a 長文 8.2週 ri2
 戦争がすんだら、世の中が万事バター臭くくさ なったようである。そんな空気の中で、俳句は第二芸術であるという論があらわれて、大きな話題になった。人々は、戦争に負けてすこし頭がどうかしていたのであろう。第二芸術でもまだもったいないくらいに考えて、この新説に拍手はくしゅを送ったものである。
 この頭のいい議論は、しかし、どこか、おかしい。どこがおかしいのかわからないが、どうも変である。そう思いつづけて二十年がたってしまった。
 このごろになってようやく、そのおかしさの依っよ てきたるところは、案外、俳句の読み方にあるのではないかと思うようになった。外国語の活字をにらんで読む――これはおそらく読みの極限状況じょうきょうであろう。わからなければ、辞書を引く、註釈ちゅうしゃくを参考にする、文法の助けもかりる。とにかく、活字を攻めせ ていって何とかわかる。何とかして頭で読むほかはない
 これはつまり散文の理解の仕方である。局外に立った人間の読み方である。俳句でこういう読み方をすれば疑問は雲のようにわいてくるだろう。そもそも何を言っているのかもはっきりしない。これで独立した表現と言えるだろうかという疑問も生まれるかもしれない。第二芸術どころではない。われわれにとって外国語の読み方がもっとも尖鋭せんえいな意識に支えられていて、その限りでは知的にもすぐれた読みの方法である。それを俳句に適用したところに悲劇があった。
 それというのも俳句の読み方がはっきりしていないからである。どうしていいかわからないから、つい、散文の読み、外国語の読みを流用してしまった。目と頭だけでわかろうとする。それが俳句にとって、どんなにひどい仕打ちになるか、ほとんど考えられなかったのではあるまいか。
 短詩型文学は、散文を読むように読まれてはいけないのである。そもそも「よむ」こと自体が詩となじまぬ。朗唱、朗詠ろうえいすべきであろう。声にして、音にして、その響きひび が意識のほの暗い所をゆさぶる。いわば心で読む。舌頭に千転させて、おのずから生じるものを心で受けとめる。そういうものでなくてはならない。
 俳句の表現そのものは、きわめて小さな音しかたてないが、享受きょうじゅ者の心を共鳴箱にして、ちょうど、バイオリンのかすかな
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の音がすばらしい豊かな音になるように、増幅ぞうふくされる。たとえ、がよい音を出しても、共鳴箱がこわれていれば、よい音色は生まれない。
 散文においては、読者の共鳴箱にもたれかかった表現はむしろ邪道じゃどうであるが、詩歌では共鳴を無視するわけにはいかない。もっとも深いところに眠っねむ ているわれわれの共鳴箱をゆり動かしたとき、言葉は力なくして鬼神きしんを泣かしめることができる。目と頭で読んではそういう奇蹟きせきが生じにくい。
 活字印刷になれきってしまったわれわれは、詩歌に対してあまりにも読者的でありすぎるように思われる。もともと文字は言葉のかげのようなものである。かげだけをどれだけ忠実に追ってみても、本体をとらえることはできない。散文はかげと実体が一致いっちしているから、文字面からでも心を汲むく ことができるが、詩歌では心に響くひび ものがなければ、何もならない。
 ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。

外山滋比古とやましげひこ
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