1大抵の人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。峠の上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑する。2あるいは、憂国の志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪われて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。
3こうして、知識は人々に余裕を失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕のない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。4もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みる余裕のないのは当然です。5それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そしてますます余裕を失うのです。
6家庭における親子の対立などというものも、大抵はその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。7ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然とするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。8すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。
とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕がほしいと思います。知識は余裕をともなわねば、教養のうちにとりいれられません。9対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、
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