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 アイヌの世界観において驚くおどろ べきことは、動物も植物も天の世界ではすべて人間の形をして、家族生活を営んでいると考えられていることである。その天の世界では、われわれと同じ人間である動物や植物がこの世界に現れるときには、ハヨクベ即ちすなわ 仮装をつけて現れるというのである。何のために仮装をつけて現れるのか。それは人間の世界にミヤンゲ即ちすなわ 土産を持ったマラプト即ちすなわ 客人として訪れるためである。つまり、アイヌにとって、くまも木もすべて人間と同じものであるが、彼らかれ はその身をわれわれに提供するためにこの世に仮装をつけて出現するというわけである。
 アイヌの社会で最も重要な祭りであるイヨマンテ、即ちすなわ くま送りの儀式ぎしきは、このような客人の携えたずさ た土産をいただき、その代わりそのれいを無事天に送り届ける宗教的儀式ぎしきなのである。アイヌは子ぐま捕れると  と、それを大事に育て、その身が美味しくなる秋ごろに子ぐまを殺す。この殺し方もまたすべて決められた礼に従って行わねばならぬが、この儀式ぎしきの中心はやはり殺したくまれいを天に送ることにある。それがイヨマンテ、イ(それ)をオマンテ(送る)儀式ぎしきなのである。殺されたくまの頭を祭壇さいだん祀りまつ 、そこに日本のゴヘイにあたるイノウ即ちすなわ ケズリカケを立て、そこに、くまに人間からのミヤンゲとしてドングリや穀物や魚や酒を供え、それを持たして、おそらく鳥のイメージであるにちがいないイノウに乗せてくまれいを天に送るのである。こうして丁重にもてなされたくまが人間にもらった土産を天に持ち帰ると、その土産は数十倍になり、それをもって宴会えんかいを開くと天にいるくまたちは寄ってきて、天に帰ったくまから、人間に大切にもてなされ無事天に送り返された話を聞き、それでは自分も行ってみようと思うというのである。そして翌年は多くのくまが生まれて、豊りょうであるということになる。
 くまばかりか、すべての動物、草木すらここでは神であり、天の世界では人間の形をとって生活しているのである。それゆえすべての動植物、特に人間によって殺され食用にされるものは人間と同じく丁重に葬らほうむ れ、無事に天へ送り届けられなければならないのであ
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 このような世界観をわれわれはどのように考えたらいいのであろうか。もとよりこれらの思想が全体としてそのまま真理であると私は主張しようとは思わない。もしもくまに「あなたは土産を持ってこの世界に訪れた客人なのですか」と尋ねたず たら、くまはきっと「ノー」と答えるにちがいない。それはあまりに人間の勝手な考え方だとくま抗議こうぎするにちがいないが、しかし私はキリスト教の考える、神は山や川やすべての動植物をこしらえた後に、最後に人間をつくり、人間に神と同じ理性を与えあた た、それゆえ、人間はすべての動植物を支配する権利を持つ、という思想よりはるかに勝手な考え方ではないと思う。なぜなら、人間がすべての動植物を支配し、殺害することのできる権利を神によって与えあた られているというのでは、人間は動植物を殺してもいささかも良心の呵責かしゃくを感じないであろう。この考え方はくまは本来、人間と同じものであり、したがってわれわれはこの客人の好意に従って客人を殺した場合、必ずそのれいを天に送らねばならないという考え方とはかなりな差がある。前者は本質的に人間と動物の差別の上に立つ世界観であるが、後者は人間と動物とを本来同一とみる世界観なのである。
 人類は長い狩猟しゅりょう採集生活の末に、動物の殺害を合理化する哲学てつがくを考えたにちがいないのである。おそらく動物の殺害は不快感を伴っともな たにちがいない。その不快感を除去し、動物の殺害と食肉を合理化する哲学てつがくとして、彼らかれ は、動物は土産を持って人間社会に現れた客人であるという神話を考え出したのであろう。このような神話は動物の殺害や植物の採伐さいばつを最小限度にとどめることになろう。彼らかれ は動植物に「私が生きていくためには、あなたの身が必要なのです。どうかあなたの命を下さい」と言わないと、動植物を殺すことができないのである。アイヌ語で「ありがとう」という言葉は、「ヤイライゲ」というが、「ヤイライゲ」というのは、私を殺してくれという意味である。この狩猟しゅりょう採集時代の厳しい自然環境かんきょうのなかでの最も強い感謝の表現は、私を殺して私の肉を食ってくれという言葉なのである。 (梅原たけし『伝統と創造』による)
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