a 長文 5.4週 ta
長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。
 ぼくの友だちにも、たいていおじさんがいる。おじさんというのは、つまり両親の兄弟ということで、ぼくたちは、そのおじさんのオイ、女だったらメイということなのだそうだ。
 話をきいてみると、友だちのおじさんは、けっこういいおじさんだという。どこからどこまでいいおじさんというわけにはいかないが、あるおじさんは宿題を教えてくれる。あるおじさんはいっしょに動物園へつれていってくれる。あるおじさんはお小遣いこづか をくれる。
 なかにはスポーツマンのおじさんがいて、そのおじさんは有名なスキーの選手せんしゅなのだそうだ。ジャンプの名手で、全日本大会とかいうと、そのおじさんは一等か、二等か、まかりまちがっても三等になる。一等のときは新聞に写真がでる。三等のときだって、ちゃんと名まえだけはでる。
 そういうおじさんを持った友だちは、ほんとうに幸福だとぼくは思う。いっしょにスキー場へ行けば、どんなにか得意とくいだろう。日本一か日本三の選手せんしゅに、手をとってスキーを教えてもらえるからだ。
 けれども、友だちにきくと、実際じっさいはそんなことはないそうだ。スキーを教えてくれるなんて、とんでもない。そのおじさんは自分の練習にいそがしくて、オイやメイのことなんかかまっていられないそうだ。

(北杜夫もりお「ぼくのおじさん」)
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 あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付くきづ のが「わたし」という一人称いちにんしょうの多様さである。日本語ほど一人称いちにんしょう代名詞だいめいしに多くのバラエティを与えあた ている言葉はほかにないのではあるまいか。「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾がわ はい」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれくわ  ば、その数、ゆうに二十を越えるこ  という。英語えいごやフランス語、ドイツ語などでは一人称いちにんしょう代名詞だいめいしはそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。それは日本人が他の民族みんぞくよりも、ひと一倍「自分」に注意を払いはら 、「自己じこ」に深い関心かんしんを持っていることを語っているのだろうか。
 端的たんてきにいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我じが意識いしきが強いとは必ずしもかなら   いえそうにない。いや、むしろ欧米おうべい人に対して日本人は「自分」を主張しゅちょうすることがずっとひかえめであり、日本では「個人こじん」という意識いしき、「われ」の自覚じかく西欧せいおう人にくらべてかなり遅れおく ているというのが「通説つうせつ」になっている。たしかに日本で個人こじん主義しゅぎ芽生えめば たのは、ようやく第二次大戦たいせん後といってもいい。そして現在げんざい至っいた ても「」の意識いしきはまだまだ希薄きはくで、日本の社会全体は画一主義しゅぎ貫かつらぬ れている。画一主義しゅぎとはぼつ個性こせいてきということであり、要するによう   」が「全体」に埋没まいぼつしてしまっている状況じょうきょうである。それなのに、日本人が他民族みんぞくよりも「自分」に注意を向け、つねに「自己じこ」を意識いしきしているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己じこ意識いしきは他民族みんぞく、たとえば欧米おうべい人のそれとは質的しつてき異なっこと  ているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体てきにとらえようとする。自分というのは、それこそ、かけがえのない存在そんざいであり、独立どくりつした一人格じんかく信じしん ている。ヨーロッ
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長文 5.4週 taのつづき
パの哲学てつがくが古代ギリシアのむかしから一貫いっかんして求めもと てきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質ほんしつであった。「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託しんたく哲学てつがくの出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆえにわれ在りあ 」を哲学てつがくの原点に据えす たデカルト、「人間とは自分の存在そんざい自覚じかくした存在そんざい者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学てつがくは、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。
 それに対して日本人は自分という一の人間を実体としてではなく、機能きのうとして考えてきた。個人こじんはけっして単独たんどく存在そんざいするのではない。つねに「世間」で他の多勢おおぜいの人たちとさまざまな人間関係かんけいのなかで生きるのだ――というのが日本人の人間かん前提ぜんていだった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人こじんを一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然しぜんと対決するのではなく、自然しぜんに親しみ、自然しぜんに同化することによって安らぎをてきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米おうべい人のように個人こじんを社会に対置たいちすることなく、世間と自分とをひとしなみに表象ひょうしょうしてきたのだ。「渡るわた 世間におにはない」ということわざがその一端いったんを語っている。日本の自然しぜん優しいやさ  山河さんがであるように、日本の世間も――他民族みんぞくの社会とくらべれば――結構けっこう、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎てつろう『日本語 表とうら』)
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