美しい景色をみて思わず、「きれいね」と口にでて、たのしい思いになる、それでもう十分とも思いますが、そのたのしい思いにさせてくれるものの姿を、たしかめてみましょう。
美しいものと、美しくないものと、わたくしはいま自分の部屋を見まわして、よりわけてみました。
机の上のペン皿にあるえんぴつ、何本かのえんぴつの中で美しく目にうつるのは、けずりたてのえんぴつです。シンがまるくなったり、折れたままのは美しいとは思えません。
お皿に盛ったバナナは、あざやかな黄の色をしていて美しい。でも実をたべてしまった皮は、皮になった瞬間に、もう美しいとは思えませんし、色もまたたちまち黒ずんできたなくなってしまいます。
けずりたてのえんぴつが美しく目にうつるのは、「どうぞ、いつでもすぐに使えますよ。」と、すぐに役にたつ姿を見せてくれているからでしょう。
バナナの皮も、中に実をつつんでいるという、使命をもっているときは美しいのですが、その使命が終わって皮だけになった瞬間に美しくなくなります。
こうしたことを思うと、人に心よい感動をあたえる美しさとは、そのものが役にたつという姿を見せているところにあるのではないかと思われます。
花が美しい、木々が美しいというのは、その命の美しさを感じるところにあります。命とは活動することであって、つまり、役目をはたしている姿です。花も木も、せいいっぱいに生き、そして自分たちの子孫を永続させるために、花を咲かせ、実をならし、その命を充実させて、活動しているのです。
わたくしたちは働く人を美しいと見ます。どんなにどろんこでも、汗みどろでも、働く姿は美しい。どろんこも、汗も、働く姿の美しさを引きたてます。これは、働くという行為が、活動そのものであり、役だつ使命をはたすことであり、汗もどろんこもまた、そのためにあるからです。
でも、働くことをやめて、食卓にむかったときの、汗みどろ、
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