1近代にいたって多くの人びとは自分と向かい合い、それぞれに自分の内側に孤独な自我を発見しました。一部の知識人や有力者ばかりではなく、社会の広い層を占める人が孤立を強いられ、自分の存在に気づかざるをえない状況に置かれました。2産業化とともに、人びとは都市に住むようになり、契約によって他人と結ばれ、自分の労働を売って生活するようになったからです。村や家系の関係から離れ、宗教的共同体のしがらみも緩んで、人びとは自由になるとともに、もっぱら自分のなしえた業績を頼りに生きることになりました。3業績本位の社会では、人間は自己を拡張する機会に恵まれる一方、たえず生存の危機に直面するわけで、いやでも自分が自分であることを痛感せざるをえない立場に置かれます。(中略)
愛玩動物を飼う理由について、世間はとかく小さな動物たちの混じりけのない忠誠心を重視しがちです。4この嘘に満ちた利害社会のなかで、彼らの偽りのない純粋な心が尊重にあたいするというわけです。しかし、たとえば猫を飼う多くの人が知るように、愛玩動物の魅力は必ずしも単純な忠誠心などではなさそうです。5ときには、彼らが人間にささやかにすねて見せたり、嫉妬を抱いたり反抗を示したりすることが、かえって魅力となるのだとはしばしば耳にするところです。
けだし、動物愛好家は動物を擬人化し、それに自分と同じ心の動きを見いだして喜ぶのですが、そのなかには明らかに、自分を見返してくる主体的な視線もはいっているはずです。6人間が愛玩動物に求めるのは、二つの主体の交流の可能性であって、けっして相手を奴隷化したり、「もの」を所有したりする喜びではありません。もちろん、世間には血統書付きの名犬を所有し、馬車馬を奴隷あつかいして喜ぶ人もありはします。7しかし、たとい一度でも捨て猫を拾って、それと目を見かわした人なら、これが本来の動物愛と無関係であるのは説明するまでもないでしょう。
|