a 長文 6.1週 ta2
 きぬの道、しおの道
 しおは人間にとっても、ウシやウマにとっても、生きていくためにかかすことができません。食糧しょくりょう保存ほぞんするにも、みそやしょうゆをつくるにも、つけものをつけるにも、むかしからなくてはならないものでした。しおをそまつにすると、目がつぶれる。」むかしの人たちはそういって、しおをたいせつにしたものです。それは、外国でもおなじでした。ヨーロッパやアフリカの国々では、むかし、しおのかたまりが、お金として使われたほどでした。王さまへのみつぎものにも、金や銀や宝石ほうせきや、きぬぬのとおなじように、しおが使われたりしたのです。
 そのしおは、中国やヨーロッパやアメリカでは、地下からとることができました。地下からとるしおは「岩塩がんえん」とよばれ、鉄や石炭などのように、山をほってとりだすのです。けれども日本では、しおは山からはとれませんでした。山国にすむ人たちは、よそからしおをもらわなければ、生きていくことができませんでした。
 さいわい日本は、海にかこまれています。海は、むげんのしお宝庫ほうこでした。そこで海べの人たちは、海水からしおをつくって、山国の人たちにとどけたのです。それが、しおの道でした。
 まず海岸のすなはまに、大きなすなの池をいくつもいくつもつくります。その池に海水をくんで、何日もかけて日にほします。すると水分がじょうはつして、だんだんこい塩水しおみずになっていきます。それをさいごに大きな鉄のかまでにつめるのです。海水を日にほすためのすなの池は「塩田えんでん」とよばれました。瀬戸内海せとないかいや九州や、三陸さんりくの海岸など、日本のあちこちのすなはまで、塩田えんでん風景ふうけいがくりひろげられていきました。
 しおの道は、山のさちと海の幸とを交換こうかんする道でした。山国の人と海べの人とが心をかよわせる道でした。
 しおの道は、日本じゅうのいたるところにありました。日本列島の大部分は山国です。そして海岸ではいたるところでしおがつくられていたからです。
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 山と海とをつなぐ道ならたいていは、しおをはこんだ歴史れきしがあります。たとえば信州しんしゅうの山村には、日本海がわからは、姫川ひめがわにそった糸魚川いといがわ街道かいどうしお売りのウシの列が、ぞろぞろとつづきました。また太平洋がわからは、富士川ふじがわ天竜川てんりゅうがわをさかのぼり、とうげをこえてしおがはこばれていきました。
 みなさんは戦国せんごく時代、上杉うえすぎ謙信けんしんが、てき武田たけだ信玄しんげんしおを送ったという話をきいたことがありますか。信玄しんげん甲斐かいの国(いまの山梨やまなし県)の武将ぶしょうです。甲斐かいの国は山国なので、しおはいつも遠くの海べにたよっていました。ところがそのころ、太平洋がわには、駿府すんぷ(いまの静岡しずおか県)の今川ががんばっていました。一方日本海がわには、越後えちご(いまの新潟にいがた県)の上杉うえすぎがにらみをきかせていました。
 そしてとうとう、おそれたことがおこりました。信玄しんげんをこらしめようと考えた太平洋がわの今川は、甲斐かいへつうずるしおの道を、国ざかいでつぎつぎにふさいでしまったのです。しおの道がたたれるということは、生きていけなくなるということです。甲斐かいの国の人たちはこまりはてました。これを知った日本海がわ上杉うえすぎはきのどくに思いました。上杉うえすぎ謙信けんしん武田たけだ信玄しんげんとはてきどうしです。けれども謙信けんしんは、日本海がわから甲斐かいしおを送ってあげたのです。
 ふだんはてきどうしでも、相手がほんとうにこまったとき、たすけてあげることを「てきしおを送る。」といいますね。それは、この話からきていることばです。
 この話は、道というものがどれほどたいせつなやくわりをはたしたか、よく教えてくれます。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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