a 長文 5.3週 ta2
 車と人間
 ひとむかしまえまでは、道路は「往来おうらい」とよばれ、歩行者とせいぜい自転車が行き来する、わたしたちのくらしのための場所でした。
 「外であそんでいらっしゃい。」と、お母さんは、子どもたちにいいました。外とは、道のことを意味していたのです。道は、子どもたちのかけがえのないあそび場でもありました。
 屋台のお店がならぶとき、道はマーケットになりました。家の前にえん台をおけば、夕すずみの場所になりました。お客さんとお茶話をする応接間おうせつまにもなりました。道はお母さんたちの井戸いどばた会議かいぎ会議かいぎ場であり、また近所のおじさんたちが集まって、立ち話をする広場でもありました。道はそれほどに、わたしたちのくらしのすみずみとむすびついていたのです。
 その道が、いつのまに、あそんではいけない場所にかわってしまったのでしょう。ならんで歩いても、立ち話をしてもいけない場所になってしまったのでしょうか。自動車が走るようになってから、道はすっかりかわったのです。
 自動車は、とてもべんりなのりものでした。人間は、もうじぶんの足で歩かずに、どこへでもいくことができました。重い荷物もらくらくと、はこぶことができました。また、スピードをあげて走るのは、とても気持ちのよいことでした。
 人々は、このすばらしいのりもののために、道をゆずってあげました。人間は、すみっこのほうを小さくなって歩きました。でこぼこ道は舗装ほそうをし、まがった道はまっすぐにつくりなおしてあげました。さて、自動車が走りやすくなると、だれもが車を使いたくなりました。道はみるまに満員まんいんになりました。
「もっと道を広げたらいい。」
 だれもがそう考えました。家々をたちのかせ、並木なみきをはらい、道を広げていきました。自動車はまた、すいすいと走るようになりました。すいすいと走る車を見ると、ほかの人たちも車がほしくなりました。また自動車がふえました。車は身うごきがとれなくなりました。
「のろのろ走っているのでは、自動車の意味がない。もっと道を広げよう。」
「もう一本、道をつくろう。」
 また家がたちのかされました。路面電車もバスも追いだされて、道は広げられ、車は流れるようになりました。路面電車がなく
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なって、足をうばわれた市民しみんたちは、じぶんで車を運転するようになりました。
 道はまた、車で満員まんいんになりました。そこでもう一本、道が必要ひつようになりました。もう、いたちごっこでした。こうしてみるまに日本じゅうが、車でいっぱいになったのです。
 いまではわたしたちは、車なしでは一日も生きていけなくなっています。毎日使う一まいの紙も、たった一本のえんぴつも、車ではこばれてきます。じゃ口からでる水道の水も、電波で送られてくるテレビの画面も、どこかでかならず、車のおせわになっています。わたしたちのくらしは、自動車で、がんじがらめにされています。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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