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 人間は、だいたい思春期から不機嫌ふきげんというものを覚えおぼ ていきます。いろいろ本を読んで考える、こいをして悩むなや 周囲しゅういの大人を煙たくけむ  感じる、自分は何かもっと違っちが たものになりたいと思う、そんな青春時代から不機嫌ふきげんモードに入る。
「うつむいて うつむくことで 君は生へと一歩踏み出すふ だ 
 これは、谷川俊太郎しゅんたろうさんの『うつむく青年』という詩の一節いっせつです。うつむいて内省ないせいし、世の中に迎合げいごうしないで自分自身の世界を作り上げようとするのは、青年の特徴とくちょうです。
 また、尾崎おざきゆたかに、『十五の夜』という歌があります。「盗んぬす だバイクで走り出す」という歌詞かしは、十五さいという自立前の年齢ねんれいのどうしようもない鬱屈うっくつ描いえが ているから人の共感きょうかん呼ぶよ のです。しかし、二十歳はたちをすぎてもこれをやっていたら、社会からは受け入れられません。「二十五の夜」に「盗んぬす だバイクで走り出」したら、それは単なるたん  社会からの逸脱いつだつ犯罪はんざいにすぎません。
 石川啄木たくぼくは、「不来方こずかたの おしろの草に寝ころびね   て 空にはれし 十五の心」と詠みよ ました。このような哀愁あいしゅうも、青年期には似合いにあ ます。
 今の時代、人に気遣いきづか のできる上機嫌じょうきげんな子どもを期待する向きは少ないと言えましょう。成長せいちょう期の精神せいしんてき安定は求めもと られていない。たとえば、中学生は親しい友だち同士どうしだとなかがよくてご機嫌 きげんですが、大人や、仲間なかま以外いがいの人に対しては不機嫌ふきげんで、それもまた仕方ないという空気があります。反抗はんこう期だからです。これは人間の成長せいちょう必要ひつよう欠くか べからざるもので、最近さいきん反抗はんこう期らしい反抗はんこう期がないのが心配されるというろん唱えるとな  方もいらっしゃいます。
 わたし自身は、反抗はんこう期というものは必ずしもかなら   必要ひつようないと考えています。基本きほんてきに人に気を遣うつか という能力のうりょくは、「わざ」であり、ここ
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ろの習慣しゅうかんの問題です。そのこころの習慣しゅうかんを、ある時期全くなくしていいというのは、社会としておかしいと思うのです。
 十代の精神せいしんてき葛藤かっとうの多い時期だからといって、人に対する気遣いきづか をしなくていいということはありません。この習慣しゅうかん忘れわす てなくしてしまっていいと許容きょようしてしまいますと、身についた「当たり散らしあ  ち  ぐせ」や「むっとしたままぐせ」はその人の中で続いつづ てしまい、当たり前のものとなってしまうことが多いのです。ここから脱却だっきゃくしようとすれば、もう一度「人に気を遣うつか 」というわざを、自分の中で作り直さないとなりません。
 現在げんざいは、子どもが不機嫌ふきげんであっても無愛想ぶあいそうであっても、積極せっきょくてきに直す努力どりょくをしない。たとえば、会話をしない状態じょうたい放置ほうちしている。親が話しかけても何も答えない。「別にべつ 」「ふつう」がせいぜいです。「別にべつ 」「ふつう」というのは、会話を拒否きょひした状態じょうたいであり、拒否きょひの意思表示ひょうじです。それはいけないことだと、はっきりと指摘してきしなければならない。相手と関係かんけい結びむす たくないという意思表示ひょうじ、会話に対してきちんと答えないという拒否きょひ状態じょうたいが、成長せいちょうにとって必要ひつようなことであるとはわたしは思わないのです。

齋藤さいとうたかし上機嫌じょうきげん作法さほう』(角川書店))
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