なぜ人は理解を求めるのであろうか。これは、進化の歴史において人間がきまった生活様式をもたず、それ故に逆にさまざまな環境に住みつき生活できたことと関連があると思われる。特定の生活様式をもっていれば、それで適応しやすい環境を選んで住みつき、そこで所与の情報を処理するだけでこと足りる。しかしそうした特定の生活様式をもたないときは、将来出会うさまざまな環境条件、おこりうる種々の環境の変化に対処しうるような、一般的な準備をしておくことがどうしても必要になる。
ある手続きによって今好む結果を手に入れることができたとしても、それだけでは、その手続きがどの範囲で有効なのかわからない。環境条件の些細な変化によって好む結果が得られなくなってしまうというのでは、あまりにも不安定である。これに対して、その手続きが「いかにして」「なぜ」うまく働くのかがわかっていれば、条件が変わったときには、手続きを柔軟に修正することができるだろう。また将来、予見することのできない課題に出会ったときにも、そこに含まれる対象物をよく理解していれば、適切な手続き的知識を生み出すことも、それほど難しくないにちがいない。
このように考えてくると、理解というのは、いわば、いろいろな環境条件(の変化)の可能性に備えて、あらかじめ一般的な準備をしておくことと見ることができるのではあるまいか。理解しておくことが人間にとって適応上必要な意味をここに求めることができよう。
予想に反した事象に出会ったとき、あるいは、どれが真実なのかよくわからないとき、一応わかるがピタッとわかったという感じがもてないとき、知的好奇心がひき起こされる。この知的好奇心のひき起こされた状態とは、ことばを変えれば、理解がまだ十分に達成されていないことをわれわれが感じとった状態だといえよう。このときわれわれは、今のところうまくやっていけているが、将来にわたってこの状態を維持できるかどうかわからない、と告げられていることになる。そこでできるかぎり他の課題に優先させて、理解を達成しよう(知的好奇心を充足させよう)とするのである。
当面の課題の達成をめざすことが現在志向(あるいは特定化された近い将来志向)だとすれば、理解をめざすことは、特定化されない遠い将来志向だといえよう。そして人間は、そのような将来志向
|