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 自然しぜんってどんな色?」と聞かれたら、何と答えるだろう? たいていの人は、緑色と答えるにちがいないし、実際じっさいみんなそう思っている。だから「水と緑の町づくり」などという標語ひょうごがそこらじゅうに掲げかか られているのである。
 目に入る「自然しぜん」が一望いちぼうすなである砂漠さばくの国でも、水と緑はオアシスの象徴しょうちょうであり、人々はそこに安らぎを感じる。だから水と緑は、人間という動物にもともとしっかり結びついむす   ているものであるらしい。
 たぶんそういう理由からだろう、かつてはずいぶんこっけいなこともおこなわれていた。道路を作るので、草木の緑におおわれたおかに切り通しを作る。新しい道の両側りょうがわは、赤茶けた土そのままのがけで、何ともうるおいがないし、荒れあ た感じがする。それにいつ土が崩れくず てくるかもわからないから、がっちりとコンクリートでおおってしまう。そうなると、ますます味気ない。そこで、とにかく緑にしようということで、コンクリートを緑色に塗っぬ たのである。
 確かたし に少し遠くからは緑にみえる。けれど、所詮しょせんはペンキで緑色に塗っぬ ただけである。人間の感覚かんかくはこんなことではだまされないはずだ。
 昔、モンシロチョウで実験じっけんしてみたことがある。ケージの地面にいろいろな色の大きな紙を敷きし 、チョウがどの色の紙の上をよく飛ぶと かを調べたのだ。やはり緑色の紙の上を、もっとも好んこの 飛ぶと ようであった。なるほど、チョウは緑色であれば紙でもいいのだな、とぼくは思った。
 けれどこれは、チョウチョにはたいへん失礼しつれいな思いちがいであった。ほんものの草を植えた植木鉢うえきばちをたくさん並べなら たら、チョウは緑色の紙など見向きもせず、ほんものの草の上ばかりを飛んと だのである。
 コンクリートを緑色に塗るぬ のはその後まもなくやめになった。やはりほんものの草でなければ、ということはだれにでもすぐにわかっ
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たからだろう。
 だが、それでどうなったか? 次の方法ほうほうは、道路わきの斜面しゃめん法面のりめん)に牧草ぼくそうのたねを播くま ことであった。こうして多くの高速道路の両側りょうがわが、外国産こくさん牧草ぼくそうでおおわれる始末しまつとなった。
 それは見るからにモダンな、最新さいしんのハイウェイという印象いんしょう与えあた たことはたしかだったが、人工の産物さんぶつであることも明らかであった。それはどことなくよそよそしい、疑似ぎじ自然しぜんなのだ。
 同じような擬似ぎじ自然しぜんは、どこにでも見ることができる。
 かつてアフリカのモンバサに行ったときもそうだった。いかにもモンバサらしい熱帯ねったい風景ふうけいの中で、ぼくはついに虫を一ぴきも見ることはできなかった。ホテルの人にたずねたら、たえず殺虫さっちゅうざい撒いま て、退治たいじしていますから、ということだった。
 これも作られた疑似ぎじ自然しぜんである。昼になれば時折ときおりどこからかチョウチョが飛んと でくるけれども、それも偶然ぐうぜんのことにすぎない。南の色濃いいろこ 植物たちがぼくらを包んつつ でいるけれども、それはあたかも観葉植物かんようしょくぶつ園の中にいるのとほとんど同じことだ。観光かんこう客たちはこういう場所にきて、熱帯ねったいの気分を満喫まんきつして帰る。もちろんそれはけっこうなことだけれど、なんだかへんである。
 水と緑のあるゆとりの町づくり、自然しぜんとのふれあい、自然しぜんとの共生きょうせい……ことばはさまざまにあるが、意味しているところは同じである。美しく管理かんりされ、不愉快ふゆかいな「雑草ざっそう」もなく、いやな虫もいない、疑似ぎじ自然しぜん。それをところどころにとり込んこ だ町。つまりそういう町を作ろうということである。
 そこにあるのは「美しい自然しぜん」「調和のある、やさしくてゆとりのある平和な緑」という幻想げんそうだけだ。日本人は昔から自然しぜん愛しあい た、などという誤っあやま 思い込みおも こ 陥らおちい ぬよう、もう少し醒めさ 認識にんしき必要ひつようなのではないか。
 (日高敏隆としたか『春の数えかた』)
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