて難しいことである。ただし、テレビの場合、映像を自分なりに解釈(かいしゃく)することができるという側面も論理的には否定できない。なぜなら、テレビの情報提供者がいかにある種の情報のみを流そうとしても、映像を通じて、解説されている内容以外の客観的情報を受け手が得る可能性も充分(じゅうぶん)あるからである。しかし実際には、解説が入ると批判的に見ることはかなり困難であろう。
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a 長文 7.4週 ri2
 1白い紙に記されたものは不可逆である。後戻り(あともど )が出来ない。今日、押印(おういん)したりサインしたりという行為(こうい)が、意思決定の証として社会の中を流通している背景には、白い紙の上には訂正(ていせい)不能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。2白い紙の上に朱(しゅ)の印泥(いんでい)を用いて印を押す(お )という行為(こうい)は、明らかに不可逆性の象徴(しょうちょう)である。
 3思索(しさく)を言葉として定着させる行為(こうい)もまた白い紙の上にペンや筆で書くという不可逆性、そして活字として書籍(しょせき)の上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである。推敲(すいこう)という行為(こうい)はそうした不可逆性が生み出した営みであり美意識であろう。4このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜ん(ひそ )でいる。
 子供の頃(ころ)、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒い墨(すみ)で白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露(はつろ)し続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。5取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕し(あらわ )続ける呵責(かしゃく)の念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為(こうい)の痕跡(こんせき)を残し続けていく。6紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積(るいせき)していく様を把握(はあく)し続けることが、おのずと推敲(すいこう)という美意識を加速させるのである。この、推敲(すいこう)という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。7もしも、無限の過失をなんの代償(だいしょう)もなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲く(たた )かを逡巡(しゅんじゅん)する心理は生まれてこないかもしれない。
 現代はインターネットという新たな思考経路が生まれた。8ネットというメディアは一見、個人のつぶやきの集積のようにも見える。しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前提にした個の集積の向こう側に、皆(みな)が共有できる総合知のようなものに手を伸ばす(の  )ことのように思われる。9つまりネットを介し(かい )てひとりひとりが考え
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るという発想を超え(こ )て、世界の人々が同時に考えるというような状況(じょうきょう)が生まれつつある。かつては、百科事典のような厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個々のパートは専門家としての個の書き手がこれを担ってきた。0しかし現在では、あらゆる人々が加筆訂正(ていせい)できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。間違い(まちが )やいたずら、思い違い(おも ちが )や表現の不的確さは、世界中の人々の眼に常にさらされている。印刷物を間違い(まちが )なく世に送り出す時の意識とは異なるプレッシャー、良識も悪意も、嘲笑(ちょうしょう)も尊敬も、揶揄(やゆ)も批評も一緒(いっしょ)にした興味と関心が生み出す知の圧力によって、情報はある意味で無限に更新(こうしん)を繰り返し(く かえ )ているのだ。無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添い(よ そ )続けるだろう。断定しない言説に真偽(しんぎ)がつけられないように、その情報はあらゆる評価を回避(かいひ)しながら、文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲(すいこう)がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。

(原研哉()『白』による)
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a 長文 8.1週 ri2
 1骨董(こっとう)はいじるものである。美術は鑑賞(かんしょう)するものである。そんなことをいうと無意味な酒落のように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。2この間の微妙(びみょう)な消息に一番早く気づいたのは骨董(こっとう)屋さん達であって、誰(だれ)が言いだしたともなく、鑑賞(かんしょう)陶器(とうき)という、昔は考えてもみなかった言葉が、通用するに至っている。3言葉は妙(みょう)だが、骨董(こっとう)屋さんの気持ちから言えば、それはいじろうにも、残念ながらいじれない陶器(とうき)をいうのである。鑑賞(かんしょう)陶器(とうき)という新語の発明が、いつごろか無論はっきりしないが、おそらく昭和以後の事であろうと思えば、日本人が陶器(とうき)に対して、茶人的態度を引き続きとっていた期間の驚く(おどろ )ほどの長さを、今さらのように思うのである。
 4僕(ぼく)は、茶道の歴史などにはまるで不案内であるが、茶器類の不自然な衰弱(すいじゃく)した姿が、意外に早くから現れているところから勝手に推断して、利休の健全な思想は、意外に短命なものだったのではあるまいか、と思っている。5しかし、茶道の衰弱(すいじゃく)と堕落(だらく)の期間がいかに長かったとはいえ、器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、美しい器物を見ることと、それを使用することが一体となっていて、その間に区別がない、そういう態度は、極めて自然な健全な態度であるとは言えるのである。6焼き物いじりが僕(ぼく)にそのことを痛感させた。僕(ぼく)も現代知識人の常として、茶人趣味(しゅみ)などにはおよそ無関心なものだが、利休が徳利にも猪口(ちょこ)にも生きていることは確かめ得た。7美しい器物を創り出す行為(こうい)を美しい器物を使用するうちに再発見しようとした、そういうところに利休の美学(妙(みょう)な言葉だが)があったと言えるなら、それが西洋十九世紀の美学とほとんど正面衝突(しょうとつ)をする様を、僕(ぼく)の焼き物いじりの経験が教えてくれた。8そしてこの奇怪(きかい)な衝突(しょうとつ)は、茶人が隣(となり)の隠居(いんきょ)となり終わった今日でも、しかと経験し得るものなのである。
 9先日、何年ぶりかでトルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見奇矯(ききょう)と思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に鋭く(するど )て正しい作者の感受性に裏
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付けられているように思われた。0行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏(ぶとう)曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、聖餐(せいさん)を受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。誰(だれ)も知らぬ。わけの解らぬ行為(こうい)を挑発(ちょうはつ)するわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆(ちょうしゅう)は、行為(こうい)を禁止されて椅子(いす)に釘付け(くぎづ )になっている。
 行為(こうい)をもって表現されないエネルギーは、彼等(かれら)の頭脳を芸術鑑賞(かんしょう)という美名の下にあらゆる空虚(くうきょ)な妄想(もうそう)で満たすというのだ。何と疑い様のない明瞭(めいりょう)な説であるか。心理学的あるいは哲学(てつがく)的美学の意匠(いしょう)を凝らし(こ  )て、身動きも出来ない美の近代的鑑賞(かんしょう)に対しては、この説は、ほとんど裸体(らたい)で立っていると形容してよいくらいである。周知のように、トルストイは、ここから近代芸術一般(いっぱん)を否定する天才的独断へ向かって、真っすぐに歩いた。無論そんな天才の孤独(こどく)が、僕(ぼく)の凡庸(ぼんよう)な経験に関係があるわけはない。ただ、彼(かれ)が遂に(つい )あの異様な「芸術とは何か」を書かざるを得なくなった所以は、彼(かれ)が選んだそもそもの出発点、彼(かれ)の審美(しんび)的経験の純粋(じゅんすい)さ素朴(そぼく)さにある。その裸(はだか)のままの姿から、強引に合理的結論を得ようとしたところにある。これは注意すべきことなのである。
 もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為(こうい)を禁止された美の近代的鑑賞(かんしょう)の不思議な架空(かくう)性に関するトルストイの洞察(どうさつ)は、僕達(ぼくたち)の経験にも親しいはずなのである。昔は建築を離れ(はな )た絵画というような奇妙(きみょう)なものを誰(だれ)も考えつかなかったが、近代絵画には額縁(がくぶち)という家しか、本当に頼り(たよ )になる住居がなくなって来ている。

(小林秀雄(ひでお)の文より)
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a 長文 8.2週 ri2
 1戦争がすんだら、世の中が万事バター臭く(くさ )なったようである。そんな空気の中で、俳句は第二芸術であるという論があらわれて、大きな話題になった。人々は、戦争に負けてすこし頭がどうかしていたのであろう。2第二芸術でもまだもったいないくらいに考えて、この新説に拍手(はくしゅ)を送ったものである。
 この頭のいい議論は、しかし、どこか、おかしい。どこがおかしいのかわからないが、どうも変である。そう思いつづけて二十年がたってしまった。
 3このごろになってようやく、そのおかしさの依っ(よ )てきたるところは、案外、俳句の読み方にあるのではないかと思うようになった。外国語の活字をにらんで読む――これはおそらく読みの極限状況(じょうきょう)であろう。4わからなければ、辞書を引く、註釈(ちゅうしゃく)を参考にする、文法の助けもかりる。とにかく、活字を攻め(せ )ていって何とかわかる。何とかして頭で読むほかはない
 5これはつまり散文の理解の仕方である。局外に立った人間の読み方である。俳句でこういう読み方をすれば疑問は雲のようにわいてくるだろう。そもそも何を言っているのかもはっきりしない。6これで独立した表現と言えるだろうかという疑問も生まれるかもしれない。第二芸術どころではない。われわれにとって外国語の読み方がもっとも尖鋭(せんえい)な意識に支えられていて、その限りでは知的にもすぐれた読みの方法である。それを俳句に適用したところに悲劇があった。
 7それというのも俳句の読み方がはっきりしていないからである。どうしていいかわからないから、つい、散文の読み、外国語の読みを流用してしまった。目と頭だけでわかろうとする。それが俳句にとって、どんなにひどい仕打ちになるか、ほとんど考えられなかったのではあるまいか。
 8短詩型文学は、散文を読むように読まれてはいけないのである。そもそも「よむ」こと自体が詩となじまぬ。朗唱、朗詠(ろうえい)すべきであろう。9声にして、音にして、その響き(ひび )が意識のほの暗い所をゆさぶる。いわば心で読む。舌頭に千転させて、おのずから生じるものを心で受けとめる。そういうものでなくてはならない。
 0俳句の表現そのものは、きわめて小さな音しかたてないが、享受(きょうじゅ)者の心を共鳴箱にして、ちょうど、バイオリンのかすかな絃()
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の音がすばらしい豊かな音になるように、増幅(ぞうふく)される。たとえ、絃()がよい音を出しても、共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生まれない。
 散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現はむしろ邪道(じゃどう)であるが、詩歌では共鳴を無視するわけにはいかない。もっとも深いところに眠っ(ねむ )ているわれわれの共鳴箱をゆり動かしたとき、言葉は力なくして鬼神(きしん)を泣かしめることができる。目と頭で読んではそういう奇蹟(きせき)が生じにくい。
 活字印刷になれきってしまったわれわれは、詩歌に対してあまりにも読者的でありすぎるように思われる。もともと文字は言葉の影(かげ)のようなものである。影(かげ)だけをどれだけ忠実に追ってみても、本体をとらえることはできない。散文は影(かげ)と実体が一致(いっち)しているから、文字面からでも心を汲む(く )ことができるが、詩歌では心に響く(ひび )ものがなければ、何もならない。
 ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。

(外山滋比古(とやましげひこ))
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a 長文 8.3週 ri2
 1たとえていえば、それは写真を用いて美人コンテストを行うようなものである。一次選考に写真を利用することはあっても、最終選考に写真を用いる美人コンテストというものはない。写真は自由に美女を捏造(ねつぞう)することが可能だからである。2写真を用いて仮に選んだ美女たちを、最終的には同一の舞台(ぶたい)の上に立たせて肉眼で眺める(なが  )。美を基準とする領域においては、そのような方法のみが、有効性を持つはずなのである。
 3ところが残念ながら建築を移動させることはできない。さまざまな建築物を美女のようにして、同一の舞台(ぶたい)の上に並べて肉眼で眺める(なが  )ことはできない。ゆえに、しかたなく、建築は写真に撮ら(と )れ、写真の形式で評価され、比較(ひかく)されることになったのである。4写真だけを用いて、「美女コンテスト」を行わざるをえなかったのである。そこに二十世紀の根本的な矛盾(むじゅん)が存在した。そしてコンピュータによる画像処理技術はこの矛盾(むじゅん)を加速し、露呈(ろてい)させる役割を担ったというわけなのである。
 5では今後、この美女コンテストはどこに向かうのだろうか。まず予想されるのは、情報量を増やし、媒体(ばいたい)を複数化しようという動きである。写真だけならば、捏造(ねつぞう)が可能である。6しかしムービーを併用(へいよう)すれば、捏造(ねつぞう)はかなり困難になるであろうという推測である。CDーROMの普及(ふきゅう)はそのような要請(ようせい)の産物と考えることができる。
 7しかし、この方向には、明らかに限界が存在する。いくら媒体(ばいたい)を複数化したとしても、美という基準とビジュアル(視覚的)メディアの間の断絶を完璧(かんぺき)に埋め(う )つくすことは不可能なのである。8この問題を解決する唯一(ゆいいつ)の方策は、美という基準を見直すこと。美に替わる(か  )、新しい基準を発見することしかない。
 9その徴候(ちょうこう)はすでに様々な形で出現しつつある。結果としての美ではなく、ものを作るプロセス自身を評価し、楽しむという傾向(けいこう)は、そのひとつである。建築雑誌や美術雑誌が、そのプロセスを読ませること、追体験させることにぺージをさきはじめたのである。
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0建築家やアーティストもまた結果としての美を競うのではなく、そこにいたるプロセス自体を競いはじめた。そのプロセスは様々である。使い手の意見を聞きながら、使い手が施工(しこう)にも参加して建築を作る「参加型建築」のプロセスをウリにする建築家が登場した。あるいは、いままで誰(だれ)も使ったことがない珍しい(めずら  )素材を、試行錯誤(しこうさくご)を重ねながら、なんとか使いこなしたというプロセスをウリにする建築家も登場した。どちらの場合もできあがりを写真でみただけでは、その良さ、その特徴(とくちょう)はわからない。プロセスのドキュメンテーション(文書)と一緒(いっしょ)に読んではじめて、その価値がわかるという仕組みである。
 要は写真の時代が終わりつつあるのではなく、美女コンテストの時代が終わりつつあり、美の時代が終わりつつあるということなのである。視覚的美というものは、いかようにでも捏造(ねつぞう)できるのである。舞台(ぶたい)に並べて、誰(だれ)が誰(だれ)より美しいと論じることは意味がない。大切なことは、舞台(ぶたい)からひきずりおろして実際につきあってみること。同じひとつの時間、ひとつのプロセスを共有することなのである。そういう体験の重みだけが、人間にとって意味を持つということを、他でもない、コンピュータが教えてくれたのである。

(隈研吾(くまけんご)の文章による)
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a 長文 8.4週 ri2
 1美しさは創造の領域に属するものと考えられがちだが、何かを生み出すのではなく、ものを掃き(は )清め、拭き(ふ )清めて、清楚(せいそ)を維持(いじ)するという営みそのものの中に、むしろ見出されるものではないかと最近では思うようになった。2特に、禅宗(ぜんしゅう)の寺や庭などに触れる(ふ  )につけ、その思いは強くなる。禅(ぜん)寺の庭が美しいのは、作庭家の才につきるものではない。むしろ常に掃き(は )清められ、手をかけられているがゆえの美しさとも見える。3それも一年や二年の清掃(せいそう)ではなく、長い年月を経て、清掃(せいそう)に清掃(せいそう)を重ねてくることで、自然と人間の営みの、どちらともつかない領域におのずと生まれてくる造形の波打ち際のようなものが、庭というものの本質をなしているように感じられるのだ。
 4自然とは変化流転するものであり、人為(じんい)を超え(こ )て強靭(きょうじん)で、それは人間の思惑(おもわく)のうちにとどまらない。岩や地面には苔(こけ)が生じ、落ち葉は堆積(たいせき)して新たな土を作る。木肌(きはだ)は退色して滋味(じみ)を生じ、池の水は碧(みどり)に澄む(す )。5自然の贈与(ぞうよ)を受け入れることは、待つということである。長い時間の果てに、人為(じんい)ではとうてい届かない自然の恵み(めぐ )に浴すことが出来る。
 一方で、人は意志を持って、自然と拮抗(きっこう)するものである。6禅(ぜん)寺の方丈(ほうじょう)の前に広がる白い四角い石庭は、人の意志の象徴(しょうちょう)にも見える。有機的な自然の中に決然と白く四角く存在を示している。この白い石の庭は自然のままでは維持(いじ)することができない。7放っておくと、落ち葉や天然の塵芥(じんかい)がその上にゆっくりと降り注ぎ、アースカラーに覆わ(おお )れていく。その白を白として保つには、小さな石のおびただしい集積の中に混入した自然の微細(びさい)な塵芥(じんかい)を取り払い(と はら )、ぬぐい去るという、気の遠くなるほど手間のかかる作業が必要になる。8もちろん、石庭に限らず、飛び石も、苔(こけ)も、床(ゆか)も、障壁(しょうへき)も、埃(ほこり)を拭い(ぬぐ )、ちりを払い(はら )、自然の風化に任せない人為(じんい)による制御(せいぎょ)を、倦ま(う )ず撓(たゆ)まず繰り返さ(く かえ )ないと庭は維持(いじ)できない。
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9自然のままに放置すると、禅(ぜん)寺は数年のうちに草木に埋もれ(うず  )て朽ち果てる(く は  )だろう。そのような、自然と人為(じんい)のせめぎあい、あるいは混沌(こんとん)と秩序(ちつじょ)のせめぎあいが清掃(せいそう)である。その清掃(せいそう)の果てに現れてくる人と自然のあわいに日本の庭がある。
 0また、清掃(せいそう)は創造を伴わ(ともな )ないという点では、変化ではなく維持(いじ)に価値をおく態度でもある。今日においては諸芸術全般(ぜんぱん)に「新しさ」すなわち刷新性をことさら評価する風潮があるが、誤解を恐れ(おそ )ずに言えば、日本の美意識とは新しさを生み出すことよりもむしろ維持(いじ)するところに湧き(わ )出した心性ではないかと思うのである。変化の激しいのは今日のみではない。自然は常に流動する。その流動を食い止め、静止を意図し、普遍(ふへん)と不変を標榜(ひょうぼう)しながらコンシステンシーを保っていくことには壮大(そうだい)なエネルギーが必要である。禅(ぜん)寺という場所はそういう意味での常態不変への意志で制御(せいぎょ)され、日々清掃(せいそう)を重ねている。その常態不変の象徴(しょうちょう)のように見える石庭が、白く表現されていることは重要である。

(原研哉()『白』による)
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 1ファッションと性意識の関係について考えるときにいつも思いだすのですが、大和和紀さんの『あい色神話』というコミックのなかに、若い女性のこんなつぶやきが出てくるシーンがあります。
  2家まで歩いて十五分……走って十分……
  なんだかてれてれ歩くのかったるい……
  子どものころはよく走ってたっけ
  おつかいいくのや学校への道……
  いつからだろう
  3あまり走ることをしなくなったのは……
  女の子特有の小走りしかしなくなったのは……
  ……走って……みようか……
  あのころのように軽く足はあがるだろうか
  耳のそばで鳴る風の音をきけるだろうか
  身体を空気のように感じることができるだろうか
 4スカートは女性の「性の制服」だということ、そしてそれが身ごなしやふるまいの一つ一つをかたどり、やがて身体そのものにもなじんでしまって、だれが見てもじぶんが「女らしく」なってしまっているということ、そして逆にそのことによって失ってしまったものへの静かな悲しみやはげしい疼き(うず )……。それらがたいへんにうまく表現されていると思います。
 5こうした「性の制服」と女性のセクシュアリティの意識のずれはだんだん無視できないほど大きくなってきたようで、とくに友人の結婚(けっこん)披露宴(ひろうえん)などでいわゆる「令嬢(れいじょう)」のような服装をしかたなくするときには、多くの女性たちがまるでじぶんが「女装」しているような気分になっているのではないでしょうか。6その意味で、衣服の構造にはその時代、その社会の男性的/女性的なものについての観念が強くはたらいていると言えます。
 7同じことは、性以外の場面でも言えます。子どもらしさだとか高校生らしさ、母親らしさとか教師らしさといった「らしさ」が話題にされるところではいつも、衣服やメイクやしぐさが、そういうイメージとの深い共犯関係のなかで強力にはたらいています。8ある種の社会的な強制力をもって、です。このように身体の表面で、ある性的ならびに社会的な属性を目に見えるかたちで演出することで、服装は個人の人格を具体的にかたちづくっていくわけです。9イメージの服を着込み(きこ )ながら、着換(が)えながら、です。こうしたことから、西洋には「Clothes make people」(衣が人を作る)という諺(ことわざ)もあるくらいです。
 
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0ひとの成長とは、このように、身ごなし(話し方、食べ方、歩き方、座り方、挨拶(あいさつ)の仕方など)と身づくろいの共通のスタイルのなかにじぶんを挿入(そうにゅう)していくことを意味します。そうしてひとは社会の一住民となっていくわけです。職業上の制服や伝統的な民族衣装などは、そういう衣服の社会的意味がとくにはっきり出ているものです。現代社会では、皇族も議員も会社員も芸術家も宗教家も教師も、ほとんどの男性は公的な場面では、背広にネクタイというのがまるで制服のようになっています。逆の私的なシーン、あるいは社会秩序(ちつじょ)への抵抗(ていこう)のシーンにもやはり制服は歴然とあって、茶髪(ちゃぱつ)、細眉(まゆ)、ミニスカート、ルーズソックスという出で立ちが、家と学校のあいだでの女子高生の「超(ちょう)」画一的な制服になっていて、そこからはみ出ることがとても勇気のいることになっているのは、ご存じのとおりです。このように見てくると、制服でない衣服を探すほうがむずかしくなります。

「ひとはなぜ服を着るのか」(鷲田(わしだ)清一)より
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 1比喩(ひゆ)的な表現であるが、人間は、外の自然と共通で、外の自然と交流しあう、情緒(じょうちょ)的で、感覚的な、あるいは食欲や性欲という生命力の表現をはじめとする身体的な、いわゆる「第一の自然」とよばれるものと、科学、技術、生産などにかかわる「第二の自然」とよばれる二つの自然を持っており、その交錯(こうさく)、調和、統一によって生きている。
 2だから、人間が自分を全体として生きることは、第一の自然と、第二の自然を統一して、他者との共存の中で生きることを意味しており、それが豊かさ感、という充実(じゅうじつ)した幸せ感をもたらすのだと考えられる。3経済価値にのみつっ走ることは、人間の二つの自然の調和にそぐわないことではないだろうか。
 日本には、アメニティという言葉の正確な訳語がないといわれるが、アメニティとは、あるべきところに、あるべきものがある、ということだという。4つまり、それは、第一の自然と第二の自然が、統一され、敵対的でなく、共存をひろげていくことを意味する言葉であろう。そして日本では、技術や生産力の価値があまりに支配的になってしまっているため、「あるべきもの」も「あるべきところ」も、わからなくなっているのであろう。
 5二つの自然の統一、調和というとき、注意しておかなければならないことがある。科学とか、技術とか、生産などのいわゆる第二の自然にかかわる言語表現は、数字や法則を含め(ふく )て、多様で正確な表現形式を持っていると思われる。6金銭については最も簡明である。ところが、あの山はすばらしい、とか、この絵や音楽はいい、という感覚的な、第一の自然にかんしては、私たちは、ほとんど数字や法則のような客観的な表現を持っていない。7「悲しい」という一言の背後には、おそらくいろいろなものがあるのだが、悲しみが深くなればなるほど、それは「悲しい」としか言いようがなく、人びとは、それを、体験的に悟る(さと )か、あるいは感覚的身体的なものによって、相互(そうご)に了解(りょうかい)しあうことができるにすぎない。
 8感覚や感情を正確に客観的に表現するのが難しいだけでなく、人間には無意識の領域さえあるのだという。
 9私がここで問題にしたいのは、人間というものは(あるいは自然というものは)、まだ知られていない多くのものを持っている未知の存在で、ただモノとカネがあれば幸せだ、ときめつけられるほど単純なものではない、ということである。0つまり、豊かな社会の実現は、モノの方から決められるのでなく、人間の方から決めら
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れなければならないということである。
 客観的な表現はできないけれども、この第一の自然、感覚や感情や身体という、私たちの生を支えているものにも正当な座席を与え(あた )なければ、本当の豊かさ感は得られないのではないだろうか。
 ここで誤解をさけるために言えば、この感覚の世界は一人一人に完全に個別的なものではない。また、捉え(とら )にくいもの、証明できないものは、存在しない、ということでもない。むしろ、あまりにも自明なことのために、ことさらに説明する必要がないのだと思われる。
 だからこそ、カネや、政治家の演説ではごまかされないものとして、この人間の、共通の感受性の世界がある。この世界にも豊かさ感をかんじさせるような技術、生産、社会のありかたこそが、本当の豊かさではないだろうか。それは地球的な豊かさと共通する豊かさである。そしてその豊かさは、体験の中でしか感じ表現することができないからこそ、人間は、豊かな全人間的体験を体験できるような余暇(よか)──つまり自由時間を必要とする。

(暉峻淑子(てるおかいつこ)の文章による)
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 1たとえば、路傍(ろぼう)のぬかるみの中へわざと踏みこん(ふ   )でゆき、ぬるぬるの泥(どろ)の感触(かんしょく)を楽しみ、泥水(どろみず)のはねをあげ、もっと深いところを探すことの喜びとは、いったい何だったのだろうと思うことがある。2今ではたとえ長靴(ながぐつ)をはいていたとしても、私はぬかるみを避け(さ )て、固い地面を探す。だが子どもは、ぬかるみを見れば当然のようにそのほうへ突進(とっしん)し、飽く(あ )ことがない。3たまにそんな子どもの楽しみかたにひかれて、おそるおそるぬかるみに足を出すこともあるにはあるが、私たちおとなは長靴(ながぐつ)の中に泥水(どろみず)が浸入(しんにゅう)してくることの心持ちわるさや、帰宅したあとの長靴(ながぐつ)洗いの面倒くさ(めんどう  )さのほうにすぐに心が向いてしまって、子どものように全身全霊(ぜんしんぜんれい)をあげて楽しむことはまずないと言っていい。
 4子どもがぬかるみの中を、嬉々(きき)として跳ね(は )まわっているのは、おとなにとってあまり快い眺め(なが )ではない。私たちはどちらかと言うとそれを制止したがる。5きたならしい、着ているものが汚れる(よご  )、無駄(むだ)なことだ――おとなたちはいつも制止するのに十分な理由をもっていて、それを疑うこともしないのだが、そういう心の奥(おく)に、ほんの少しではあっても喜びの感情もまた、ないではない。6嬉し(うれ )がってる子どものいきいきした動作や表情のかわいらしさに、おとなはしょうがないなと思いながらも寛大(かんだい)になる。似たようないたずらがこよなく楽しかった自分の子ども時代のことも、思い出すともなく思い出している。7そんなおとなの心の動きを子どもはいち早く見抜い(みぬ )ていて、本気になっておとなが怒り(おこ )出すまで、はしゃいでいる。
 だが、だからと言って、おとなが子どもにとってのぬかるみ遊びの無意味の意味をほんとうに理解しているかどうかは疑わしいのではあるまいか。8おとなはいわば子どもを、そして自分の子ども時代をもう外側から眺める(なが  )しかない存在だ。子どもをみつめることでおとなが感ずる喜びと、子どもそのものであることの喜びはちがう。9そのことに私は時折、越え(こ )がたい断絶感を味わう。もういちど子どもに戻り(もど )たいと思うのではない、こどもには存在していて、おとなにはすでに存在し得ぬ感情がたしかにあるという一種の絶望
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感、人間という生物が成長してゆくみちすじで、そのような感情を失ってゆくことを、いったい何が正当化するのだろうかという疑問、私の心の中に浮かぶ(う  )のはそんな思いだ。
 0ぬかるみにうつつを抜かし(ぬ  )ているとき、子どもは着ているものが汚れる(よご  )ことや、あとになって長靴(ながぐつ)を洗わねばならぬことを気にしてはいない。子どもは文字通り一所懸命(いっしょけんめい)に、その瞬間(しゅんかん)その場を生きている。他のことに心を向けるゆとりが全くないほどに、その喜びは深く全身的なのである。結果を考えろ、親の苦労を、或いは(ある  )他人の迷惑(めいわく)を考えろと言ったところで、通じようがない。子どもにはそのとき、いわば未来もなければ、社会もない。だから子どもは子どもさ、人間よりはけものに近いんだとおとなは言う。だが喜びという感情は、本来そういうなりふりかまわぬ、自分勝手な、むしろ野性的と言っていいような心の状態だったのではあるまいか。
 そのことにおぼろげながら感づいているからこそ、おとなは子どものいたずらを大目に見る。ぬかるみがあるのに、それに見むきもせぬ子どもがいたりするとかえって心配になったりする、ぬかるみに踏みこめ(ふ   )ば叱る(しか )くせに、そうしない子どものことは、子どもらしくないと断罪しかねない。そんな矛盾(むじゅん)した心の動きの中に、私たち人間の喜びというものの見かたがかくされていると私は思う。

(谷川俊太郎(しゅんたろう)の文より)
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 1この本をひもとくたびに、いつも私の心にとどまるのは、冒頭(ぼうとう)の有名な一句である。どの段を読んでも、最後はきまってここへ戻っ(もど )てくる。2「つれづれなるままに、日くらし硯(すずり)にむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ物ぐるほしけれ」という一節は、そのたびごとに深さを増してくるようだ。
 3冒頭(ぼうとう)の「つれづれなるままに」という言葉が最も大切である。退屈(たいくつ)まぎれとか、為す(な )こともないままにとか解釈(かいしゃく)するのはむろん誤りであろう。そういう一種の倦怠(けんたい)感を宿してはいるが、根本には何かしらやるせない気持と異常の孤独(こどく)が察せられる。4それを決してあらわには告げない。事もなげに、ゆったりと構えているようにみえ、筆致(ひっち)また軽妙(けいみょう)を旨(むね)とする。その点、「おのづからのまにまに」と云(い)った思いに似かようけれど、この語のもつ明るさ、のびやかさに比べると、知的にやや仄(ほの)暗い感じがつきまとう。5切迫(せっぱく)した不安を伴い(ともな )ながら、焦慮(しょうりょ)するでもなく、行方を定めるでもない。云(い)わば明暗のあわいに、心はとりとめもなく回転して行く。明晰(めいせき)にして明晰(めいせき)を意識せず、何ものかに憑かれ(つ  )ているようで、妙に(みょう )自意識は冴えわたる(さ    )。6好奇(こうき)心と放心との同時的存在。恐らく(おそ  )兼好(けんこう)みずから、かような心境をもてあましていたのではなかろうか。「つれづれなるままに」苦しかったのだ。「あやしうこそ物ぐるほしけれ」という結句が、この間の微妙(びみょう)を告げているであろう。
 7すべて真向の情熱から語った人の文章には、どこかどぎついものがある。殊に(こと )人間の生死については、ことが異常であればあるほど臭み(くさ )を帯び易い。8真向の情熱や真正面から取り組むことは、正しい態度にちがいないが、何がほんとうに真向真正面であるか、これはむずかしい問題だ。兼好(けんこう)の文章は、興味のままに筆を走らせているところ、一見、好事家と傍観(ぼうかん)者の相を呈する(てい  )。9この外相がかなり人々をあやまったように思われる。徒然草は随筆(ずいひつ)なりという安易な定義と、併せて(あわ  )随筆(ずいひつ)の「気軽さ」なる心理が瀰漫(びまん)した。この言葉のもつ一種の狂気(きょうき)は、見失われてしまったようである。
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 0兼好(けんこう)は人生万般(ばんぱん)を決して真正面からなど見ていない。つまり彼(かれ)の凝視(ぎょうし)は直線的でない。例えば陶器(とうき)鑑賞(かんしょう)のように、あらゆる角度から異なった光線のもとに眺め(なが )、裏をかえし底をみつめ、丁寧(ていねい)に撫で(な )まわして一々の触感(しょっかん)を試み、ついに自己と対象との刹那(せつな)間に共通の体温を保とうとする。この共通の体温の上で、しかも彼(かれ)は一切を語ろうとはしない。人生の表裏に徹(てっ)すれば、一切を語ることの不可能はよくわかるはずだ。ただ微笑(びしょう)を浮べる(うか  )。事物そのものでなく、それが地上に投ずる翳(かげ)のみを語る場合もあろう。
 彼(かれ)のものの見方は、見ずして見る、或いは(ある  )見て見ぬ様子をする、しかもよく見ている風で、好奇(こうき)心と放心が同じ波紋(はもん)を呈し(てい )てひろがる。矛盾(むじゅん)撞着(どうちゃく)など眼中にない。鋭く(するど )、辛辣(しんらつ)だが、鋭く(するど )辛辣(しんらつ)に書こうなどとは思っていない。強烈(きょうれつ)な自意識を内に湛え(たた )ながら、これにふわりとした節度を与える(あた  )。筆をおろさんとする刹那(せつな)の気構えからいえば、「つれづれなるままに」とは、この微妙(びみょう)な調子を整える心琴(きん)の撥(ばち)合せとも解されよう。そこから類のない微笑(びしょう)が湧く(わ )。すべてをあらわに語りつくそうという人は、兼好(けんこう)にとって共に談ずるに足らなかったであろう。彼(かれ)は好んで余情陰翳(いんえい)に住せんとした人のごとく思われる。(中略)
 兼好(けんこう)は晩年、京都雙ヶ岡(ならびがおか)に住んでいたと伝えられる。
 ちぎりおく花とならびのをかのへにあはれいくよの春をすぐさむ
 「ならびのをかに無常所まうけてかたはらにさくらをうゑさすとて」と題して、右の一首が家集にみえる。彼(かれ)がここで歿(ぼっ)したかどうか明らかでない。遺言辞世なく、傍ら(かたわ )に侍(じ)した人の手記らしいものも残っていない。最後の有様は窺う(うかが )べくもないが、おそらく兼好(けんこう)は、息をひきとらんとするとき、「うむ、なるほど」と心にうなずいて瞑目(めいもく)したのではなかろうか。

(亀井勝一郎()「古典的人物」による)
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