a 長文 10.1週 tu2
 1良い(よ )ものを長く使う、というのが粋(いき)とされた時代があった。
 イギリスやアメリカの名門大学の講師(こうし)や教授(きょうじゅ)たちが、肘(ひじ)当てのついたツイードのジャケットを何十年も愛用(あいよう)している話など、私(わたし)が若い(わか )ころには皆(みな)が憧れ(あこが )たものである。
 2無理(むり)をして上等の品物を買うと、それが古くなってもなかなか捨てる(す  )ことができない。私(わたし)の身のまわりには、そんな古着や古靴(くつ)が山のように積み(つ )あがっていて、身のおきどころさえない有様だ。
 3これが二、三十年前なら、喜々(きき)としてそんな年代物のジャケットや靴(くつ)やカバンを身につけて出歩いたことだろう。
 だが、そんな時代は、どうやらとっくに過ぎ去っ(す さ )てしまったかのようである。4そして世間の風潮(ふうちょう)が、新しいものを短くサッと使い捨てる(す  )方向へ変わっ(か  )てきたことを、いやでも痛感(つうかん)しないわけにはいかない。
 私(わたし)は新人作家のころに買ったマンションに、三十七、八年間ずっと住んでいて、
「えっ、まだあそこにお住まいなんですか」
と、知人にびっくりされることも少なくない。
 5コンクリートの建物(たてもの)は、三十年もたつとかなりいたんでくるものだ。改修(かいしゅう)をくり返したところで、いつかは限界(げんかい)がくるだろう。
 そんな自宅(じたく)マンションのガス湯沸かし器(ゆわ  き)の点火部分がこわれたのは、たぶん七、八年前のことではあるまいか。
 6何しろ建物(たてもの)が完成(かんせい)して入居(にゅうきょ)した日以来(いらい)、ずっと使い続け(つづ )てきた古いガス湯沸かし器(ゆわ  き)なのである。三十年あまりも、よくこわれずに保っ(たも )たものだ。
 最初(さいしょ)から操作(そうさ)する際(さい)に、やたらと力が必要(ひつよう)な機械(きかい)だった。7バルブを開けるのも、点火スイッチを押す(お )にも、腰(こし)をすえて力をこめないと動かない。それだけ頑丈(がんじょう)に作ってあるからこそ、三十年も故障(こしょう)なしで使ってこられたのだろう。
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 8その頑固(がんこ)で無骨(ぶこつ)な旧式(きゅうしき)のガス湯沸かし器(ゆわ  き)の一部が、ついにこわれた。いい機会(きかい)だから新型(しんがた)に取りかえようと思った。最近(さいきん)は、見た目もスマートで、機能(きのう)的(てき)にも新しい給湯(きゅうとう)器(き)が、いくらでも出ているはずだ。
 9そう思いつつも、長年愛用(あいよう)してきた古い道具への心残り(こころのこ )もないわけではなかった。
 この野暮(やぼ)な湯沸かし器(ゆわ  き)は、一体どこの製品(せいひん)なのだろうかと、ふと興味(きょうみ)をおぼえたのである。
 考えてみると、故障(こしょう)ひとつおこさずに三十年も働い(はたら )てきたというのは、それだけでもえらい。
 0あちこち調べていると、黄色く変色(へんしょく)したメーカーの紙がはりつけてあるのを発見した。それではじめてその湯沸かし器(ゆわ  き)がドイツ製(せい)であることに気づいた。
 メーカーはユンカース。
 (中略(ちゅうりゃく))
 さらにあちこち調べてみると、日本の代理店の住所と電話番号が印刷(いんさつ)されている。
「何しろ三十年前だからなあ」
と、ほとんど期待しないで電話をかけてみた。すぐに相手がでたので、びっくりする。
「あの、ユンカースの……」
「はい、はい、なんでしょう」
「ガス湯沸かし器(ゆわ  き)の点火スイッチがこわれたんですが、まさか、スペアの部品は……」
「ありますよ。修理(しゅうり)なさるんですね」
「えっ、あるんですか」
 ドイツというのは、つくづく凄い(すご )国だと思った。

(五木 寛之(ひろゆき)『新・風に吹か(ふ )れて』(講談社(こうだんしゃ)))
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a 長文 10.2週 tu2
 1今までの実験(じっけん)では、問題をクレバー・ハンスに示す(しめ )ときに、その場にいる人たちはもちろん、その問題をいっしょにみて知っているわけですが、こんどは、問題をその場にいる人たちには知れないようにして、クレバー・ハンスだけがわかるようにします。2たとえば一枚(まい)一枚(まい)のカードに問題を書いてごちゃごちゃにし、その中から一枚(まい)を抜き出し(ぬ だ )て、それがどの問題を書いたカードかがその場にいるだれにもわからないようにして、ハンスに示し(しめ )ます。3そうすると、もうウマはまったく答えることができません。一番やさしい問題にも答えられないのです。クレバー・ハンスは、とめどなくヒヅメで床(ゆか)をたたいたり、わけのわからない仕方で床(ゆか)を打ったりするだけです。4そのようすは、ちょうど、問題を解こ(と )うとしているというよりは、問題を出した人が床(ゆか)をたたくのをやめろという合図をするのを今か今かと待っているようにみえます。これはどうしたことでしょうか。
 5クレバー・ハンスが習ったのは、問題のほんとうの解き方(と かた)ではなかったのです。答えに相当する数を打ちおわった瞬間(しゅんかん)に、まわりの人が知らず知らずにちょっと動いたりする、この微妙(びみょう)な動きを見ぬくことを習っていたのです。
 6実験(じっけん)を行う質問(しつもん)者の立場になって考えてみましょう。質問(しつもん)者は、必要(ひつよう)な打ち数をあらかじめ知っているわけです。床(ゆか)をたたく打ち数を正確(せいかく)に数えるためには、質問(しつもん)者自身が数えなければなりません。7それですから、最後(さいご)の打ち数になった瞬間(しゅんかん)には質問(しつもん)者は自然(しぜん)にほっとすることになります。そういうときには、頭やからだをおもわずちょっと前へ出すとかうしろへ引くとかするものです。8クレバー・ハンスは、まわりの人びとがするこの微妙(びみょう)な運動に答えていたのです。
 プングストはこういう運動を問題の答えと関係(かんけい)なく、少々大げさにやってみましたところ、クレバー・ハンスの答えを自由に変える(か  )ことに成功(せいこう)しました。9このウマは、もともとこういう運動をわざわざ習ったわけではないのですが、訓練(くんれん)中に自然(しぜん)にそうならされてしまったものでしょう。
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 アマガエルはじっとしている獲物(えもの)には気がつきませんが、それが動きだすと、急にとびつきます。0動物は静止(せいし)しているものには鈍感(どんかん)ですが、運動には、それがほんのわずかな運動でも、気がつくことができます。ウマについても同じことです。
 ウマが人間と同じ知恵(ちえ)をもっているという信念(しんねん)を確かめる(たし   )ためにやった大さわぎは、ただ、ウマが微妙(びみょう)な運動をすばやくみわけられることを確かめ(たし  )ていたにすぎなかったわけです。世間の人たちや学者たちまでがそれに気がつかなかったのは、クレバー・ハンスの答えの正確(せいかく)なことにまどわされて、答えがえられる仕方がまったく人間の場合と同じだと思いこんでいたからです。
 動物が人間と同じような表情(ひょうじょう)をしたり、行動をするように思えることがありますが、そのときにすぐ、人間になぞらえて考えてしまいがちです。しかし、その行動にとらわれない心で観察(かんさつ)し、前後のすじ道を考えてみますと、まったく当たらないことがあるものです。
 クレバー・ハンスの大さわぎは、このうえもなくばかげたことのようですが、動物が人間と同じ知恵(ちえ)をもっていて、人間と同じように教育ができるというのはまちがいだということをはっきりわたくしたちに教えてくれたのです。それでわたくしたちはこのことを、「クレバー・ハンスの誤り(あやま )」とよんでいます。その意味は、クレバー・ハンスが答えをまちがえたからではありません。クレバー・ハンスが、人間がもっているような知恵(ちえ)で答えられると信じ(しん )ていた人たちのまちがいという意味です。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 10.3週 tu2
 1イヌが聞きわける音は、魚の聞きわける音よりも広い範囲(はんい)のように思えます。わたくしたちが注意してもほとんど聞くことのできない遠くの音にイヌは耳をそば立てて、吠える(ほ  )ことがあるのは、みなさんも知っていることでしょう。
 2フォックス先生は直径(ちょっけい)三ミリほどのスチールのボールを三センチくらいの高さから床(ゆか)に落として実験(じっけん)しましたが、人間にやっと聞こえる距離(きょり)の四倍も遠い距離(きょり)でも、イヌには、ボールの落ちる音が聞こえることを確かめ(たし  )ました。3これはイヌがわたくしたちが聞きわけられる音よりもずっと弱い音を聞きわけるということですが、わたくしたちにはあまり高くて聞くことのできない音も聞きわけることがわかりました。4サイレント笛といわれる笛は、わたくしたちには聞こえない高い音も出せますが、口笛のようにこれを吹い(ふ )てイヌをよぶ訓練(くんれん)もできます。また、楽器(がっき)の奏でる(かな  )音の中には、わたくしたちには聞こえない高い音がふくまれていますが、イヌはこれを聞きわけることもできるのです。
 5ソビエトのパブロフ先生はお腹( なか)のすいたイヌに肉を食べさせる数秒前にベルの音を聞かせることをくり返しましたが、三十回くり返すと、イヌが肉のにおいをかいだり、みたりしないうちに、音を聞いただけで口の中によだれが出てくることをみつけました。6イヌののどにゴムの管(かん)を入れておきますと、よだれが管(かん)を通ってしずくになって出てきます。このしずくを目盛(めもり)のついたガラスびんの中にうけ入れると、よだれの分量(ぶんりょう)を測る(はか )ことができます。7音を聞かせては肉を食べさせることをくり返しますと、音を聞くとすぐによだれが出てくるだけでなく、その分量(ぶんりょう)もだんだんに増え(ふ )ていくことがわかりました。このやり方は条件(じょうけん)づけといいます。8わたくしたちも、お腹( なか)のすいたお昼時に、学校の授業(じゅぎょう)の終わりを告げる(つ  )ベルの音を聞くと、自然(しぜん)に口の中につばがでて来たりしますが、これと同じことと思えます。
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 9このやり方でイヌにピアノのある音を聞かせてから、その音を出した鍵盤(けんばん)からずっと離れ(はな )た鍵盤(けんばん)の音を聞かせてみましたところ、はじめの音ではよだれがでてくるのに後の音では止まってしまったのです。0イヌにとって二つの音は同じ音ではなく、ちがう音として明らかに区別(くべつ)されたわけです。はじめの音はごちそうの出る合図ですが、それとはちがう後の音は合図にはならなかったのです。イヌは鍵盤(けんばん)のひとつひとつの音を区別(くべつ)できるばかりではなく、その四分の一の高さのちがいでも聞きわけることができます。もちろん、わたくしたち人間も、ことにバイオリンをひいたり、フリュートを吹い(ふ )たりする人たち、また、それらの楽器(がっき)を調律(ちょうりつ)する人たちは、これよりももっとわずかな音の高さのちがいをも聞きわけられます。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 10.4週 tu2
 1左右に偏ら(かたよ )ず、目指す地点に近づくことは大事なことである。しかし、私(わたし)たちは黒白どちらかに行き過ぎる(い す  )ことが多い。働く(はたら )といえば働き(はたら )っぱなし、休むといえばゆるみっぱなしになりがちなのが人間というものらしい。2酒は百薬の長、などという。いい加減(  かげん)にたしなめば心身にいい影響(えいきょう)があることはたしかだ。しかし、どこをもってその理想的(てき)な地点とするのか。ここに一般(いっぱん)的(てき)な基準(きじゅん)はないと私(わたし)は思う。私(わたし)は宇宙(うちゅう)天地の間に、ただ一人の私(わたし)なのだ。3同じ人間は地球上にいない。そうとなれば、私(わたし)個人(こじん)の基準(きじゅん)をさがし、それを目標(もくひょう)にするしかない。日々の労働(ろうどう)の場においては、そこまで個人(こじん)を主張(しゅちょう)できるわけではない。私(わたし)たちは共通(きょうつう)の規則(きそく)にしたがわなければ暮らし(く  )ていけないのだ。4しかし、自分の休日は、自分でやりたいことをやる。ほかの人から見てばかばかしいと思われようが、無駄(むだ)だと笑わ(わら )れようが、そこは個人(こじん)の世界である。
 薬の使用書などを読むと、十三歳(さい)以下(いか)はこれこれ、大人はこれこれ、と使用量(りょう)が指定されている。5しかし、現実(げんじつ)には四十キロの体重に満た(み )ない大人の女性(じょせい)もいれば、百キロ以上(いじょう)の重い人もいる。二十歳(さい)の青年もいれば、八十歳(さい)をすぎた老人(ろうじん)もいる。胃腸(いちょう)の丈夫(じょうぶ)な人もいれば、すぐに調子を悪くするタイプもいる。6アレルギー体質(たいしつ)の人も、病みあがりの人も、すべて大人ということでくくってしまう共通(きょうつう)の世界だ。使用にあたっては医師(いし)の指示(しじ)を受けて、などと書いてあるが、薬局で一般(いっぱん)的(てき)な売薬を買ってくる人で、いちいち医師(いし)に相談する人がいるだろうか。
 7そこでは私(わたし)たちは人間一般(いっぱん)として取り扱わ(と あつか )れているのだ。社会とはそういうものだ。私(わたし)たちは一個(こ)の個人(こじん)としてではなく、多数の類似(るいじ)品のひとつと見なされるのである。
 こうなれば、せめて自分の休日ぐらいは、世界でただ一人の自己(じこ)と向きあいたい。8自分は一体どういう人間なのか、体や心はどのように他人とちがうか、そこを見極める(みきわ  )ことからはじめて、自分だ
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けの遊び方をさがすことだ。そのとき、世界のなかの私(わたし)ではなくて、私(わたし)ひとりの世界が見えてくる。9ちゃんと体を洗う(あら )、ということでさえも楽しく遊ぶことはできる。休日の一日、断食(だんじき)してみるという遊び方もある。読めるけれども書けない漢字を十個(こ)ほどリストアップして、一日かかってぜんぶ書けるようにする、という遊びもある。0自分の生まれた年に、なにがあり、どんな人がいたかを調べて遊ぶこともできる。私(わたし)は昭和七年、一九三二年の生まれだが、その年の流行語とか、その年に発表された作品とかを拾い集めて遊んだことがあった。昭和七年には、例えば(たと  )俳句(はいく)では、中村汀女(ていじょ)の「さみだれや 船がおくる電話など」という句(く)が作られており、杉田(すぎた)久女(ひさじょ)が『花衣(はなごろも)』を創刊(そうかん)、「ぬかづけば われも善女(ぜんにょ)や仏生会(ぶっしょうえ)」などという句(く)を発表している。流行語には「生まれてはみたけれど」などという文句(もんく)があった。
 そんなことのどこがおもしろいのか、ときかれれば頭をかくしかない。しかし、ほかの人にとって意味のないことこそ、自分にとっては大事なのだ。世間一般(いっぱん)ではなく、自分の世界をつくりだすこと、これが私(わたし)の頭休めであり、格好よく(かっこう  )いえば知の休日でもあった。とりあえず、こんな休日をつみ重ねて、私(わたし)は六十七歳(さい)の今日まで、何とか生きながらえてきた。こんどひまができたら何をしようか、と、いつも楽しみながら暮らし(く  )ている。歳(とし)を重ねるごとに一年が早くすぎてゆく、とは、よく耳にすることだ。たしかに時間が矢のようにとび去っていく感じがある。しかし、ちゃんと退屈(たいくつ)することができたとき、時間はゆるやかに流れはじめるのだ。さて、なにをしてきょう一日をすごそうか、と考えるときは、すでにもう世間の時間ではなく、自分の時間に変り(かわ )はじめているのである。時間を自分のリズムにすることこそ、この忙しい(いそが  )人生をたっぷり生きるための秘訣(ひけつ)ではないだろうか。

(五木寛之(ひろゆき)「知の休日」(集英社(しゅうえいしゃ)新書)による)
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a 長文 11.1週 tu2
 1デンショバトは、巣(す)から二千キロメートルほども離れ(はな )た場所で放されても、まちがいなくもどって来ます。長距離(ちょうきょり)といえば渡り鳥(わた どり)が海を渡っ(わた )てとぶのはもっとおどろくべきことかもしれません。2例えば(たと  )ツバメは夏の終わるころ、ヨーロッパの国ぐにから南アフリカ各地(かくち)に渡っ(わた )て冬を過ごし(す  )ます。しかも、翌年(よくねん)の春にはヨーロッパにまいもどり、以前(いぜん)の巣(す)があって、そこからとび立った建物(たてもの)の軒下(のきした)にふたたび巣(す)をかけることもあるのです。3イギリスから南にとんで行った十四羽のツバメの足に足環(わ)をはめ、印(しるし)としておいたところ、全部が南アフリカでみつけられたという報告(ほうこく)もあります。この渡行(とこう)距離(きょり)はおよそ一万キロメートルもあるのです。4そして、ツバメたちは春にはまたイギリスにもどってくるわけです。どうしてこんな長い距離(きょり)を正確(せいかく)に往復(おうふく)することができるのでしょうか。親鳥から次つぎの世代に渡り(わた )の道筋(みちすじ)を伝える(つた  )のでしょうか。5どうもそうではないらしいのです。親鳥は若い(わか )鳥たちがとび立つまえに、さっさと先にとんで行ってしまいます。若(わか)鳥はその後を特に(とく )追いかけるのでもないのです。
 6一度、通った道を帰ってくるときには、途中(とちゅう)の地形や目立ったものが手がかりになります。ところが渡り鳥(わた どり)は洋上をとんで渡行(とこう)するので、なにも目印(めじるし)はないし、しかも夜間飛行(ひこう)もするのです。
 7アメリカ産(さん)のチドリは、初秋(しょしゅう)のころ、カナダから南アメリカに三千キロメートルの洋上をノンストップでとぶということです。ペンギン鳥はとぶことはできませんが、中には毎年、南極大陸(なんきょくたいりく)と南アメリカとを泳いで往復(おうふく)するものもいます。8鳥たちがまちがいなく巣(す)にもどってくるのは、地形をおぼえたり、目立ったなにかを目印(めじるし)にしたりするのではないようです。
 虫たちもこれに似(に)た大移動(いどう)をします。9イナゴの大群(たいぐん)が、東アフリカでは、八時間にわたって休みなく五〜六〇〇キロメートルの
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距離(きょり)を一定の方向にとんで行くということです。イナゴの幼虫(ようちゅう)は、羽をもっていませんが、羽をもつようになると群(む)らがり出し、とび立って行くのです。0乾燥(かんそう)した年には緑の草を求め(もと )て、風をたよりに群(む)らがってとぶのです。ヨーロッパにいるヒメアカハタチョウは冬の季節(きせつ)にはそこでは生き続け(つづ )られないのですが、その季節(きせつ)に北アフリカで繁殖(はんしょく)します。やがて春をむかえると、チョウは地中海を渡っ(わた )て六月ころにはヨーロッパに到着(とうちゃく)します。七月に卵(たまご)を産みつけ(う   )、新しい幼虫(ようちゅう)は八月には一人前になります。大部分のチョウはヨーロッパで冬を越す(こ )ことはできませんが、その中からふたたび、アフリカにとぶものもいるのです。チョウは一定の方向にとび、風向きが変わっ(か  )ても方向をとりちがえないで行きますので、渡り鳥(わた どり)と同様、ふしぎな能力(のうりょく)をもっているわけです。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 11.2週 tu2
 1ウナギは卵(たまご)を生むために育った土地から五〜六〇〇〇キロメートルも離れ(はな )たところまで泳いで行くということですが、そこで生まれた子どもがふたたび両親の育った土地まで帰ってくるというのですから、これもふしぎな大旅行といえそうです。2ウナギはおよそ十歳(さい)になると川を下って海に出て行きます。例えば(たと  )ヨーロッパ各地(かくち)のウナギは川をつたって大西洋に入ります。そこからは深海にもぐって西インド諸島(しょとう)の付近(ふきん)まで行くらしいのです。そこでウナギの両親は子どもを産ん(う )で死ぬのです。3育った子ウナギは、やがて海を渡っ(わた )てヨーロッパにもどる大旅行をすることになります。海からヨーロッパの河口(かこう)に到達(とうたつ)するころになると、ウナギの身長は五センチ以上(いじょう)になりますが、群れ(む )をなして上流にさかのぼって行きます。4そして、両親の育った場所にもどり、ふたたび、両親の役目をくり返すわけです。この大旅行についても、渡り鳥(わた どり)やデンショバトのような太陽コンパスが考えられるかどうか、両親の故郷(こきょう)の生活を一度もしたことのないウナギの子が、そこに帰って行くことを考えるとなかなかむずかしいことです。
 5サケも卵(たまご)を生むために大旅行をしますが、ウナギの場合とちょうど逆さま(さか  )で、海から泳いで河口(かこう)に達し(たっ )川をさかのぼって行きます。卵(たまご)は上流の河床(かわどこ)に産みつけ(う   )られるのです。生まれたサケの子は、約(やく)二年間、川の中で過ごし(す  )、それから川を下って海に出て行きます。6そこで二年以上(いじょう)過ごし(す  )、十分に成長(せいちょう)したサケはふたたび、海から川に向かってもどることになります。ふしぎなのは、サケがもどる川が、はじめに育って出て行った川だということです。同じサケがもどって来たのかどうかを確かめる(たし   )ために、ひれのある場所を切って印(しるし)をつけておいてわかったのです。
 7サケはおどろくべき記憶(きおく)力をもっていて、出て行った川をおぼえているのでしょうか。サケの卵(たまご)を産卵(さんらん)地とちがう川の上流に移し(うつ )かえる実験(じっけん)がアメリカのカリフォルニアで行われました。8サケは生まれた土地にではなく、育った土地にもどって来ました。
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サケは育った土地をおぼえていたのです。サケはなにを目印(めじるし)に故郷(こきょう)の川をさがし出すのでしょうか、海の中にも太陽コンパスは働く(はたら )かもしれません。しかし、魚の場合にはそれ以外(いがい)にも手がかりがあります。9それは臭(におい)です。二つの別(べつ)の川の水を水槽(すいそう)の中に流し、一方の流れのときだけ餌(えさ)を入れますと、サケは流れのちがいを嗅ぎ(か )わけるらしいのです。それですから、海から河口(かこう)に近づくと自分の育った川の流れをさぐり当てることもできそうです。0

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 11.3週 tu2
 1動物たちは、わたくしたち人間と同じような時間のはやさを感じているのでしょうか。ドイツの若い(わか )先生たちは水槽(すいそう)の中にトウギョを入れ、灰色(はいいろ)の円盤(えんばん)のうしろに餌(えさ)を置き(お )ました。2トウギョが円盤(えんばん)をまわって餌(えさ)にぱくつくことを訓練(くんれん)しようとしたのです。魚はやがてそうするようになりましたが、そのあとで、灰色(はいいろ)の円盤(えんばん)の代わりに黒・白の扇形(おうぎがた)に塗り(ぬ )分けた円盤(えんばん)を用いそれをはやく回転しました。3この回転をうまく調節(ちょうせつ)すると灰色(はいいろ)の円盤(えんばん)と同じようにみえます。魚は灰色(はいいろ)の円盤(えんばん)と同じように餌(えさ)を求め(もと )て近寄っ(ちかよ )て来ました。次には、回転をゆっくりし、灰色(はいいろ)の円盤(えんばん)にはみえなくなり、白・黒の扇形(おうぎがた)が交替(こうたい)してみえるようにします。4それでもトウギョが近寄っ(ちかよ )てくれば追いはらうことにしました。その後、ゆっくりした回転からはやい回転まで、いろいろの速さで試し(ため )てみましたが、一回転、五十分の一秒以内(いない)ではトウギョは近づいて来ますが、それよりおそくなると遠ざかってしまいました。5速く動きまわっている獲物(えもの)をとらえて生きているトウギョにとっては、わたくしたちが感じられないほど速い運動も感じとることができるのでしょう。
 終わりにもう一つおもしろい実験(じっけん)をお話ししましょう。6カタツムリを、ゴムのボールの上にのせます。殻(から)のところは上からかすがいでとめてあるので、カタツムリは移動(いどう)することはできないのです。しかし、ゴムボールは水の上に浮かん(う  )でいますからなめらかにすべり動かすことができます。7この仕組みでカタツムリは持前のはう運動を自由にすることができますが、その結果(けっか)、移動(いどう)はしないわけです。一本の棒(ぼう)を前方からカタツムリの足の裏(うら)に近づけますと、カタツムリはその上にはい上がろうとします。8一秒間に一〜三回、棒(ぼう)を振動(しんどう)させますとカタツムリははい上がろうとはしません。ところが一秒間に四回以上(いじょう)振動(しんどう)させますと、カタツムリは平気ではい上がって来ようとします。ゆっくりとはっているカタツムリ
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にとっては、一秒間に四回以上(いじょう)の振動(しんどう)は静止(せいし)しているのと同じなのです。9カタツムリのはうスピードはわたくしたちにとっては、ずいぶんおそいテンポに感じますが、カタツムリにとっては決しておそいテンポではないのです。
 0動物たちはそれぞれにふさわしいテンポで動いています。わたくしたち人間のテンポからみて速過ぎる(す  )ものもあれば、おそ過ぎる(す  )ものもありますが、それはどこまでも人間からみた感じです。小ザルたちはせかせかと動きまわりますが、それはサルたちが神経質(しんけいしつ)だからではないのです。カタツムリがゆっくりはっているのは、ぐずだからではないのです。わたくしたちのテンポを物差し(ものさ )にしてせかせかしているとかぐずぐずしているとか思ってはまちがいです。もしそうはやのみこみすれば、クレバー・ハンスの誤り(あやま )をここでもくり返すことになります。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 11.4週 tu2
 1過去(かこ)の集落を成り立た(な た )せていたパラダイムのことを、私(わたし)は「依存(いぞん)型(がた)共生(きょうせい)」と名づけました。「依存(いぞん)型(がた)」というのは、技術(ぎじゅつ)が依存(いぞん)型(がた)だということです。
 2住宅(じゅうたく)が単体(たんたい)では成立(せいりつ)し得(え)ないような依存(いぞん)型(がた)の技術(ぎじゅつ)しかなかった時代には、それを補う(おぎな )ために必然(ひつぜん)として「共生(きょうせい)関係(かんけい)」が生まれます。台風対策(たいさく)として防風(ぼうふう)林を必要(ひつよう)とする、備瀬(びせ)の木造(もくぞう)住宅(じゅうたく)などは、その典型(てんけい)です。
 3現代(げんだい)は、技術(ぎじゅつ)の進化によって、高度成長(せいちょう)期時代を境(さかい)にパラダイムが一気に変わり(か  )ました。依存(いぞん)型(がた)の技術(ぎじゅつ)が自立型(がた)の技術(ぎじゅつ)にガラッと変わる(か  )瞬間(しゅんかん)があったのです。一気に自立型(がた)技術(ぎじゅつ)に変わっ(か  )ていって、その自立型(がた)の技術(ぎじゅつ)をどんどん進化させてきたのが、現在(げんざい)の我々(われわれ)の暮らし(く  )です。
 4自立型(がた)の技術(ぎじゅつ)を手に入れてしまうと、もはや我々(われわれ)は、環境(かんきょう)や隣人(りんじん)と共生(きょうせい)する必要(ひつよう)がなくなり、自分だけでよくなります。その結果(けっか)として、家も人も孤立(こりつ)していきます。ですから現代(げんだい)のパラダイムを「自立型(がた)孤独(こどく)」と名づけました。
(中略(ちゅうりゃく))
 5昔は、外とつながっていなければ、個人(こじん)単位(たんい)では生きていけませんでした。街(まち)全体の関係(かんけい)性(せい)の中で暮らし(く  )ていたので、人間関係(かんけい)も濃厚(のうこう)でした。ところが、それが一気に変容(へんよう)して、個人(こじん)単位(たんい)で自由を謳歌(おうか)できるライフスタイルができあがりました。6便利(べんり)で、個人(こじん)が自立した生活は、非常(ひじょう)に価値(かち)のあるものだと我々(われわれ)は思い込ん(おも こ )できました。しかし一方で、人間関係(かんけい)は失わ(うしな )れ、地域(ちいき)のコミュニティも希薄(きはく)になりました。7便利(べんり)で個人(こじん)主義(しゅぎ)的(てき)な価値(かち)を手に入れることは、関係(かんけい)という価値(かち)を失う(うしな )ことでもあったのです。その結果(けっか)として浮き彫り(う ぼ )になってきたのが、子どもや老人(ろうじん)など、社会的(てき)に弱い立場の人たちの問題です。
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(中略(ちゅうりゃく))
 8昔の住宅(じゅうたく)は不便(ふべん)でした。その不便(ふべん)さを補う(おぎな )ためには、外に対して働きかける(はたら    )ことが重要(じゅうよう)でした。その外への働きかけ(はたら   )が、豊か(ゆた )な外の環境(かんきょう)を作り上げていました。つまり、不便(ふべん)さが豊か(ゆた )さを作っていたのです。9ところが、現在(げんざい)の住宅(じゅうたく)のように便利(べんり)になると、不便(ふべん)さを補う(おぎな )必要(ひつよう)がなくなります。この結果(けっか)、外との関係(かんけい)性(せい)を絶つ(た )わけです。外に対しての働きかけ(はたら   )がゼロになると、外に豊か(ゆた )さは生まれません。
 0つまり、便利(べんり)さを手に入れてしまうと、もはや我々(われわれ)は豊か(ゆた )さを手に入れられない。そういう状況(じょうきょう)になっているということが、パラダイムを整理してわかることです。
 そう考えると便利(べんり)さと豊か(ゆた )さのどちらをとるか、都市としての豊か(ゆた )さはどうしたら手に入れられるか、という議論(ぎろん)になります。
 この場合によく出るのが、「進みすぎた技術(ぎじゅつ)によって豊か(ゆた )さを失っ(うしな )ているのであれば、もっと伝統(でんとう)的(てき)な、ローテクを使っていた昔の暮らし(く  )に戻れ(もど )ばいい」という、伝統(でんとう)回帰的(てき)な意見です。しかし、パラダイムの特質(とくしつ)を考えると、それは、不可能(ふかのう)です。便利(べんり)さを知ってしまった今、もう一度みんなで不便(ふべん)な生活に戻り(もど )ましょうといっても、非(ひ)現実(げんじつ)的(てき)な話です。
 そうなると、少し暗い気持ちにもなりますね。便利(べんり)さを手に入れられても、もう永遠(えいえん)に豊か(ゆた )さは手に入らないのか、と。でも、実はそうではありません。パラダイム論(ろん)の特質(とくしつ)に従う(したが )と、もっと楽観(らっかん)的(てき)になれるのです。
 パラダイムというのは、同じパラダイムがずっと固定(こてい)することは絶対(ぜったい)にありません。今のパラダイムは、どこかの段階(だんかい)で、また次なるパラダイムに移行(いこう)します。移行(いこう)する先がどう変わる(か  )のかを議論(ぎろん)することが重要(じゅうよう)なのです。
 今の都市環境(かんきょう)のいろいろな問題の根源(こんげん)は「孤立(こりつ)している」とい
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長文 11.4週 tu2のつづき
う状況(じょうきょう)です。恐らく(おそ  )新しいパラダイムは、自立型(がた)の技術(ぎじゅつ)がさらに追求(ついきゅう)されていく一方で、同時に、孤立(こりつ)し合っている状況(じょうきょう)をいかに「共生(きょうせい)」という方向に持っていけるか、ということが重要(じゅうよう)になってくると思います。要するに(よう   )「自立型(がた)」の技術(ぎじゅつ)と「共生(きょうせい)型(がた)」の工夫(くふう)とを両方成立(せいりつ)させていくというのが、次に来るであろう新しいパラダイムだと私(わたし)は思っています。

(甲斐(かい)徹郎(てつお)『自立のためのエコロジー』(ちくまプリマー新書)より 一部改変(かいへん)した)
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a 長文 12.1週 tu2
 1ここでもう一度クレバー・ハンスの誤り(あやま )を思い出してください。クレバー・ハンスが計算をするというのはまちがいでした。それならば、動物たちはみんな数えることはできないのでしょうか。2ハトは四粒(つぶ)のとうもろこしを一まとめにして積み重ね(つ かさ )た山と五粒(つぶ)の山とを作って置く(お )と、これを区別(くべつ)して好ん(この )で五粒(つぶ)の山をつつき、さらに五粒(つぶ)と六粒(つぶ)とにすると五粒(つぶ)よりも六粒(つぶ)を好ん(この )でつつくという報告(ほうこく)があります。3この実験(じっけん)では六粒(つぶ)と七粒(つぶ)とにしたところ、それは区別(くべつ)できなかったということです。ハトはこのように数の大小をある程度(  ていど)はみわけられることがわかります。人間でも一度に目でみて数えられる数は七つ前後だということですから、ハトが六つと七つとの区別(くべつ)がつかないのもうなずけることかもしれません。
 4この場合には同時に数の多少が比べ(くら )られるのですが、同時には比べ(くら )られない場合はもっとむずかしくなります。ツバメは巣(す)に七つか八つの卵(たまご)を産ん(う )で温めますが、卵(たまご)の一つをそっととりのぞいてみると、すぐにさらに一つを産ん(う )で加え(くわ )ます。5また一つをとり除く(  のぞ )とまた一つを産み(う )、そういうことをくり返すと五十も産み(う )続け(つづ )たという報告(ほうこく)もあります。しかし、これはツバメが数えながら卵(たまご)を産ん(う )でいるのかどうかは怪しい(あや  )ものだと思います。6別(べつ)の実験(じっけん)では鳥は巣(す)の中の四つの卵(たまご)の中から二つの卵(たまご)をとり出すと気づきますが、一つだけではまったく気づかないという報告(ほうこく)もあります。
 オランダのレベッツ先生たちはニワトリに一列に並べ(なら )たコメ粒(つぶ)をついばませる実験(じっけん)をしましたが、一粒(つぶ)置き(お )にコメ粒(つぶ)を糊(のり)ではりつけてとれないようにしました。7トリはすぐにそれがわかってまちがいなく一粒(つぶ)置き(お )につつくことができました。この訓練(くんれん)のあとで、二粒(つぶ)置き(お )にとれるようにしましたが、これもできます。ニワトリがほんとうに数えていたのかどうかはこれだけではどちらともいえないかもしれません。8いちいち、数えなくてもはがれるコメ粒(つぶ)とはがれないコメ粒(つぶ)とをなにかの手がかりで区別(くべつ)していたかもしれないからです。
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 しかし、ハトの実験(じっけん)の結果(けっか)ではハトは数えることができそうなのです。9ハトの前に一度にいく粒(つぶ)もの穀(こく)粒(つぶ)を並べる(なら  )のではなく一粒(つぶ)ずつ出します。そして六粒(つぶ)までは自由についばんで食べることができますが、七粒(つぶ)めごとにはりつけられた粒(つぶ)を出しそれは食べることができないようにしました。0これをくり返しているとやがてハトは六粒(つぶ)つついては七粒(つぶ)めはつつかないで見送るようになるのです。しかし、この結果(けっか)でもハトがほんとうに数えていたのかはわからないのです。六粒(つぶ)まで食べる時間がわかっていて、時間の経過(けいか)で判断(はんだん)していたかもしれないからです。そこで一粒(つぶ)一粒(つぶ)を出す間の時間をいろいろ変え(か )てみましたが、それでも七つめはつつかないで次を待つのは変わり(か  )なかったのです。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 12.2週 tu2
 1ドイツのケーラー先生は、第一次大戦(たいせん)のころ、アフリカのテネリファ島にあったチンパンジーの研究所で、おもしろい実験(じっけん)をしました。その中の有名な実験(じっけん)をいくつかお話ししたいと思います。
 天井(てんじょう)からバナナがつるしてありますが、直接(ちょくせつ)チンパンジーには手がとどきません。2部屋の隅(すみ)に数個(すうこ)の包装(ほうそう)箱が置か(お )れています。チンパンジーをこの部屋に入れると、背のび(せ  )をしてバナナをとろうとしたり、とび上がってみたりしますが、それがむだなことがわかると落ち着きなく歩きまわります。3やがて、すわって天井(てんじょう)のバナナをみたり、包装(ほうそう)箱をみたりしていますが、突然(とつぜん)、立ち上がってバナナのつるされている下に箱の一つをもって来て置き(お )、その上にもう一つの箱をのせ、これに上がってバナナをとったのです。4こういうことはチンパンジーにとって生まれてからはじめての出来ごとだったと思います。木にのぼってバナナをとるのはいつもやっていたことです。箱の上にのったり腰(こし)かけたりしたこともあります。5しかし、箱を重ねてその上にのってバナナをとったのははじめてです。次に、二個(こ)の箱だけではとどかない高さにバナナをつるしますと、いくつも箱を重ねて、その上によじのぼり、バナナをとることにも成功(せいこう)したのです。
 6別(べつ)の実験(じっけん)では、箱を部屋の外に置き(お )、チンパンジーを部屋につれてくる途中(とちゅう)でそれに気づくようにしておいたのです。同じバナナをとる問題で、チンパンジーは部屋からはみえない箱を部屋の外からもって来て、これにのってバナナをとることもできました。
 7チンパンジーの行動は、でたらめになにかしているうちにたまたま、目的(もくてき)にかなった結果(けっか)に到達(とうたつ)したというよりも、積み重ね(つ かさ )た箱とつるされたバナナとの関係(かんけい)を理解(りかい)すること、前にみたこと、したことを記憶(きおく)していること、そしてその記憶(きおく)を利用(りよう)していま解決(かいけつ)しなければならない問題に適し(てき )た新しい考えを生み出した結果(けっか)と思われます。
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 8ケーラー先生はこれを見通しのある学習とよんでいますが、次の実験(じっけん)も同じ例(れい)です。チンパンジーの檻(おり)の外にバナナが置か(お )れます。檻(おり)のこうしから手を伸ばす(の  )だけではバナナにはとどかないのです。一本の竹の棒(ぼう)が檻(おり)の中に置か(お )れます。9チンパンジーはあたかも天井(てんじょう)からつるされたバナナと床(ゆか)の箱とをじっとみたように、こんどもバナナと棒(ぼう)とをじっとみてから、突然(とつぜん)、棒(ぼう)をつかんで外のバナナをかきよせ、手のとどくところにひき寄せ(よ )たのです。0

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 12.3週 tu2
 1オーストリーのローレンツ先生はある初春(しょしゅん)のころ、ウィーンの森を散歩(さんぽ)していましたが、森の中の開けた草原に大きな一匹(ひき)の野ウサギをみつけました。ウサギは前のほうをみつめていましたが、果たせる(は   )かなもう一匹(ひき)の野ウサギがその方向から出て来ました。2二匹(ひき)のウサギはイヌが出会うとするように、鼻をつき合わせて一種(いっしゅ)のあいさつをしたあとで、突然(とつぜん)、それぞれ頭を相手のしっぽにぴったりつけたまま、小さな円を描い(えが )てぐるぐるかけまわり出し、つづいて相手をなぐったり、けったり、空中にとび上がったりして、激しい(はげ  )けんかをはじめました。3しかし、このけんかも先生がいっしょにつれていたお嬢さん( じょう  )が野ウサギたちのようすがあまりおかしいのにふき出したため、その声におどろいて、二匹(ひき)は分かれて別(べつ)べつの方向にとんで行きました。4これはなんでもないことのようですが、同じ種類(しゅるい)の動物たちのけんかはすべて、この野ウサギのけんかに似(に)ていることを先生は書物の中で強調しています。5二匹(ひき)のイヌが出会ったときに、みなさんもこんな光景(こうけい)をみたことがあるでしょう。足をつっぱり、尾(お)をぴんと立て、肩(かた)の毛を立て、ゆっくり歩みよって、すれちがうように横腹(よこばら)と横腹(よこばら)、頭と尾(お)とが向き合うようになります。6つづいてたがいの尻(しり)を嗅ぎ(か )合う行動がはじまります。もしどちらか一方が闘い(たたか )に敗ける(ま  )と感じると、たちまちしっぽを垂れ(た )て、ぐるっと背(せ)を向けて逃げ出す(に だ )ことになりますが、そうでなければ、けんかの姿勢(しせい)はそのまま、つづきます。7しかし、それでも一方のイヌがかなわないと思えば尾(お)をたれて首すじを強いイヌのほうにさらしたままになります。首すじはイヌにとって、ひとかみされても命にかかわる急所です。しかし、そのとき、ウーウーといいながらも勝ったほうのイヌはけっしてかみつかないのです。8先生はロンドン近郊(きんこう)の広い動物園の中で、オオカミのけんかをみてこれとまったく同じことになったことを書いています。イヌよりもはるかに荒っぽい(あら   )と思われるオオカミのけんかが、イヌや野ウサギ
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の場合と同じなのです。9赤ずきんの童話の中ではいつも凶悪(きょうあく)な動物となっているオオカミですら、まいったといっている身ぶりの負けたものに向かって、かみつくのをがまんしていることが気づかれるのです。0もしオオカミやイヌがみさかいもなく仲間(なかま)の首すじにかみついていたら、その数はだんだん減少(げんしょう)していくことになったでしょうが、オオカミもイヌもこのようにがまんできるということは、動物の生活にとって大切なことと思われます。

(「動物とこころ」 小川隆(たかし)著(ちょ) 大日本図書より)
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a 長文 12.4週 tu2
 1私(わたし)たちの細胞(さいぼう)の隅々(すみずみ)には遺伝子(いでんし)というものがあり、体をどう作り、体をどう動かすかの設計(せっけい)図の役割(やくわり)を果たし(は  )ていることがわかっています。その遺伝子(いでんし)は、自分の親から半分ずつ手渡さ(てわた )れます。2子どもたちの体の中には自分の両親からもらった遺伝子(いでんし)というバトンが入っているのです。そして、両親はその両親から、両親の両親はそのまた両親から…と数えていくと、一〇〇年間に四世代経過(けいか)したとすれば、八人からバトンをもらうことになります。3二〇〇年前を考えたら何人でしょうか。
 答えは八×八で六四人です。そうやってたどっていくと、五〇〇年前なら三二七六八人になり、九〇〇年前になると一億(おく)を超え(こ )てしまいます。4人類(じんるい)の歴史(れきし)をひもとくと、今いる私(わたし)たちの祖先(そせん)として、何万年も前にアフリカに住んでいた一人の女性(じょせい)にたどり着きます。今の人類(じんるい)はみな等しく彼女(かのじょ)の子孫(しそん)であることがわかっているのです。
 5そして、人類(じんるい)の歴史(れきし)を最低(さいてい)で何万年、あるいはもっともっと長い何十万年、何百万年の単位(たんい)で考えたときに、自分たちの体の中にはいったい何人の人のバトンが入っているか考えれば、とほうもない数になります。6そのとほうもない数のバトンは、ほかでもない自分の中にも入っています。その人たちがみんな生きていてくれたから、自分に命が受け渡さ(わた )れたのです。
(中略(ちゅうりゃく))
 7自分が人類(じんるい)の何万年もの歴史(れきし)を背負い(せお )、そのいちばん先端(せんたん)に立っていることが感覚(かんかく)としてわかった子どもたちは、おそらく自分や他人の命を粗末(そまつ)にすることは考えられなくなると思います。8自分という存在(そんざい)が、信じ(しん )られないほどたくさんの人のバトンを受け継い(う つ )だ、彼ら(かれ )の努力(どりょく)の結晶(けっしょう)であり、目の前にいるだれかもまた、何億(おく)人ものバトンを受け継い(う つ )でいる、彼ら(かれ )の願い(ねが )が詰まっ(つ  )た存在(そんざい)であると感じられます。9そう考えれば、命を大切にする感覚(かんかく)が自然(しぜん)にわき、人を殺そ(ころ )うなどという考えも頭に浮かば(う  )なくなるでしょう。子
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どもたちにそんな気持ちを抱か(いだ )せることにこそ科学は使うべきだ、と私(わたし)は思っています。
 0また、この話を通じて私(わたし)は子どもたちに、そのような長い時間の中で自分たちが生きてきたという大局観(かん)をぜひ持ってもらいたいと思っています。大局観(かん)を持つことは、結局(けっきょく)、すべての科学者が今めざしているもの、すなわち、人はどこから来て、どこへ行くのかを知りたいという欲求(よっきゅう)にもつながります。なぜ自分が今、その何億(おく)人もの人のバトンをもらってこの場に立っているかということを、われわれ大人はぜひ考えるべきだし、子どもたちが自然(しぜん)に考えられるような環境(かんきょう)を用意すべきです。
 「人生の主役はあなた」といったキャッチフレーズを、最近(さいきん)街(まち)中でよく見かけます。一見、耳触り(みみざわ )のいい言葉ですが、そこには大きな危険(きけん)性(せい)が潜ん(ひそ )でいます。
 昔は、親と子どもは一心同体でした。子どもの痛み(いた )は親の痛み(いた )で、子どものために自分は頑張れる(がんば  )し、我慢(がまん)できた。しかし、今は「主役は私(わたし)」で、子供(こども)が自分の外に出ている感覚(かんかく)の親が非常(ひじょう)に多いのです。「自分の幸せのために子どもがじゃまになる」と口にする人もいます。「人生の主役はあなた」という言葉は、裏(うら)を返せばそうした考えを肯定(こうてい)するものにもなりかねません。
 これは、先ほどの大局観(かん)にもつながります。自分の願い(ねが )を託し(たく )たからこそ、子どもがいるはずです。だからこそ、子どもの幸せは自分の幸せで、自分の後ろに何百年もつながる、何億(おく)人もの人たちの幸せであるはずです。私(わたし)たちが、多くの人からもらったバトンを後世に向かって渡し(わた )ていくことは、地球上の生命として生まれた私(わたし)たちの義務(ぎむ)とも言えるのではないでしょうか。

(川島隆太(りゅうた)『現代(げんだい)人のための脳(のう)鍛錬(たんれん)』(文春新書)より 一部改変(かいへん)した)
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