a 長文 7.4週 ti2
 言葉は風景ふうけいのようなものだ。いや、山や野に咲くさ 生きた花畠はなばたけのような気もする。種子しゅしは同じでも、時と場所によって、咲かせるさ   花は違うちが 
 たとえば今、東京・新宿には高層こうそうビルが林立して、まるで二十一世紀せいき未来みらい都市のように見える。戦後せんご、新宿西口がまだ闇市やみいちの時代に、わたしは、フランス文学科の学生だったが、駅前マーケットの間を詩を書こうとしてほっつき歩いていたから、今日のまち風景ふうけいを見ると、まったく隔世かくせいの感がある。
 本当にバラック建築けんちくつづきのごった煮   にまちで、混乱こんらんをきわめていたが、しかし一種いっしゅの活気があった。戦争せんそうの暗い時代から解放かいほうされたということで、文学や芸術げいじゅつ、自由が沸騰ふっとうしていた。しかも、アメリカぐん占領せんりょう下にあって、言葉には米語スラングが氾濫はんらんしていた。
 そうした混乱こんらんの一時期ののち、朝鮮ちょうせん戦争せんそうさかいに、また、だんだん世の中が静まりしず  、しだいに日本の社会も姿すがたを整えていった。
 かくて今や、新宿の空を見上げれば、忽然とこつぜん してゆめのような東京都庁とちょうをはじめちょう高層こうそうビルが立ちならび、ビルの谷間を、朝晩あさばん通勤つうきんの人々の列が埋めう ている。まことに、ゆめうつつかという想いがする。
 その間にわたしたちの日本語も変わっか  た。これは当然とうぜんのことだ。世の中が変わりか  都市ができれば、文明の、こうした風景ふうけい出現しゅつげんする。人間の生活も変わるか  ビルがいができれば歩き方も違っちが てくるし、ファッションも変わるか  というものだろう。人間の生活が変われか  ば言葉も変わるか  当然とうぜん話し方も違っちが てくる。人それぞれの考え方も、環境かんきょうによって変わっか  ていくことであろう。
 このごろ、日本語が乱れみだ ている、敬語けいごが目茶苦茶だ、外来語の
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カタカナが多すぎる、若者わかものへん造語ぞうごがさっぱりわからない、日本語はこの先どうなるんだと、よく話題になる。たしかにそういう気がしないわけでもない。だが、本当にそうだろうか。
 ここで、正しい言葉とは一体何だろうと、もう一度考えてみる必要ひつようがある。もし正しい言葉というものが、一つだけはっきり定まっているのであれば、たしかに、みながそれだけを使えば用は足りることになる。
 たとえば水を飲みたいということを言いたいとき、意味が伝わりつた  さえすればいいのであれば、「水が飲みたい」という言い方が一つあれば充分じゅうぶんだ。しかし、現実げんじつはどうだろうか。そんな簡単かんたんなものではない。
 人間の生活や心は限りかぎ なく豊かゆた だ。そこで言葉にもひねりをかけようとする。「ああ、水が飲みてぇな」とか「のどがからっからだ」とか、なぜか一本調子の言い方から外してみたくなる。
 特にとく 若者わかものは言葉の冒険ぼうけんをすることで自己じこ主張しゅちょうをしたり、目立ちたがる。また、自分たちの遊び心や、グループの仲間なかま意識いしきなどを満足まんぞくさせようとする。
 若者わかものばかりでない。職人しょくにんさんなども、自分たちの職業しょくぎょう特色とくしょくを表わすために、言葉にひねりをかけることがある。
 正しい言葉というものは、たしかにある。しかし、実際じっさいに生活のなかで言葉が活きているのは、ひねりをかけて、そこからちょっと外した姿すがたである。だから、ぎゃくに活きている言葉は、正しい言葉の外側そとがわにあるともいえる。

栗田くりた いさむ『日本文化のキーワード――七つのやまと言葉でその宝庫ほうこを開く』(祥伝社しょうでんしゃ))
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