a 長文 11.4週 ru2
 かつて映画について教える大学なんてなかったにもかかわらず、今日では多くの大学で映画の講座があり、多くの教授がそこで教えている。その教授たちは、大学を出たにもかかわらず、映画に関しては独学をしたのである。このように、学問の新しい分野が開発される時期には、その学問をやる人たちというのは、大学を出ているといないとにかかわらず、独学をしなければならないわけである。民俗みんぞく学とか文化人類学といった、歴史の浅い学問もしばしばそうである。おなじことが、じつは歴史の古い既成きせいの学問についても言える。師匠ししょうから習ったことを、弟子が、そっくりそのまま、そのまた弟子に教えてゆくような範囲はんいでは、学問は師匠ししょうなり学校なりを必要とするものだと言えるだろうが、師匠ししょうから習ったことを一歩でも超えよこ  うとすると、そこからはどんな学者でも独学をしなければならない。なにしろ、まだだれにもわかっていないことを学ぼうとするわけだから、独学するより仕方がないのである。その意味では、一流の学者はすべて独学者だ、ということも言える。
 もっとも、こう言うと、それは、師匠ししょうからすでにわかっている範囲はんいの知識を目いっぱい教えてもらった者だからこそ、それをさらに超えこ てゆくこともできるので、はじめから師匠ししょうを持たない者にとってはそれどころではない、と言われるであろう。師匠ししょうからすでにわかっている範囲はんいの知識を目いっぱい教えてもらった者は、それ以後、いくら独りで研究をすすめても、いわゆる独学者とは区別されるんだ、と。たしかにそれはそうである。ある種の学問は、すでにわかっている知識の概略がいりゃくを教えてもらうだけでもたいへんで、ある程度の知識がないとそこから先、一人だちして進むことはできないとすると、独学はとても無理、ということにもなる。数学とか物理学とか医学などという学問にはそういう面が大きいと思う。しかし、学問というものはすべてがそういうものだとはかぎらない。立派な学者たちが多数、営々として苦労を重ねているのに、その結果として書かれた論文には、素人にも容易にその欠陥けっかんがわかるものが多い、というような学問分野も広大にあるのである。それらの学問の中でも、部分的には素人では歯がたたない程度に研究のつみ重ねの進んでいる個所もあるが、重要な問題であるのにまだほとんどだれも研究していない、という個所もぼう大にある。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 それらの分野では、まず、中学なり高校なりを卒業すれば、あとは一人ででも、入門書、参考書、基礎きそ文献ぶんけん、その分野での第一線の人びと同士の間の論争、というふうに読みすすんでゆくことはたいてい可能だと思うし、大学へなど行かなくても、どんどん勉強してゆくことができる。私がやった映画などはまさにそういう分野で、私の前にこれといって学ぶのに手間ひまかかる学者もいなかったような分野である。独学が当り前で、むしろ大学になど行っていても、そのほうが回り道であるような学問分野だったのである。
 私は独学者なのかもしれないが、独学っていったいなんだろう?

 (佐藤忠男の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534