1一つの集団は、一人の裏切者と、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。キリストとユダの伝説が、私にこのヒントを与えてくれた。2恐らくあの十三人は、対人関係を独立したメカニズムとして純粋培養するためのベテラン達だったのであり、またそうせざるを得ない環境におかれていたのだろう。(中略)
私は、はじめにキリストがあって、そこに十二人が従ったという説を、ほぼ信じない。3まず、変転としてとらえどころのない奇妙な関係の中に十三人が居たのであり、それが果てしない放浪の末に、ユダとキリストを生むことによって、一つの「関係」として完成されたのである。
ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを含む「十三人目」だったに違いないと、私は考えている。4そして、何よりも、ユダが「裏切者」として発明されることによってはじめて、キリストが「犠牲者」となり得たのであろう。新約時代、彼等十三人が為した最大のことは、「裏切者」としてのユダを発明したことであり、むしろキリストを発明したことではなかったのではないかと、私は考えているのだ。(中略)
5創世記に、アブラハムについての奇妙なエピソードが語られている。「神はアブラハムを試みて言われた。『アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、彼をささげなさい』(中略)6彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたき木の上にのせた。そしてアブラハムが手を差しのべ、刃物をとってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った。7『アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえわたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(第三十二章)
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