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 近代にいたって多くの人びとは自分と向かい合い、それぞれに自分の内側に孤独こどくな自我を発見しました。一部の知識人や有力者ばかりではなく、社会の広い層を占めるし  人が孤立こりつを強いられ、自分の存在に気づかざるをえない状況じょうきょうに置かれました。産業化とともに、人びとは都市に住むようになり、契約けいやくによって他人と結ばれ、自分の労働を売って生活するようになったからです。村や家系の関係から離れはな 、宗教的共同体のしがらみも緩んゆる で、人びとは自由になるとともに、もっぱら自分のなしえた業績を頼りたよ に生きることになりました。業績本位の社会では、人間は自己を拡張する機会に恵まれるめぐ   一方、たえず生存の危機に直面するわけで、いやでも自分が自分であることを痛感せざるをえない立場に置かれます。(中略)
 愛玩あいがん動物を飼う理由について、世間はとかく小さな動物たちの混じりけのない忠誠心を重視しがちです。このうそに満ちた利害社会のなかで、彼らかれ 偽りいつわ のない純粋じゅんすいな心が尊重にあたいするというわけです。しかし、たとえばねこを飼う多くの人が知るように、愛玩あいがん動物の魅力みりょくは必ずしも単純な忠誠心などではなさそうです。ときには、彼らかれ が人間にささやかにすねて見せたり、嫉妬しっと抱いいだ たり反抗はんこうを示したりすることが、かえって魅力みりょくとなるのだとはしばしば耳にするところです。
 けだし、動物愛好家は動物を擬人ぎじん化し、それに自分と同じ心の動きを見いだして喜ぶのですが、そのなかには明らかに、自分を見返してくる主体的な視線もはいっているはずです。人間が愛玩あいがん動物に求めるのは、二つの主体の交流の可能性であって、けっして相手を奴隷どれい化したり、「もの」を所有したりする喜びではありません。もちろん、世間には血統書付きの名犬を所有し、馬車馬を奴隷どれいあつかいして喜ぶ人もありはします。しかし、たとい一度でも捨てねこを拾って、それと目を見かわした人なら、これが本来の動物愛と無関係であるのは説明するまでもないでしょう。
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 いってみれば、愛玩あいがん動物を愛する人びとは、そこにある種の対等な自我関係のミニチュアを見いだし、現実社会のあの視線の相克そうこくのお芝居しばいを楽しんでいると考えざるをえません。それが楽しめるのは幸いなことに、動物はいかにこまやかな感情を持っていても、けっして人間と同一の社会に属してはいないからです。人と犬、人とねこの関係は、どこまでも一対一の閉ざされた関係であって、そこから生まれたどのような感情も、別の人間や別の動物のあいだに広がって、社会化するおそれはありません。現実社会で人が真に恐れるおそ  のは、ひとりの相手にどう見られるかということもあるが、それ以上に、その判断が第三者に広がり、世間の評価として定着することではないでしょうか。無言の動物と向かい合う場合には、その危険がないどころか、人は積極的に人間社会に背を向けて、つかのまの小さな愛の空間をつくることができます。それはどこか、忘我的でいささか反社会的な、人間どうしのこいの初期状態に似ているとさえいえるかもしれません。
 このように見ると、人間の情緒じょうちょ的な自然愛は、たぶん産業の維持いじのための自然保護以上に、近代という時代の特有の文化であったように思われます。それは人間中心主義や、その中核ちゅうかくをなす自我中心主義と矛盾むじゅんするものではなく、逆にそれの直接の副産物であり、それを補完するものと見たほうが、常識的に納得しやすいのです。

 (山崎やまざき正和「近代の擁護ようご」による)
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