a 長文 11.2週 ru2
 「木々のきらめき」「夕焼けの美しさ」「人のやさしさ」などの出逢いであ に感じ、驚いおどろ たことはすばらしい経験として、書かれ理解された知識と違っちが て、深く心の中に生きつづける知恵ちえである。これらとじかに言葉でなく心の奥底おくそこでふれるとき、生きている快感、たのしさ、甘美かんびさに陶酔とうすいする。そして何物にもかえがたい生への愛着がわく、今一瞬いっしゅんが永遠の時であり、求めていた本当の自分に出会ったような境地がそこにはある。
 重要なのは「感じ」ている自分に自分の「こと」としての状況じょうきょうが重ねられることである。悲しいとき、楽しいとき、疲れつか て帰路につくとき、絶望に打ちひしがれたとき、といったその時々の「こと」の中で驚きおどろ 、感じているわけで、これに「いつ」といった流れの年齢ねんれい、月日がかかわってくる。紅葉の美しさや花見にしても、月日を重ねるにしたがって、「こと」と「感じ」が連結されて心の深くに生きつづけ、「層」をなしていく。驚いおどろ て生きてきたことが重ねられて星霜せいそうが生まれ、層となり、木々のきらめきの中に人生の縮図を一瞬いっしゅんにして見ることができる。その一瞬いっしゅんの厚み、深みの連続が「生」を充実じゅうじつさせてゆく。
 旅のよさは、日常的な俗世ぞくせい、雑念を取り払っと はら た状態で、はじめて出会うキラキラした未知のものにてらし、そこを通り抜けとお ぬ 、身を投じて「驚きおどろ 」を身体化させてくれるところにある。「感じ」の中で生きる契機けいきを多く持つことができる「場」を与えあた てくれる。心を日常と異なった「きょう」とでもいえる状態におきすべてのすばらしさと深く出会うのである。まだ見ぬ自分の中に宿る自分との出会いである。上田秋成が「事触れことぶ きょうひあるく」といった芭蕉ばしょうや、その姿を見ると人々は笑わずにいられない一休の風狂ふうきょうは「反習俗しゅうぞくでありながら、日常生活の根本を返照するように働く。風狂ふうきょうには、反ぞく奇行きこう反抗はんこう的行動と裏腹に、烈しいはげ  悲哀ひあいや笑いの感情が共存するが、それらの感情は新しい自己認識として働いている。」
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奇行きこうであり、大笑であり、反ぞくである。と同時に、風狂ふうきょう奇行きこうでなく、大笑でなく、反ぞくではない。その根底に『なんじ諸人、各各に努力せよ』がなくてはならない。生を清浄せいじょうなものとしてあらしめようとする意志がなくてはならない。」(岡松おかまつ和夫「風狂ふうきょう『美の構造』」)と言え、生きることの意味を問いなおしたといえる。
 季節がめぐり循環じゅんかんするように、旅は、建物、山、川、町並み、といったそこに変わらずに「ある」ものや人々とその「時の心」で出会う。次に訪れる時、その時の自分が重ねてよみがえってくる。自らの変容がわかる。土地に街に青春が刻まれる。学生時代を過ごした土地や留学先、旅行先を訪れると青春の息吹いぶきがよみがえってくる。人生は一度であるから、「感じ」の豊かさの中で生きなければならない。日記は、土地や山川や木々さらに建物や道具、そして食べ物や人とかかわった「こと」として刻むことができる。再び、その場所や人に出会うとそのときの「感じ」がよみがえってくる。このような日記の書きかたは「驚きおどろ 」の重ねられた層なのである。さらに書物などの中にもできる。その時々の感想や感激したところを書きしるしたり、読みながら書物を媒介ばいかいにして自らを見つめる場合、その心を記すことは年代ごとに何回読んでも積み重ねられて残り、その時々が新鮮しんせんによみがえってくる。(中略)
 旅で感じた心によって、日常にあっても、驚きおどろ 狩猟しゅりょうする旅人であることが人生をどんなにすばらしく充実じゅうじつできるかわかる。一日一日厚みが増し、すべての時がその一瞬いっしゅんに集まり、不朽ふきゅうとなる。年齢ねんれいを重ねるごとに「一日一日が楽しくなる」ことは一回一回の感動を重ねて生きてきた人には必定である。
 旅に出て味わい、旅人として生きることは、外に出て自分を見直し、自らのいる場所を体で確かめることである。自分と異なるものと出会い豊かになり、自然や人間のおくにひそんでいる見えないものを見、自分の「生のかたち」として表現し、創造していかなければならない。

杉山明博『造る文化・使う文化』より)
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