a 長文 12.1週 ru2
 大抵たいていの人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり眼を注いでいるものですから、かえってほかのことが見えなくなる。とうげの上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思いこんで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑けいべつする。あるいは、憂国ゆうこくの志を起して、その人たちに教えこもうとする。が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪わうば れて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。
 こうして、知識は人々に余裕よゆうを失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕よゆうのない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負いこんでよろめいていれば、周囲を顧みるかえり  余裕よゆうのないのは当然です。それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしてくる。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人たちに当り散らすということになる。そしてますます余裕よゆうを失うのです。
 家庭における親子の対立などというものも、大抵たいていはその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるのに気づかない。ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出あって、愕然がくぜんとするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の勝ちすぎた知識であったことに気づき、あまりにもいさぎよくそれを投げすててしまう。すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。
 とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕よゆうがほしいと思います。知識は余裕よゆうをともなわねば、教養のうちにとりいれられません。対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を存在せしめ主張するのと同様に、知識にたいしても、自分の位置を発見し、
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そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。さもなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定めるというのは、その知識と自分との距離きょりを測定することです。この一定の距離きょりを、隔てるへだ  というのがとりもなおさず、余裕よゆうをつくることであり、力をぬくことであります。くりかえし申しますが、それが教養というものなのです。
 ここから、おのずと読書法が出てまいります。本は、距離きょりをおいて読まねばなりません。早く読むことは自慢じまんにはならない。それは、あまりにも著者の意のままになることか、あるいはあまりにも自己流に読むことか、どちらかです。どちらもいけない。本を読むことは、本と、またその著者と対話をすることです。本は、問うたり、答えたりしながら読まねばなりません。要するに、読書は、精神上の力くらべであります。本の背後にある著者の思想や生きかたと、読む自分の思想や生きかたと、この両者のたたかいなのです。そのことは、自分を否定するような本についてばかりでなく、自分を肯定こうていしてくれる本についてもいえます。
 したがって、本を読むときには、一見、自分に都合のいいことが書いてあっても、そこまで著者が認めてくれるかどうか、そういう細心の注意を払いはら ながら、一行一行、問答をかわして読み進んでいかなければなりません。自分を否定するような本についても同様です。字面では否定されているが、自分のぶつかっているこの問題については、あるいは著者も自分のいきかたを認めるかもしれない。そういうふうに自分を主張しながら、行間に割りこんでいかねばなりません。それが知識にたいして自分の居場所を打ちたてるということです。本はそういうふうに読んで、はじめて教養となりましょう。

(福田恆存つねあり「教養について」『私の幸福論』より)
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