a 長文 4.1週 ta2
 1一万年あまり前、人間の前に、大きな悲劇(ひげき)がせまってきました。運命が、はじめて、人類(じんるい)に対して、冷たく(つめ  )背(せ)をむけたのです。
 原因(げんいん)は、地球の気候(きこう)の変化(へんか)です。多くの地方で、温度がどんどんあがりはじめました。2氷河(ひょうが)は、後退(こうたい)していきます。気候(きこう)の変化(へんか)は、植物に大きな影響(えいきょう)をあたえました。植物を食べて暮らし(く  )ている動物たちも、当然(とうぜん)、大きな影響(えいきょう)をうけます。
 その頃(ころ)、地球上には、約(やく)百万人の人間が暮らし(く  )ていたろう、と推定(すいてい)する学者がいます。3今日の地球上の人口からみれば、五千分の一という数です。
 しかし、彼ら(かれ )は、有能(ゆうのう)な狩人(かりゅうど)でした。肉食を主にする生きものとしては、すでにその数は、他の肉食獣(じゅう)に比べ(くら )、異常(いじょう)なほどに多くなりつつありました。
 4彼ら(かれ )の有能(ゆうのう)さの秘密(ひみつ)は、石槍(やり)や石斧(せきふ)、棍棒(こんぼう)などを使い、集団(しゅうだん)で行動することでした。寒い草原にすむ大形の草食獣(じゅう)、マンモスやトナカイに対して、とくにその戦法(せんぽう)が有効(ゆうこう)だったのです。しかし、狩猟(しゅりょう)の方法(ほうほう)が発達(はったつ)するにつれて、マンモスたちは人間に圧迫(あっぱく)されていきます。5そこに気候(きこう)の変化(へんか)が加われ(くわ  )ば、大形獣(じゅう)はどんどん姿(すがた)を消していくのです。人間の狩猟(しゅりょう)法(ほう)はますます有効(ゆうこう)になっていくのに、頼り(たよ )にしていた獲物(えもの)が、いなくなってしまいました。
 多くの人が飢え死に(う じ )しました。それでも、人類(じんるい)は滅び(ほろ )ませんでした。6マンモスのように地球上から消滅(しょうめつ)してしまう前に、新たな生きる道を見出していったのです。
 人間という生きものが、その内に秘め(ひ )ている多様性(せい)、それが、人間を救い(すく )ました。
 自分をとりまく状態(じょうたい)が変われ(か  )ば、それに応じ(おう )て自分も変わる(か  )ことができる。7いわば、何でも屋の人間のしぶとさです。
 (中略(ちゅうりゃく))
 多様な新しい暮らし(く  )方のなかでも、とくに大切なのは、植物を食べる、という生き方でした。のちになって、人間の生活に大きな
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革命(かくめい)をひきおこす芽(め)が、そのなかで育っていったからです。
 8もともと、人間は、肉を食べるあいまに、食べやすい木の実、果実(かじつ)をつまんでいた、と思われます。しかし、肉がなかなか手に入りにくくなり、植物に頼っ(たよ )て生きていくというのは、さぞかし大変(たいへん)なことだったにちがいありません。
 9葉を食べて栄養(えいよう)とするのは、人間の身体にとって無理(むり)でした。木の実や、木の根っこには、しばしば毒(どく)がありました。草の実、種(たね)は、かたい殻(から)におおわれていて、そのままでは食べても消化しません。
 0私(わたし)は、アフリカの奥地(おくち)で、固く(かた )なったトウモロコシの粒(つぶ)を、二つの石を使って粉(こな)にして食べている人々の暮らし(く  )を見ました。そのままではダメなものを、粉(こな)に変え(か )て食べる。これも大変(たいへん)な知恵(ちえ)です。それにしても、挽臼(ひきうす)を知らない人々の労働(ろうどう)のなんとつらいことか。一食分のトウモロコシを粉(こな)にするのに、女性(じょせい)は一日の半分近くを使っていました。
 当時の人々の遺体(いたい)の多くは、やせていました。マンモスがいた頃(ころ)の人々の遺体(いたい)に、栄養(えいよう)の取りすぎのあとがのこっているのとは、まさに正反対です。また、草の種(たね)にふくまれている糖分(とうぶん)のせいでしょう。虫歯がふえてきました。
 きびしい生活のなかで、人間の内に秘め(ひ )た研究心が活動しはじめます。かつて、マンモスの行動を観察(かんさつ)し、その弱点をついて成功(せいこう)した人間が、今度は、食べられる植物に、鋭い(するど )目をむけていきます。
 人類(じんるい)が、はじめて農業という新しい生活方法(ほうほう)をあみ出した西アジア、いわゆるオリエントには、ムギが野生していました。アジアの山岳(さんがく)地帯(ちたい)では、イネの祖先(そせん)が、野生していました。そのほか、中国のアワ、アメリカ大陸(    たいりく)のイモやトウモロコシなど、まとまって収穫(しゅうかく)することができ、栄養(えいよう)が豊富(ほうふ)な野生の植物に、当時の人間は注目して行ったのです。
 (羽仁(はに)進『羽仁(はに)進の世界歴史(れきし)物語』)
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a 長文 4.2週 ta2
 道のはじまり
 1それはすばらしいことでした。以前(いぜん)人々が狩り(か )をしてくらしていた時代には、一つの山に動物がいなくなると、人々はべつの山へと移動(いどう)しなければなりませんでした。えもののない日は十日でもニ十日でも、食事をせずに、食糧(しょくりょう)をさがし歩かなければなりませんでした。
 2ところが、いまではちがいます。一つの水田はよく年も、そのまたよく年も、きちんきちんと実りをあげてくれました。畑でとれた作物は、長く保存(ほぞん)することもできました。雪にうもれた季節(きせつ)にも、梅雨(つゆ)の長雨の季節(きせつ)にも、人間は安心してその土地で、くらすことができました。
 3畑しごとのない日には、べつのしごとをすることもできました。はたおりをして、着物をつくることもできました。わらしごとをして、わらじやむしろや、なわをつくることもできました。4農作業の道具をつくったり、どうしたらお米がたくさんとれるようになるかと、みんなでゆっくり考えあう、ゆとりもできていきました。
 畑をたがやすということは、それほどすばらしいことでした。一つの土地にすみつくということは、たいへん幸せなことでした。5家と畑とをむすぶ道は、こうして毎日ふみかためられていきました。家と畑とをむすぶ道も、しっかりつくられていきました。
 お米がたくさんとれるようになると、あまったお米は、べつの物と交換(こうかん)することができました。6漁村(ぎょそん)でとれた海のさかなと交換(こうかん)することができました。山村でおられた布(ぬの)と、交換(こうかん)することができました。村と村とをつなぐ道も、こうしてつくられていきました。
 お米がたくさんとれるようになると、十人の人をやしなうのに、八人が畑へしごとにでれば、すむようになりました。7あとの二人はべつのしごとにつくことができました。武士(ぶし)になったり、坊さん(ぼう  )になったり、貴族(きぞく)や学者や技術(ぎじゅつ)者になることができました。そして、商人になることもできました。こうして都市ができました。大きな都がつくられていきました。8物と物との交換(こうかん)は、さらに活発になりました。人と人との行き来もしだいにさかんになりました。
 ちがった土地の人たちが、たがいに交流しあうようになると、ちがったくらしのちえも交換(こうかん)されました。くらしの技術(ぎじゅつ)はさらに進歩
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していきました。
 9技術(ぎじゅつ)がすすむと、さらにたくさんのお米がとれるようになりました。物と物との交換(こうかん)も、ちえとちえとの交換(こうかん)も、いっそう活発になりました。道はいよいよたいせつなものになりました。道をつくる技術(ぎじゅつ)も、物をはこぶ技術(ぎじゅつ)も進歩していきました。0でこぼこ道がたいらになっていきました。広い道がつくられるようになりました。荷車もとおれるようになりました。そこで交通は、もっと活発になりました。
 人類(じんるい)の文明は、そのようにして発達(はったつ)してきたのでした。道のはたらきは、そのようにしていよいよ重要(じゅうよう)になってきたのでした。
 では道は、人が使わなくなったとき、どうかわっていったでしょうか。大むかし人々がまだけものを追ってくらしていた時代には、そこにけものがいなくなれば、人間はべつの山へと移動(いどう)していきました。人の使わなくなった古い道は、いつか土にうもれてしまいました。草ぼうぼうになり、ジャングルのように木がしげって、もうあとかたもなくなってしまいました。
 そうです。道はいつの時代にも、人間がそこをとおってこそ道でした。どんなにりっぱな道をつくっても、人間がそこをとおらなくなったとき、道はあれはて廃(はい)道になっていきました。江戸(えど)時代に、にぎやかに人の行き来した街道(かいどう)も、明治(めいじ)にはいって鉄道ができだれもが使わなくなると、とたんにさびれていきました。また、山のむこう側(がわ)とこちら側(がわ)とをむすんでいた峠(とうげ)の道も、りっぱな自動車道がトンネルでつうじると、しだいしだいにわすれられていきました。
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 4.3週 ta2
 並木(なみき)の道、石の道
 1長い長い街道(かいどう)は、全国各地(かくち)から都へむけて、みつぎものをとどけるための道であり、また戦争(せんそう)にでかけていくための道であり、戦争(せんそう)や、都づくりの工事にかりだされる人たちが、故郷(こきょう)をあとに都へむけて旅立つための道でした。2旅人たちは、じぶんの食糧(しょくりょう)をかついで何日も何十日もさびしい道を歩きつづけたのでした。ニワトリの声でもいいから聞きたいなあと思うほど、心細いことばかりでした。病気になる人もありました。水も食糧(しょくりょう)もなくなって、死んでいく人もありました。3並木道(なみきみち)は、そんな旅人たちをやさしくたすけてくれたのです。
 やけつくような暑い日ざしのま夏には、並木(なみき)のこずえはすずしい木(こ)かげをつくりだしてくれました。雨がふれば、雨やどりの場所になりました。夜がくれば、木かげはねる場所になりました。4そして、食糧(しょくりょう)のない旅人には、木の実を提供(ていきょう)してくれました。ですから大むかしの並木(なみき)は、いまとちがって、カキやナシなど、くだもののなる木だったのです。
 街道(かいどう)にはところどころに、駅もおかれていきました。駅にはウマを何頭もおきました。
 5それは、いざといういそぎの知らせのばあいには、役人がウマをのりついで、早馬を走らせることができるようにした制度(せいど)でした。
 鎌倉(かまくら)時代になりました。源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉(かまくら)に幕府(ばくふ)をひらくと、幕府(ばくふ)はこんどはまわりの山を切りひらいて、切りどおしの道をつくっていきました。6それは戦争(せんそう)にそなえてのものでした。いざ戦争(せんそう)というときに、各地(かくち)に散らばっ(ち   )てくらしている武士(ぶし)たちが、いちはやく鎌倉(かまくら)へはせ参じる(  さん  )ことができるよう、街道(かいどう)をととのえていったのです。いまも鎌倉(かまくら)には切りどおしの道がたくさんのこっています。
 7道はこのようにして、すこしずつととのえられていきました。旅館もたつようになりました。並木(なみき)のしゅるいはくだもののなる木から、いつかサクラやウメにかわり、さらにスギやヒノキやマツ
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並木(なみき)へと、かわっていったのです。
 8それにしてもくだもののなる並木道(なみきみち)とは、なんとすばらしいちえだったことでしょう。ドイツにも、むかしはそんな並木道(なみきみち)がありました。けれどもそれは旅人たちのためにつくられたものではなく、領主(りょうしゅ)たちが、ただ実をとることを目的(もくてき)に、じぶんの畑の一部として植えたものでした。9しかも、日本よりは千年ものちのことだったのです。
 くだもののなる木の並木道(なみきみち)は、いまでも日本にあります。長野県飯田(いいだ)市のりンゴ並木(なみき)は子どもたちが植えそだててきたものです。また茨城(いばらき)県日立市には、アンズの並木道(なみきみち)があります。0
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 4.4週 ta2
 1「自然(しぜん)ってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、実際(じっさい)みんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという標語(ひょうご)がそこらじゅうに掲げ(かか )られているのである。
 2目に入る「自然(しぜん)」が一望(いちぼう)の砂(すな)である砂漠(さばく)の国でも、水と緑はオアシスの象徴(しょうちょう)であり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり結びつい(むす   )ているものであるらしい。
 3たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれた丘(おか)に切り通しを作る。新しい道の両側(りょうがわ)は、赤茶けた土そのままの崖(がけ)で、何ともうるおいがないし、荒れ(あ )た感じがする。4それにいつ土が崩れ(くず )てくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に塗っ(ぬ )たのである。
 確か(たし )に少し遠くからは緑にみえる。5けれど、所詮(しょせん)はペンキで緑色に塗っ(ぬ )ただけである。人間の感覚(かんかく)はこんなことでは欺(だま)されないはずだ。
 昔、モンシロチョウで実験(じっけん)してみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を敷き(し )、チョウがどの色の紙の上をよく飛ぶ(と )かを調べたのだ。6やはり緑色の紙の上を、もっとも好ん(この )で飛ぶ(と )ようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
 けれどこれは、チョウチョにはたいへん失礼(しつれい)な思いちがいであった。7ほんものの草を植えた植木鉢(うえきばち)をたくさん並べ(なら )たら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを飛ん(と )だのである。
 コンクリートを緑色に塗る(ぬ )のはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということは誰(だれ)にでもすぐにわかっ
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たからだろう。
 8だが、それでどうなったか? 次の方法(ほうほう)は、道路わきの斜面(しゃめん)(法面(のりめん))に牧草(ぼくそう)のたねを播く(ま )ことであった。こうして多くの高速道路の両側(りょうがわ)が、外国産(こくさん)の牧草(ぼくそう)でおおわれる始末(しまつ)となった。
 それは見るからにモダンな、最新(さいしん)のハイウェイという印象(いんしょう)を与え(あた )たことはたしかだったが、人工の産物(さんぶつ)であることも明らかであった。9それはどことなくよそよそしい、疑似(ぎじ)自然(しぜん)なのだ。
 同じような擬似(ぎじ)自然(しぜん)は、どこにでも見ることができる。
 かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい熱帯(ねったい)の風景(ふうけい)の中で、ぼくはついに虫を一匹(ぴき)も見ることはできなかった。0ホテルの人にたずねたら、たえず殺虫(さっちゅう)剤(ざい)を撒い(ま )て、蚊(か)を退治(たいじ)していますから、ということだった。
 これも作られた疑似(ぎじ)自然(しぜん)である。昼になれば時折(ときおり)どこからかチョウチョが飛ん(と )でくるけれども、それも偶然(ぐうぜん)のことにすぎない。南の色濃い(いろこ )植物たちがぼくらを包ん(つつ )でいるけれども、それはあたかも観葉植物(かんようしょくぶつ)園の中にいるのとほとんど同じことだ。観光(かんこう)客たちはこういう場所にきて、熱帯(ねったい)の気分を満喫(まんきつ)して帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだか変(へん)である。
 水と緑のあるゆとりの町づくり、自然(しぜん)とのふれあい、自然(しぜん)との共生(きょうせい)……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく管理(かんり)され、不愉快(ふゆかい)な「雑草(ざっそう)」もなく、いやな虫もいない、疑似(ぎじ)自然(しぜん)。それをところどころにとり込ん(こ )だ町。つまりそういう町を作ろうということである。
 そこにあるのは「美しい自然(しぜん)」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という幻想(げんそう)だけだ。日本人は昔から自然(しぜん)を愛し(あい )た、などという誤っ(あやま )た思い込み(おも こ )に陥ら(おちい )ぬよう、もう少し醒め(さ )た認識(にんしき)が必要(ひつよう)なのではないか。
 (日高敏隆(としたか)『春の数えかた』)
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a 長文 5.1週 ta2
 ちえくらべ
1「人々をすくうには、くさり戸(地名)の大岩にトンネルをほるしかない。」
 禅海(ぜんかい)はそう思いました。村々をまわって、村の人たちに協力(きょうりょく)してくれるようたのみましたが、だれも本気にしてはくれません。
「あの大岩にあなをあけるなんて、できるはずがない。」
2「あのぼうさんは大ぼらふきだ。」
「気がへんだ。」
と、村の人たちはわらうばかりでした。
「しかたがない。それならば一人でほっていこう。」と、禅海(ぜんかい)は心にきめました。石工(いしく)の使う「のみ」と「つち」を手にいれると、力いっぱいつちをふりました。3岩はほんのひとかけら、かけただけでした。朝から晩(ばん)まで禅(ぜん)海は、つちをふりました。くる日もくる日も岩をきざみつづけました。雨の日も風の日も手を休めませんでした。村の人たちはわらいました。
「いよいよほんとうに気がくるった。」
 4一年がたちました。岩にはほんのわずかのくぼみができただけでした。村の人たちはまたわらいました。
「一年間ほりつづけて、たったあれだけか。」
 それでも禅海(ぜんかい)はやめませんでした。くだかれる岩はほんのひとかけらです。5しかし、心をこめてきざんでいけば、岩もまたかくじつに、それにこたえてくれるのです。一生かかるかもしれません。完成(かんせい)しないで死んでしまうかもしれません。それでもじぶんはほりつづけるのだと、禅海(ぜんかい)はかたく決心していました。
 6三年たち、四年たちました。人々はもうわらいませんでした。あなの入り口に、そっと食事をおいてくれるようになりました。しかしそれで、トンネルができようとは、だれも信じ(しん )ませんでした。大岩の長さは百メートル近くもあります。7それなのにほったあなは、まだ数メートルです。「きのどくなぼうさんだ。」と、人々は思ったのです。
 十年たちました。二十年になりました。
 禅海(ぜんかい)はねるまもおしんで、つちをふるいつづけました。暗い岩の中ですわりつづけているので、目も見えなくなりました。8足もたたなくなりました。着物はぼろぼろになり、からだはほねと皮ばかりにやせこけて人間かどうかわからないようなすがたになりまし
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た。けれど、どうでしょう。トンネルは、もう半分ほどにほりすすんでいたのです。
 9人々の目は、おどろきにかわっていました。それまで、あざわらっていたことを深くはじるようになっていました。人々は考えこんでしまったのです。「たった一人でも、あれだけのことができるのだ。みんなで力をあわせてほっていけば、ほんとうにトンネルができるかもしれないぞ。」と。
 0こうしていつか人々も協力(きょうりょく)するようになりました。お金をだしあって石工たちをよびあつめ、おおぜいで岩にとりくんでいったのです。そしてある日のことです。まっ暗な岩あなに、とつぜん光がさしこみました。トンネルがぬけたのです。岩にぽっかりとあながあき、山国川(やまくにがわ)の流れが、むこう側(がわ)に見えました。それは、禅海(ぜんかい)がほりはじめてから三十年目のことでした。
 禅海(ぜんかい)が、のみ一本でつくったこのトンネルは、「青ノ洞門(どうもん)」とよばれています。長さ八十五メートル、はば三・六メートル、高さ二・七メートルのりっぱなトンネルでした。禅海(ぜんかい)は死ぬと、土地の人たちに手あつくほうむられました。

 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 5.2週 ta2
 道はやさしい道でした
 1いまの道は、歩く人には、たいへんきびしい道ですね。あっちを見たり、こっちを見たり、きょろきょろしたりしなければ、自動車がこわくて歩けません。いちばん強い自動車がいちばん大いばりで走っています。弱い歩行者は道のすみで、小さくなって歩いています。
 2歩道橋をつくっても、お年よりや病人やからだの不自由(ふじゆう)な人や、うば車のお母さんはとりのこされてしまいます。いまの道は、弱い立場の人たちのことを、わすれているようです。
 でも、むかしの道はちがいました。弱い人たちにとてもやさしい道でした。
 3東京の愛宕山(あたごやま)の神社のおまいりの坂道は、石段(いしだん)が急なことで知られています。とちゅうでうしろをふりかえったりすると、目がくらみ、足がすくんでしまいます。よほどの勇気(ゆうき)をださないと、のぼれない坂道です。ところがその近くにもう一つ、べつの道がつけられてありました。4すこし遠まわりになるけれども、ずっとゆるやかな坂道です。そして、このゆるやかな坂道には「女坂」、急な坂道のほうには「男坂」と名まえがつけられてありました。
 なぜ、べつにもう一つ、ゆるやかな道をこしらえたのでしょう。5それは、むかしの人たちのやさしい心づかいからでした。神社におまいりをしたいのは、足のじょうぶな人ばかりとはかぎりません。女性(じょせい)もいれば、お年よりも、子どもたちもいます。からだの弱い人もいます。6からだの弱い人たちこそ、じょうぶになるようおまいりをしたいのです。そのような人たちも安心してのぼれるよう、わざわざまわり道をこしらえたのでした。
 東京の上野駅の近くには、湯島天神(ゆしまてんじん)があります。7天神さまは、菅原道真(すがわらのみちざね)公をまつった学問の神さまの神社です。ですから受験生(じゅけんせい)たちは、「しけんに合格(ごうかく)しますように。」と、おおぜいおまいりにやってきます。この湯島天神にもゆるやかな女坂がつくられています。
 8女坂は江戸(えど)時代に、日本じゅうのあちこちの神社やお寺につくられていきました。おまいりの旅がブームになり、女性(じょせい)も子どももお年よりも、だれもがおまいりにでかけるようになったとき、弱い人たちのことをみんなで考えあうようになったのです。
 9いまでも、女坂がのこされているところが少なくありません。
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でも中には自動車のための道にかわってしまったところもあります。ひょっとしたら、あなたもどこかで女坂を見たことがあるのかもしれません。0それともあなたの見た女坂は、もう、いまでは自動車道にかわってしまっているのかもしれません。むかしの人たちの道づくりのやさしい心を、いまのわたしたちももう一度、見なおす必要(ひつよう)がありますね。

 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 5.3週 ta2
 車と人間
 1ひとむかしまえまでは、道路は「往来(おうらい)」とよばれ、歩行者とせいぜい自転車が行き来する、わたしたちのくらしのための場所でした。
 「外であそんでいらっしゃい。」と、お母さんは、子どもたちにいいました。外とは、道のことを意味していたのです。2道は、子どもたちのかけがえのないあそび場でもありました。
 屋台のお店がならぶとき、道はマーケットになりました。家の前にえん台をおけば、夕すずみの場所になりました。お客さんとお茶話をする応接間(おうせつま)にもなりました。3道はお母さんたちの井戸(いど)ばた会議(かいぎ)の会議(かいぎ)場であり、また近所のおじさんたちが集まって、立ち話をする広場でもありました。道はそれほどに、わたしたちのくらしのすみずみとむすびついていたのです。
 4その道が、いつのまに、あそんではいけない場所にかわってしまったのでしょう。ならんで歩いても、立ち話をしてもいけない場所になってしまったのでしょうか。自動車が走るようになってから、道はすっかりかわったのです。
 5自動車は、とてもべんりなのりものでした。人間は、もうじぶんの足で歩かずに、どこへでもいくことができました。重い荷物もらくらくと、はこぶことができました。また、スピードをあげて走るのは、とても気持ちのよいことでした。
 6人々は、このすばらしいのりもののために、道をゆずってあげました。人間は、すみっこのほうを小さくなって歩きました。でこぼこ道は舗装(ほそう)をし、まがった道はまっすぐにつくりなおしてあげました。7さて、自動車が走りやすくなると、だれもが車を使いたくなりました。道はみるまに満員(まんいん)になりました。
「もっと道を広げたらいい。」
 だれもがそう考えました。家々をたちのかせ、並木(なみき)をはらい、道を広げていきました。自動車はまた、すいすいと走るようになりました。8すいすいと走る車を見ると、ほかの人たちも車がほしくなりました。また自動車がふえました。車は身うごきがとれなくなりました。
「のろのろ走っているのでは、自動車の意味がない。もっと道を広げよう。」
「もう一本、道をつくろう。」
 9また家がたちのかされました。路面電車もバスも追いだされて、道は広げられ、車は流れるようになりました。路面電車がなく
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なって、足をうばわれた市民(しみん)たちは、じぶんで車を運転するようになりました。
 道はまた、車で満員(まんいん)になりました。0そこでもう一本、道が必要(ひつよう)になりました。もう、いたちごっこでした。こうしてみるまに日本じゅうが、車でいっぱいになったのです。
 いまではわたしたちは、車なしでは一日も生きていけなくなっています。毎日使う一まいの紙も、たった一本のえんぴつも、車ではこばれてきます。じゃ口からでる水道の水も、電波で送られてくるテレビの画面も、どこかでかならず、車のおせわになっています。わたしたちのくらしは、自動車で、がんじがらめにされています。
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 5.4週 ta2
 1あらためてわが日本語をかえりみると、ただちに気付く(きづ )のが「わたし」という一人称(いちにんしょう)の多様さである。日本語ほど一人称(いちにんしょう)代名詞(だいめいし)に多くのバラエティを与え(あた )ている言葉はほかにないのではあるまいか。2「わたくし」「わたし」に始まり、「ぼく」、「われ」、「おれ」、「自分」、「手前」、「うち」、「わし」、「それがし」、「吾が(わ )輩(はい)」、「当方」、「こちら」、「小生」、さらに「あっし」とか「あたい」とか、「わて」とか、「おいら」「こちとら」といったものまで加えれ(くわ  )ば、その数、ゆうに二十を越える(こ  )という。3英語(えいご)やフランス語、ドイツ語などでは一人称(いちにんしょう)の代名詞(だいめいし)はそれぞれ、I、Je、Ichたった一語である。それに対して、日本語には、なぜこんなにたくさん「自分」をあらわす言葉があるのか。4それは日本人が他の民族(みんぞく)よりも、ひと一倍「自分」に注意を払い(はら )、「自己(じこ)」に深い関心(かんしん)を持っていることを語っているのだろうか。
 端的(たんてき)にいえばそうである。しかし、だからといって日本人に自我(じが)意識(いしき)が強いとは必ずしも(かなら   )いえそうにない。5いや、むしろ欧米(おうべい)人に対して日本人は「自分」を主張(しゅちょう)することがずっとひかえめであり、日本では「個人(こじん)」という意識(いしき)、「我(われ)」の自覚(じかく)が西欧(せいおう)人にくらべてかなり遅れ(おく )ているというのが「通説(つうせつ)」になっている。6たしかに日本で個人(こじん)主義(しゅぎ)が芽生え(めば )たのは、ようやく第二次大戦(たいせん)後といってもいい。そして現在(げんざい)に至っ(いた )ても「個(こ)」の意識(いしき)はまだまだ希薄(きはく)で、日本の社会全体は画一主義(しゅぎ)で貫か(つらぬ )れている。画一主義(しゅぎ)とは没(ぼつ)個性(こせい)的(てき)ということであり、要するに(よう   )「個(こ)」が「全体」に埋没(まいぼつ)してしまっている状況(じょうきょう)である。7それなのに、日本人が他民族(みんぞく)よりも「自分」に注意を向け、つねに「自己(じこ)」を意識(いしき)しているといえるのだろうか。
 じつは日本人の自己(じこ)意識(いしき)は他民族(みんぞく)、たとえば欧米(おうべい)人のそれとは質的(しつてき)に異なっ(こと  )ているのである。ヨーロッパ人は自分というものを、実体的(てき)にとらえようとする。8自分というのは、それこそ、かけがえのない存在(そんざい)であり、独立(どくりつ)した一個(こ)の人格(じんかく)と信じ(しん )ている。ヨーロッ
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パの哲学(てつがく)が古代ギリシアのむかしから一貫(いっかん)して求め(もと )てきたのは、ただひたすら「自分」というものの本質(ほんしつ)であった。9「なんじ自身を知れ!」というデルフォイの神託(しんたく)を哲学(てつがく)の出発点としたソクラテス、「われ思う、ゆれにわれ在り(あ )」を哲学(てつがく)の原点に据え(す )たデカルト、「人間とは自分の存在(そんざい)を自覚(じかく)した存在(そんざい)者だ」とするキルケゴール……ヨーロッパの哲学(てつがく)史(し)は、「自分」という実体へ向かっての旅だったといってもよい。0
 それに対して日本人は自分という一個(こ)の人間を実体としてではなく、機能(きのう)として考えてきた。個人(こじん)はけっして単独(たんどく)に存在(そんざい)するのではない。つねに「世間」で他の多勢(おおぜい)の人たちとさまざまな人間関係(かんけい)のなかで生きるのだ――というのが日本人の人間観(かん)の前提(ぜんてい)だった。げんに「人間」という言葉自体がそうした考え方を正直に語っている。この言葉はいうまでもなく中国から受け入れた漢語であるが、この漢語の意味はもともと人間の世界、すなわち「世間」ということなのである。ところがそれが日本ではいつの間にか「人」そのものをあらわす言葉になった。ということは、日本人にとって「世間」も「人」も同一のように思われていたからにちがいない。日本人は社会と個人(こじん)を一体化して考えてきたのである。
 日本人はヨーロッパ人のように自然(しぜん)と対決するのではなく、自然(しぜん)に親しみ、自然(しぜん)に同化することによって安らぎを得(え)てきた。それと同じことが社会についてもいえる。日本人は欧米(おうべい)人のように個人(こじん)を社会に対置(たいち)することなく、世間と自分とをひとしなみに表象(ひょうしょう)してきたのだ。「渡る(わた )世間に鬼(おに)はない」という諺(ことわざ)がその一端(いったん)を語っている。日本の自然(しぜん)が優しい(やさ  )山河(さんが)であるように、日本の世間も――他民族(みんぞく)の社会とくらべれば――結構(けっこう)、心安い社会だったからであろう。

 (森本哲郎(てつろう)『日本語 表と裏(うら)』)
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a 長文 6.1週 ta2
 絹(きぬ)の道、塩(しお)の道
 1塩(しお)は人間にとっても、ウシやウマにとっても、生きていくためにかかすことができません。食糧(しょくりょう)を保存(ほぞん)するにも、みそやしょうゆをつくるにも、つけものをつけるにも、むかしからなくてはならないものでした。2「塩(しお)をそまつにすると、目がつぶれる。」むかしの人たちはそういって、塩(しお)をたいせつにしたものです。それは、外国でもおなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々では、むかし、塩(しお)のかたまりが、お金として使われたほどでした。3王さまへのみつぎものにも、金や銀や宝石(ほうせき)や、絹(きぬ)の布(ぬの)とおなじように、塩(しお)が使われたりしたのです。
 その塩(しお)は、中国やヨーロッパやアメリカでは、地下からとることができました。地下からとる塩(しお)は「岩塩(がんえん)」とよばれ、鉄や石炭などのように、山をほってとりだすのです。4けれども日本では、塩(しお)は山からはとれませんでした。山国にすむ人たちは、よそから塩(しお)をもらわなければ、生きていくことができませんでした。
 さいわい日本は、海にかこまれています。海は、むげんの塩(しお)の宝庫(ほうこ)でした。5そこで海べの人たちは、海水から塩(しお)をつくって、山国の人たちにとどけたのです。それが、塩(しお)の道でした。
 まず海岸のすなはまに、大きなすなの池をいくつもいくつもつくります。その池に海水をくんで、何日もかけて日にほします。6すると水分がじょうはつして、だんだんこい塩水(しおみず)になっていきます。それをさいごに大きな鉄のかまでにつめるのです。海水を日にほすためのすなの池は「塩田(えんでん)」とよばれました。7瀬戸内海(せとないかい)や九州や、三陸(さんりく)の海岸など、日本のあちこちのすなはまで、塩田(えんでん)風景(ふうけい)がくりひろげられていきました。
 塩(しお)の道は、山の幸(さち)と海の幸とを交換(こうかん)する道でした。山国の人と海べの人とが心をかよわせる道でした。
 塩(しお)の道は、日本じゅうのいたるところにありました。8日本列島の大部分は山国です。そして海岸ではいたるところで塩(しお)がつくられていたからです。
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 山と海とをつなぐ道ならたいていは、塩(しお)をはこんだ歴史(れきし)があります。たとえば信州(しんしゅう)の山村には、日本海側(がわ)からは、姫川(ひめがわ)にそった糸魚川(いといがわ)街道(かいどう)を塩(しお)売りのウシの列が、ぞろぞろとつづきました。9また太平洋側(がわ)からは、富士川(ふじがわ)や天竜川(てんりゅうがわ)をさかのぼり、峠(とうげ)をこえて塩(しお)がはこばれていきました。
 みなさんは戦国(せんごく)時代、上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)が、敵(てき)の武田(たけだ)信玄(しんげん)に塩(しお)を送ったという話をきいたことがありますか。信玄(しんげん)は甲斐(かい)の国(いまの山梨(やまなし)県)の武将(ぶしょう)です。0甲斐(かい)の国は山国なので、塩(しお)はいつも遠くの海べにたよっていました。ところがそのころ、太平洋側(がわ)には、駿府(すんぷ)(いまの静岡(しずおか)県)の今川氏(し)ががんばっていました。一方日本海側(がわ)には、越後(えちご)(いまの新潟(にいがた)県)の上杉(うえすぎ)氏(し)がにらみをきかせていました。
 そしてとうとう、おそれたことがおこりました。信玄(しんげん)をこらしめようと考えた太平洋側(がわ)の今川氏(し)は、甲斐(かい)へつうずる塩(しお)の道を、国ざかいでつぎつぎにふさいでしまったのです。塩(しお)の道がたたれるということは、生きていけなくなるということです。甲斐(かい)の国の人たちはこまりはてました。これを知った日本海側(がわ)の上杉(うえすぎ)氏(し)はきのどくに思いました。上杉(うえすぎ)謙信(けんしん)と武田(たけだ)信玄(しんげん)とは敵(てき)どうしです。けれども謙信(けんしん)は、日本海側(がわ)から甲斐(かい)へ塩(しお)を送ってあげたのです。
 ふだんは敵(てき)どうしでも、相手がほんとうにこまったとき、たすけてあげることを「敵(てき)に塩(しお)を送る。」といいますね。それは、この話からきていることばです。
 この話は、道というものがどれほどたいせつなやくわりをはたしたか、よく教えてくれます。
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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a 長文 6.2週 ta2
 川の道
 1大むかしから山にすむ人たちは、山おくにわけ入って山の木を切りだし、川の水で下流へ送りました。小さな荷物ならば、まがりくねった山道でも、人がかついだり、ウシやウマをのせてはこぶこともできました。2けれども重くて長い木材(もくざい)ばかりは、どうしても川の水にたよらねばなりませんでした。木を一本一本谷におとし、谷川を流します。それをとちゅうのゆるやかなところにあつめて、いかだに組みなおし、いかだ流しで下流に送るのです。
 3山の木を切りたおすのも、谷におとすのも、いかだ流しをするのも、おおぜいでおこなういのちがけのしごとでした。山村の人たちには、そんなくらしがあったのです。
 「木曽(きそ)のなかのりさあん」といううたがありますね。4木曽川(きそがわ)はむかしから、木曽(きそ)ヒノキでにぎわった川でした。
 「なかのりさん」とは、いかだ流しをするおじさんたちのことです。「木曽(きそ)のなかのりさあん」といううたは、きけんないかだ流しをするおじさんたちが、いせいよくうたう、しごとのうたです。
 5では川の水は下流では、どんなふうに使われたでしょうか。日本の川はあばれ川です。大雨のたび、水はあふれて、平野を水びたしにさせました。そしてすこし日照り(ひで )がつづけば、水はたちまちかれて水不足(みずぶそく)になりました。6大雨のたび、水は山から土砂(どしゃ)をはこんできて、川をあさくさせました。川があさくなれば、つぎの雨では、水はあふれて流れをかえました。
 川があさかったり、水が少なかったり、流れがあっちへいったりこっちへいったりしてうごきまわっているのでは、いかだ流しはできません。7船もとおれません。人間もすめません。お米もつくれません。日本の平野は、むかしはそんな不毛(ふもう)の土地だったのです。
 むかしから日本人は、そのあばれ川をなだめすかして、川をきちんとしたものに、つくりかえていきました。8ゆたかな水が、いつもおなじ場所をゆるやかに流れるよう、水の交通整理をしていったのです。
 あばれ川をおさめることを治水(ちすい)といいます。さて水をおさめると、人々はその川から水をひいて、水田をひらいていきました。9これが農業用水です。用水には船もうかべられました。人々は川の水でイネをそだて、そして、とれたお米を川の水で町へとはこんでいったのです。
 お米をはこんでいった船は、町からはなにをつんで帰ってきたで
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しょうか。0町で売られている着物や茶わんもありました。おけや草かりがまやほうちょうもありました。毎日使う紙もありました。なによりもたいせつな肥料(ひりょう)がありました。町の人たちのだすトイレのごみは、むかしはごみではなく、農地のかけがえのない養分(ようぶん)になったのです。
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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 おまいりの道
 1日光へのおまいりの道は豪華(ごうか)そのものでした。日光の東照宮(とうしょうぐう)には徳川(とくがわ)家康(いえやす)がまつられています。毎年、春の家康(いえやす)の命日(めいにち)にはお祭りがおこなわれ、京都からも天皇(てんのう)のお使いが、はるばるおまいりにいきました。2ふつうの人たちも、みんな、でかけていったので、そうでなくとも日光街道(かいどう)はにぎやかになりました。しかも江戸(えど)の将軍家(しょうぐんけ)にとっては、ご先祖(せんぞ)さまをまつったお宮です。ですから幕府(ばくふ)は全精力(せいりょく)をかたむけて、りっぱな大名行列をおこないました。3江戸(えど)時代、将軍(しょうぐん)の日光まいりは十九回おこなわれていますが、さいしょのころは、それでもしっそなものでした。ところがだんだんぜいたくになり、たとえば十代将軍(しょうぐん)家治(いえはる)のときには、行列のウマの数だけでも三十五万頭でした。4江戸(えど)から日光まで武士(ぶし)・足軽(あしがる)・人夫(にんぷ)など人とウマとが、ひとつづきにつづいたといわれています。
 このような大がかりな行列のためには、沿道(えんどう)の人たちは、五年も六年もまえから準備(じゅんび)をかさねなければなりませんでした。5江戸(えど)から日光まで三日かかりましたが、将軍(しょうぐん)の宿にあてられた埼玉(さいたま)県の岩槻(いわつき)や、茨城(いばらき)県の古河(こが)や、栃木(とちぎ)県の宇都宮(うつのみや)のお城(しろ)では、そのためにお城(しろ)を修理(しゅうり)したりしなければなりませんでした。
 6利根川(とねがわ)をわたるために、利根川(とねがわ)には船橋もつくられました。船橋とは、船をつなぎあわせてつくる、水にういた橋のことです。船を五十そうも六十そうもくさりで横につないで、川はばいっぱいにわたします。7その上に、あつさ十センチもある大きな板をのせて、はば十五メートルほどの道をこしらえました。板の上にはさらにむしろをあつくしいていきました。その上に土をかぶせていきました。土の上にはすなをのせました。
 8このようにして、りっぱな道が水の上につくられたのでした。道の両側(りょうがわ)には、はば数十センチほど、みどりのシバを植えました。ふとくて青いタケも植え、小さなマツも植えていきました。
 なんとみごとな道だったことでしょう。9それが、あの大きな利根川(とねがわ)をわたる、水にういたうき橋だったのです。
 橋が水に流されたり、ごみがひっかかったりしないように、上流
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にももう一つ、船をつないだ船橋をつくりました。そこで、川の流れをかんししたり、ごみをひろいあげました。
 0橋をつくった人たちは、行列がおわるまで、どんなにか、はらはらしたことでしょう。それは、いのちがけの思いだったことでしょう。この利根川(とねがわ)の船橋は、三年がかりの大工事のすえ、ようやくつくりあげたものでした。しかしせっかくつくりあげた船橋も、行列がおわるとまた、とりはずされました。
 みなさんの中には夏休みに、日光へいく人もあるでしょう。日光街道(かいどう)や例幣使(れいへいし)街道(かいどう)(天皇(てんのう)のお使いがおまいりにとおった道)には、いまも一万四千本のみごとなスギ並木(なみき)がのこされています。そのスギ並木(なみき)を見たら、むかしその下を将軍(しょうぐん)たちの行列が、ぞろぞろととおっていったことを思いうかべてみてください。
 
 「道は生きている」(富山(とみやま)和子)講談社(こうだんしゃ)青い鳥文庫より
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 1お茶わん一ぱいでお米は何粒(つぶ)ありますか? 約(やく)三〇〇〇粒(つぶ)(〇・五合)だそうです。私(わたし)が子供(こども)のころ、そのなかにときどきすこし黒い小さな斑点(はんてん)がついた粒(つぶ)が混じっ(ま  )ていました。気がつくと気持ちが悪いので、はしでつまみ出したこともありましたが、たいていは気にしないで食べていました。2親が「とりのぞかないと、おなかが痛く(いた )なるよ」と注意をしたことはなかったからです。いつのまにか、そんな黒い斑点(はんてん)粒(りゅう)はなくなり、真っ白のごはんになりました。
 3斑点(はんてん)粒(りゅう)が混じっ(ま  )ていると、見た目に悪いので、農薬を使って黒い斑点(はんてん)粒(りゅう)がでないようにしているのです。お茶わんに四粒(つぶ)(〇・一%以上(いじょう))あると、二等米に格下げ(かくさ )になり、値(ね)が下がってしまうのです。農薬を使わざるをえません。
 4お米にいたずらして斑点(はんてん)粒(りゅう)を作るのはカメムシです。ヘクサムシ、ヘコキムシとも呼ば(よ )れ、触れる(ふ  )と悪臭(あくしゅう)を出して身を守ろうとする、小さな平べったい五角形の虫です。
 5夏がすぎ稲(いね)が穂(ほ)を出すころ、カメムシは一部の田に飛ん(と )できて穂(ほ)の乳(ちち)を吸う(す )ので、被害(ひがい)にあった一部の田んぼの一部の粒(つぶ)が斑点(はんてん)粒(りゅう)になります。一〇アール(=一反)の田には約(やく)二三〇〇万粒(つぶ)のモミがあるので、この〇・一%は二万三〇〇〇粒(つぶ)になります。6これ以下(いか)にするには、計算上カメムシを六〇匹(ぴき)未満(みまん)にする必要(ひつよう)があるので農薬がまかれるのです。
 害虫(がいちゅう)と聞くと、稲(いね)を病気にしたり、収穫(しゅうかく)量(りょう)を減らし(へ  )たりする「悪い虫」と思いがちです。しかしカメムシはそんなことはしません。収穫(しゅうかく)量(りょう)も減らさ(へ  )ず、人間の健康(けんこう)をそこねない程度(ていど)のいたずらです。7それさえ人間は許せ(ゆる )なくなり、カメムシを害虫(がいちゅう)の仲間(なかま)に入れてしまったのです。
 いまから三〇年ほど前、都市住民(じゅうみん)は、カメムシのいたずらをも許せ(ゆる )ない自分になっていることに気づかぬまま、農薬のこわさに気づき、「反農薬」を訴え(うった )、農薬を使う農業を否定(ひてい)しました。8お
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百姓(ひゃくしょう)さんも使いたくて使っているわけではないので、無(む)農薬で作ってくれる人が、ごく少数ながらあらわれました。すると農薬を使っている多くのお百姓(ひゃくしょう)さんが、こんどは「悪い人」に見えてくるのです。9農薬を使わざるをえない現実(げんじつ)は知っていても、反農薬の世論(せろん)に押さ(お )れた農業関係(かんけい)者は、決められたとおりに農薬をまくことを省略(しょうりゃく)する「省(しょう)農薬」や、濃度(のうど)をうすくすることを意味する「低(てい)農薬」にしているので不安(ふあん)に思わなくてよいと反論(はんろん)しました。0
(中略(ちゅうりゃく))
 悪循環(あくじゅんかん)を断ち切る(た き )ため、福岡(ふくおか)県農業改良(かいりょう)普及(ふきゅう)所に勤務(きんむ)していた宇根(うね)豊(ゆたか)さんは「虫見板」を使い、田のなかにいる虫に改めて(あらた  )関心(かんしん)を持ってもらう試み(こころ )を開始しました。株(かぶ)をたたき、虫見板の上に落ちてくる虫を、害虫(がいちゅう)、益虫(えきちゅう)、ただの虫に見分ける能力(のうりょく)をまずつけてもらいます。つぎに害虫(がいちゅう)が繁殖(はんしょく)し、被害(ひがい)をあたえようとするタイミングを学んでもらい、そのときに農薬をまくように指導(しどう)していったのです。それまでよりは時間はかかるけれど、田のなかの自然(しぜん)に関心(かんしん)を持ち、つきあえる能力(のうりょく)を養っ(やしな )ていくのは楽しいものです。そのうえこわい農薬の使用量(りょう)が減り(へ )、健康(けんこう)にもよいし、経済(けいざい)的(てき)にも助かります。防除(ぼうじょ)暦(れき)にしたがうと一三回まくところが、二〜四回になった人もいます。これだけの効果(こうか)があると、運動は大きくなり、福岡(ふくおか)県から佐賀(さが)県へも広がりました。

(森住明弘(あきひろ)『環境(かんきょう)とつきあう50話』)
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