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 おまいりの道
 日光へのおまいりの道は豪華ごうかそのものでした。日光の東照宮とうしょうぐうには徳川とくがわ家康いえやすがまつられています。毎年、春の家康いえやす命日めいにちにはお祭りがおこなわれ、京都からも天皇てんのうのお使いが、はるばるおまいりにいきました。ふつうの人たちも、みんな、でかけていったので、そうでなくとも日光街道かいどうはにぎやかになりました。しかも江戸えど将軍家しょうぐんけにとっては、ご先祖せんぞさまをまつったお宮です。ですから幕府ばくふは全精力せいりょくをかたむけて、りっぱな大名行列をおこないました。江戸えど時代、将軍しょうぐんの日光まいりは十九回おこなわれていますが、さいしょのころは、それでもしっそなものでした。ところがだんだんぜいたくになり、たとえば十代将軍しょうぐん家治いえはるのときには、行列のウマの数だけでも三十五万頭でした。江戸えどから日光まで武士ぶし足軽あしがる人夫にんぷなど人とウマとが、ひとつづきにつづいたといわれています。
 このような大がかりな行列のためには、沿道えんどうの人たちは、五年も六年もまえから準備じゅんびをかさねなければなりませんでした。江戸えどから日光まで三日かかりましたが、将軍しょうぐんの宿にあてられた埼玉さいたま県の岩槻いわつきや、茨城いばらき県の古河こがや、栃木とちぎ県の宇都宮うつのみやのおしろでは、そのためにおしろ修理しゅうりしたりしなければなりませんでした。
 利根川とねがわをわたるために、利根川とねがわには船橋もつくられました。船橋とは、船をつなぎあわせてつくる、水にういた橋のことです。船を五十そうも六十そうもくさりで横につないで、川はばいっぱいにわたします。その上に、あつさ十センチもある大きな板をのせて、はば十五メートルほどの道をこしらえました。板の上にはさらにむしろをあつくしいていきました。その上に土をかぶせていきました。土の上にはすなをのせました。
 このようにして、りっぱな道が水の上につくられたのでした。道の両側りょうがわには、はば数十センチほど、みどりのシバを植えました。ふとくて青いタケも植え、小さなマツも植えていきました。
 なんとみごとな道だったことでしょう。それが、あの大きな利根川とねがわをわたる、水にういたうき橋だったのです。
 橋が水に流されたり、ごみがひっかかったりしないように、上流
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にももう一つ、船をつないだ船橋をつくりました。そこで、川の流れをかんししたり、ごみをひろいあげました。
 橋をつくった人たちは、行列がおわるまで、どんなにか、はらはらしたことでしょう。それは、いのちがけの思いだったことでしょう。この利根川とねがわの船橋は、三年がかりの大工事のすえ、ようやくつくりあげたものでした。しかしせっかくつくりあげた船橋も、行列がおわるとまた、とりはずされました。
 みなさんの中には夏休みに、日光へいく人もあるでしょう。日光街道かいどう例幣使れいへいし街道かいどう天皇てんのうのお使いがおまいりにとおった道)には、いまも一万四千本のみごとなスギ並木なみきがのこされています。そのスギ並木なみきを見たら、むかしその下を将軍しょうぐんたちの行列が、ぞろぞろととおっていったことを思いうかべてみてください。
 
 「道は生きている」(富山とみやま和子)講談社こうだんしゃ青い鳥文庫より
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