1挨拶のことばを仕込まれた子どもくらい、気持ちの悪いものはない。かれらが「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかいうときには、まず、ほんとうの心はこもっていない。ただ、そういわねばならぬと強いられていっているだけだ。2当然、紋切り型の口調になるから、なんとも子どもには調和しない。うわべだけの形式的なことばは、虚偽と偽善と責任回避をこととするおとなにはふさわしいが、無邪気で打算とごまかしの下手な子どもには似つかわしくない。3その子どもが、おとなの挨拶をするのだから、不気味というほかはない。そのことばを発するときの子どもの心情を思えば、なおさら苦しくなってくる。
子どもの挨拶は、「おはよう」「ありがとう」で十分だ。4顔を合わせたとき、いきなり「おばちゃん」とか「ひろし」とか呼びかけて話しだしてもよいし、別れるときは「じゃね」でも「ばいばい」でもかまわない。要は、そのときどきの相手に対する気持ちがもっともよく伝えられる、その子に合った方法を選ばせることだ。5だから、かならずしも、挨拶はことばにならなければならぬ必要はない。わたしの診察室でも、やって来た子どもの大半は、目やしぐさで親愛の情をみせてくれる。ウインクをしたり、首を傾けたり、口をとがらせたり、手を挙げたり、からだ中でずっこけたようすをしたりする。6なかには、あかんべえをしたり、いきなり傍らにやってきてつばを引っかけたり、わたしの頭をぽかりとやったりもする。それが、ひとつも恨みではなく、熱烈なエールであり、優れた挨拶になっているのだ。
7こうした子どもたちもちゃんと挨拶ができるようになるにつれ、しだいに親愛の情が薄れ、距離が遠のいていくように感ぜられる。あるいは、かれらには情は残っているのだが、それをストレートな方法で表現しえなくなってくるのかも知れぬ。8いずれにしても、ここにもことばの持つさびしさがある。
ことばの豊富さは、また、ことばの上だけでの整合性を生む。経験で確かめ立証するよりも、ことばの上でのつじつまを合わせることによって、他人だけでなく自分をも納得させようとする。9おとなの大切にしている物をこわすなど、失策をしたときに、「ネコがした」とか「友だちがした」といい、さらに追及されれば「だっ
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