a 長文 12.3週 ru2
 挨拶あいさつのことばを仕込ましこ れた子どもくらい、気持ちの悪いものはない。かれらが「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかいうときには、まず、ほんとうの心はこもっていない。ただ、そういわねばならぬと強いられていっているだけだ。当然、もん切り型の口調になるから、なんとも子どもには調和しない。うわべだけの形式的なことばは、虚偽きょぎ偽善ぎぜんと責任回避かいひをこととするおとなにはふさわしいが、無邪気むじゃきで打算とごまかしの下手な子どもには似つかわしくない。その子どもが、おとなの挨拶あいさつをするのだから、不気味というほかはない。そのことばを発するときの子どもの心情を思えば、なおさら苦しくなってくる。
 子どもの挨拶あいさつは、「おはよう」「ありがとう」で十分だ。顔を合わせたとき、いきなり「おばちゃん」とか「ひろし」とか呼びかけて話しだしてもよいし、別れるときは「じゃね」でも「ばいばい」でもかまわない。要は、そのときどきの相手に対する気持ちがもっともよく伝えられる、その子に合った方法を選ばせることだ。だから、かならずしも、挨拶あいさつはことばにならなければならぬ必要はない。わたしの診察しんさつ室でも、やって来た子どもの大半は、目やしぐさで親愛の情をみせてくれる。ウインクをしたり、首を傾けかたむ たり、口をとがらせたり、手を挙げたり、からだ中でずっこけたようすをしたりする。なかには、あかんべえをしたり、いきなり傍らかたわ にやってきてつばを引っかけたり、わたしの頭をぽかりとやったりもする。それが、ひとつも恨みうら ではなく、熱烈ねつれつなエールであり、優れた挨拶あいさつになっているのだ。
 こうした子どもたちもちゃんと挨拶あいさつができるようになるにつれ、しだいに親愛の情が薄れうす 距離きょりが遠のいていくように感ぜられる。あるいは、かれらには情は残っているのだが、それをストレートな方法で表現しえなくなってくるのかも知れぬ。いずれにしても、ここにもことばの持つさびしさがある。
 ことばの豊富さは、また、ことばの上だけでの整合性を生む。経験で確かめ立証するよりも、ことばの上でのつじつまを合わせることによって、他人だけでなく自分をも納得させようとする。おとなの大切にしている物をこわすなど、失策をしたときに、「ネコがした」とか「友だちがした」といい、さらに追及ついきゅうされれば「だっ
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て、ネコがいたんだもん」とか「あの子は、この前もこわしたじゃないか」などと弁明する。これが「うそをつく」という悪に決めつけられるのだが、ことばの上での「だれが」や「どうして」という性急な追及ついきゅうが、子どものうそを作りあげてしまうのだ。子どもにとっては、しでかした事実にもともと否定も肯定こうていもない。ただそういう事実が起きただけだ。自分にもまわりにもことばさえなければ、それですむ。ところが、そこに論理性と価値観が強力に立ち現われると、一定度のことばの操作を覚えた子は、その土俵にあがらざるをえぬ。結果は明らかではあるが、懲りこ ずにことばの土俵にはまり込みこ 、ますます事実からの逃避とうひ巧妙こうみょうとなる。
 ことばは、その抽象ちゅうしょう性がしっかりした概念がいねんを形成し、実体との統合と論理的実証が可能となったとき、はじめて有用性をもつ。子どものことばがそのようになるまでは、あまりに早くことばの世界に入れないのがよい。多くのおとなに囲まれ、ことばにあふれた環境かんきょうで育つ子どもは不幸である。きょうだいがなく、両親と祖父母、そのうえにおじ、おばやお手伝いさんなどがいて、いつもことばでかまわれていたら、実のない操り人形ができてしまう。おとなの社交の場に、つねに子どもを引き連れるのも、ことばを形式的にしか覚えさせない。いわんや、お話レコードとかテレビのお話教室を聴かき せて、上手に上品にしゃべらせようと目論むなどは、ことばの形成の筋道を誤るものだ。
 ことばの形成にとって大切なのは、子ども自身による体験だ。子どもが主体的に、多くの事物や人間と接触せっしょくし、それらに対する概念がいねんをきっちりと持つことが先決だ。そのうえに、ことばの持つ調べやリズム、イントネーションなどの感覚的面白さが加わったとき、子どもはそのことばをわがものにする。この際、ことばを発する人間の情念も、大きくものをいうだろう。心がこもっていなかったり、うそいつわりがあったり、論理をねじまげたりしていれば、それらのことばは、受けつけられない。もし受けつけられれば、方便をこしらえるだけだ。真実を、心をこめて伝えようとするとき、子どもはそのことばを正しく身につける。

(毛利子来「新エミール」より)
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