a 長文 1.1週 wape2
 1陰謀(いんぼう)理論とは、社会的現象はそれをひきおこそうとたくらんだ個人もしくは集団の陰謀(いんぼう)から生じてくると主張する理論である。したがって、この理論にとっては陰謀(いんぼう)家を探し出すことが主たる課題となる。2たとえば、戦争、不況(ふきょう)、失業といった社会的現象は大企業(きぎょう)とか帝国(ていこく)主義的戦争屋はたまたシオンの長老たちの陰謀(いんぼう)の結果であるという。3悪の帝国(ていこく)による世界制覇(せいは)の野望とそれに対して果敢(かかん)に闘う(たたか )主人公といった少年マンガのレベルにおいてのみならず、大の大人にとっても、CIAの謀略(ぼうりゃく)とかフリーメイスンの陰謀(いんぼう)といったことで複雑な出来事が簡単に絵解きされるのは、耳に心地よいらしい。
 4陰謀(いんぼう)理論に対するポパーの批判はきわめて簡単である。つまり、われわれの社会において陰謀(いんぼう)がそのまま成功することはほとんどないという事実が陰謀(いんぼう)理論を反駁(はんばく)しているというのである。この点については少しばかり、説明が必要かもしれない。5われわれの社会では、意図と結果が大きく相違(そうい)するのはむしろ当然である。行為(こうい)は意図されなかった帰結や反発を引き起こす。それらは、当初の意図に跳ね返り(は かえ )、その修正を迫る(せま )ことになるだろう。とすれば、陰謀(いんぼう)がそのまま実現することはありそうにないことである。6しかし、こうした理論的な説明をおこなうよりも、具体的な例を挙げた方がわかりやすいかもしれない。
 いま、ある人が家の購入(こうにゅう)を切望しているとしてみよう。彼(かれ)はさまざまな住宅会社を訪ねたり、住宅フェアに顔をだしたりするであろう。7加えて、彼(かれ)はできるだけ安い価格で家を購入(こうにゅう)したいと望んでいるにちがいない。しかしながら、彼(かれ)が購入(こうにゅう)者として住宅市場に現れたという事実は、原理上、需要(じゅよう)を高め、彼(かれ)の意に反して価格を上昇(じょうしょう)させる。8ここにあるのは、まさに(資本主義)社会の特定のメカニズムである。他方で、需要(じゅよう)の増大が価格の低落をもたらす場合があるとすれば、そこには大量生産といった別種の資本主義的メカニズムが働いている。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 もうひとつ、例をあげてみよう。9多くの人は競争を好まない――とくに友人同士の場合には――と仮定してもよいだろう。しかしながら、たとえばポストの数にはかぎりがあるといった状況(じょうきょう)が生じたならば、誰(だれ)もが競争したくないと思っていても、競争が必然的に生じてこざるをえないだろう。0この種の競争という状況(じょうきょう)を、各人の名誉(めいよ)心とか、闘争(とうそう)心といったものを原因として説明するのはまさに心理的主義であり、本末転倒(ほんまつてんとう)である。こうした場合、名誉(めいよ)心とか、闘争(とうそう)心といった心理はむしろ状況(じょうきょう)の産物である。われわれの社会は、意図であれ陰謀(いんぼう)であれ、それらを当初の企て(くわだ )どおりに実現させることはきわめて稀(まれ)である。テロリストがテロ行為(こうい)によって彼ら(かれ )の(遠大な)目的を実現させることはまずできない。陰謀(いんぼう)理論は、たとえ常識の世界でどれほど受け入れられているにせよ、社会のメカニズムを考慮(こうりょ)に入れていないという明白な欠陥(けっかん)をもっている。
 ポパーはこうした社会のメカニズムを制度という観点から分析(ぶんせき)することを制度分析(ぶんせき)と呼んだ。社会の諸制度はそのなかで行為(こうい)がおこなわれるもろもろの枠組み(わくぐ )である。それらは、大部分が意識的に設計されその通りに形成されたものではなく、意図されなかったものとして、あるいは意図に反して形成されたもの(副産物)である。ハイエクの言葉でいえば、社会の諸制度は自主的秩序(ちつじょ)である。制度分析(ぶんせき)は、制度を支えているものとしての伝統や慣習――これらも広い意味での制度である――のみならず、制度がおのずからにしてもった目的や機能、また制度における人員配置の問題、さらには制度が引きおこす諸帰結などを分析(ぶんせき)する。
 制度分析(ぶんせき)の概念(がいねん)にくらべると、状況(じょうきょう)の論理あるいは状況(じょうきょう)分析(ぶんせき)の概念(がいねん)はより広い領域をカバーすることができるように思われる。それは、定義的にいえば、事態のもつ必然性の分析(ぶんせき)である。ポパーは、トルストイに言及(げんきゅう)しながら、ナポレオン戦争下ロシア軍が闘う(たたか )ことなくモスクワを明け渡し(あ わた )、糧食(りょうしょく)をみつけることのできる
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 1.1週 wape2のつづき
場所へ退却(たいきゃく)していった事態を状況(じょうきょう)の論理(必然性)の一例としてあげ、トルストイの分析(ぶんせき)の基本的正しさを認めている。ポパーにとっては、状況(じょうきょう)の論理を再構成すること、あるいは状況(じょうきょう)を徹底的(てっていてき)に分析(ぶんせき)することが、(記述的)社会科学や歴史学にとっての課題となる。ポパーのことばでいえば、それ(状況(じょうきょう)分析(ぶんせき))は「行為(こうい)が客観的に状況(じょうきょう)に適合したものであったことを認識することである。換言(かんげん)すれば、たとえば、欲求、動機、記憶(きおく)、連想などのはじめは心理的なものと思われた要素は、状況(じょうきょう)の要素に変わってしまうほどに状況(じょうきょう)が徹底的(てっていてき)に分析(ぶんせき)される。……状況(じょうきょう)分析(ぶんせき)の方法は、たしかに個人主義的な方法ではあるが、心理学的なものではない。というのも、それは心理的な要素を原理的に排除(はいじょ)し、客観的な状況(じょうきょう)の要素によって置き換え(お か )ているからである」。

(小河原誠『ポパー 批判的合理主義』による)
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 1.2週 wape2
 1情報公開という言葉が近年しばしば言われるようになってきた。政府のもつ情報資料の公開、あるいは政府の審議(しんぎ)会や委員会の議事内容の公開が積極的にインターネット上におこなわれるようになって、多くの活動内容が一般(いっぱん)社会の人たちにも理解されるようになってきつつある。2二〇〇一年四月には、情報公開法が施行(しこう)されることになり、個人のプライバシーにかかわらない、かなりの範囲(はんい)の国の情報が、請求(せいきゅう)によって開示されることになった。
 それでも、すべてのことが公開され、十分な監視(かんし)とチェックの下におかれることはできず、いろいろと思わぬ事故をおこしてきた。3情報の公開とともに、どうすれば第三者的立場から十分なチェックをして、安全性を確保していけるかは、これからの大きな課題である。科学ジャーナリズムにおいても、よく検討すべき問題であろう。4たとえば原子力のような複雑なものは、科学ジャーナリズムなどが適切に橋わたしをしなければ、一般(いっぱん)の人たちには、客観的な立場からのものの見方をすることは、たいへんむずかしいのである。
 あることがらに対する科学的説明は論理的で、その範囲(はんい)内においては反論の余地のないものであることがほとんどである。5しかし、それでも社会の多くの人々を納得させることのできない場合があるのはなぜか、を考えることが必要だろう。
 それにはいろいろな理由があるだろう。一つは、その科学的説明の前提となっていることが、ほんとうに確信のもてることなのかどうかということである。6もう一つは、論理的、科学的説明といっても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。九九・九九九%まちがいないといわれても、〇・〇〇一%の確率でおこる可能性があるとすれば、それに対する心配がある。また理論がまったく予想しない条件が生じないともかぎらないという心配もある。7原子力発電所の建設などに対する反対は、そういうところから生じていると考えられる。
 もう一つのタイプの心配は、体外受精の適用範囲(はんい)の拡大、脳死判定と臓器移植などにおける人間の倫理(りんり)観や文化に深く関係する問題である。8この種の問題については、科学的内容の説明が、人間感情というまったく次元のちがう要素に対して効力を発揮することを期待することはできず、人々を納得させることはむずかしい。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 もっと直接的に個人に関係するのは、インフォームド・コンセントであろう。9自分の病気がどういうものであり、どういう手術をしたら、どのようになるか、手術の成功率・危険性はどのように判断したらよいか、といったことすべてについて、医者の説明を聞き、それを理解し、医者の助言によって自分が判断し、決定しなければならない。0そのときに、完全に理解して明確に決定することができないという場合が多いだろう。しかし、自分の運命は自分が選択(せんたく)しなければならず、そのためには納得のいく説明を受け、十分な理解をする努力が必要になる。医者の側でも、患者(かんじゃ)の病状だけでなく、その人の年齢(ねんれい)、家庭環境(かんきょう)、経済力、その人のもつ人生観・価値観についても考えに入れて、助言することが必要となるだろう。説明はあくまでも客観性を失ってはならないが、科学的側面だけでは決定できないのである。
 科学的な説明は論理的なものであり、そのようにして説明されたことはまちがいがないから、人はそれにしたがわねばならないと一般(いっぱん)に思われているかもしれない。しかし、論理的な理解のほかに身体的レベルにおける理解、心の底から納得できる状態というものがあって、これは必ずしも論理的なものかどうかはわからないが、個人にとってはむしろこの納得のほうがはるかに優位にある理解の状態といってよいだろう。客観的真理が絶対的なものでなく、それを超え(こ )た理解の状態の大切さということにもっと目を向けるべき時代にきているのではないだろうか。

(長尾(ながお)真『「わかる」とは何か』に拠る(よ ))
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 1.3週 wape2
 1「寄物(よせもの)」という言葉を覚えたのは柳田(やなぎだ)国男の『海上の道』を読むことによってであった。はるか沖(おき)から吹き(ふ )きたる風に名前を与える(あた  )身振り(みぶ )から始まるあの美しい幻想(げんそう)小説。2「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに吹い(ふ )てくる風、すなわち数々の渡海(とかい)の船を安らかに港入りさせ、または、くさぐさの珍(めず)らかなる物を、渚(なぎさ)に向かって吹き(ふ )寄せる風のことであった」。3そうした風に乗ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの珍(めず)らかなる物」、それが「寄物」だ。そして、その代表として柳田(やなぎだ)がまず第一に挙げたものは、周知の通り、三河の伊良湖(いらこ)崎(さき)の浜(はま)に打ち寄せられていたのを彼(かれ)が目撃(もくげき)したというあの神話的な椰子(やし)の実であった。
 4島崎(しまざき)藤村(とうそん)はこの柳田(やなぎだ)の見聞を材に採り、ただちに人口に膾炙(かいしゃ)することになったあの俗謡(ぞくよう)の歌詞を作ったわけだが、『海上の道』の著者は島崎(しまざき)藤村(とうそん)の「椰子(やし)の実」に対してやや不満げな感想を洩らし(も  )ている。5「そを取りて胸に当つれば/新たなり流離(りゅうり)の愁い(うれ )/という章句などは、もとより私の挙動でも感嘆(かんたん)でもなかったうえに、海の日の沈む(しず )を見れば云々(うんぬん)の句をみても、或いは(ある  )、詩人は今すこし西の方の、寂しい(さび  )磯(いそ)ばたに持って行きたいとおもわれたのかもしれないが……(後略)」。6晴れやかな朝陽の中で珍しい(めずら  )「寄物」を発見するのは柳田(やなぎだ)にとって喜ばしい出会い以外のものではなく、「流離(りゅうり)の愁い(うれ )」も寂しい(さび  )日没(にちぼつ)も「詩人」の汚(けが)れた筆が捏造(ねつぞう)した受け狙い(ねら )の感傷にすぎない。7「千曲川旅情の歌」にしてもそうだが、既成(きせい)の欲情に媚びる(こ  )ことを恬()として恥じ(は )ない自称(じしょう)「詩人」の輩(やから)は今も昔も尽きる(つ  )ことがない。
 「海上の道」において、柳田(やなぎだ)の想像力が透視(とうし)しているのは、「日本人」もまたこうした幸運のアイノカゼに吹き(ふ )寄せられてきた「寄物」そのものだという独創的な命題である。8「もしも漂着(ひょうちゃく)をもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

遠方ではなかったことが先ずわかる。人は、際限もなく椰子(やし)の実のように、海上にただようては居られないのみならず、9幸いに命活きて、この島住むに足るという印象を得たとすれば、一度は引き返して必要なる物種をととのえ、ことに妻娘(むすめ)を伴(とも)のうて、永続の計を立てねばならぬ」。0この「そう遠方でもない」場所とはいったいどこなのか、それを柳田(やなぎだ)は、厳密な文化人類学の学術論文の装いからははるかに隔たっ(へだ  )たこの文章の中で、具体的に明言しているわけではない(中略)。だが、そう遠方でもないというこの奇妙(きみょう)に生々しい限定が、柳田(やなぎだ)の詩的な直観に異様な迫真(はくしん)性と説得力を賦与(ふよ)していることは否定できない。
 漂着(ひょうちゃく)をもって最初の交通と見る――しかしそれにしても、これは何と美しい言葉ではないか。この端的(たんてき)な断言を受けて、わたしはもう一歩進んでこう言ってみたい、漂着(ひょうちゃく)こそ唯一(ゆいいつ)の交通ではないのかと。実際、漂着(ひょうちゃく)する以外のどんなやりかたでわたしたちは世界と結びつくことができるだろう。なるほど、あてどない「漂流(ひょうりゅう)」の時間の快楽というものはある。だが、単にそこにとどまるかぎり、たとえいかほどロマンティックな孤独(こどく)の抒情(じょじょう)がそそられはしても、そこで人はあの「流離(りゅうり)の愁い(うれ )」の場合と同じく結局は単にひとりよがりの詩情の内部に閉ざされてあるほかない。「漂流(ひょうりゅう)」が意味を持つのは、それがどこかに、逢着(ほうちゃく)するかぎりにおいてのことだろう。
 詩は「投壜(びん)通信」でしかない、あるいはそうあるべきだといった言いかたがされることがときたまあるが、そうした命題がもし何らかの意味を持つとしたら、海上に放たれた壜(びん)がどこかの浜辺(はまべ)に漂着(ひょうちゃく)し、それが拾い上げられる現場に想像力を働かせたうえのことではないか。良き風に吹き(ふ )寄せられ、未知の浜(はま)に打ち上げられた言葉を、拾い上げてくれる手があるということ。それこそ、ありうべき真のコミュニケーションの唯一(ゆいいつ)の形態であるはずだ。
(松浦(まつうら)寿(ひさし)輝(てる)「漂着(ひょうちゃく)について」)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 1.4週 wape2
 1物語とはなにか。
 物語を理性の言葉としての哲学(てつがく)や科学に対立させて、空想の語り、非合理的な語りとする見方があるが、それは正しい見方とはいえない。宗教学者の島田裕巳(ひろみ)は物語を積極的に評価して、「世界の中に生起する現象の説明原理であり、筋立てを持つ説明の体系のこと」と定義する。2それは独自の「体系化や分類の働きを」もち、「儀礼(ぎれい)や象徴(しょうちょう)の背後に存在し」て、「人生に一定の方向性を与える(あた  )」ものだという。
 どういうことか。
 たとえば有名なオイディプス伝説を考えてみよう。3ソフォクレスの悲劇でよく知られるこの物語は、もともとテーバイ地方に伝わる神話・伝説であった。主人公オイディプスは、テーバイの王ライオスの長子として生まれるが、その生誕の直前に「成長すると、父を殺し、母と交わる」との神託(しんたく)が出たことによって、荒れ野(あ の)に捨てられる。4その彼(かれ)をコリントスの王ポリュボスが見つけ、わが子として育てる。やがて成長したオイディプスは、自分の出生に疑いをいだくようになり、神託(しんたく)を求めたところ右の答えが得られたため、実父と信じるポリュボスを殺すことを恐れ(おそ )て町を離れる(はな  )。5道を歩む彼(かれ)は、偶然(ぐうぜん)、実父ライオスと出会い、争ってこれを殺す。ついで彼(かれ)はテーバイを訪れ、災いをもたらしていた怪物(かいぶつ)スフィンクスの謎(なぞ)を解いてこれを退治し、その報奨(ほうしょう)として女王イオカステと結婚(けっこん)し、子どもをもうける。6しかしその後も町に災いは続いたため、知者を呼んだところ、神託(しんたく)に告げられていた真実を知らされる。自分の運命を知った彼(かれ)は、われとわが目を剣(けん)で突い(つ )て、放浪(ほうろう)の旅に出るところで悲劇は終わる。
 7この物語は、あらゆる物語がそうであるように、一つづきの行為(こうい)=出来事を時間の経過のなかで展開させたものである。それはオイディプスをはじめとする登場人物が、なにをし、なにを喋っ(しゃべ )たかを述べるものであって、それ以上のものではない。8殺されるはずであったオイディプスが、従者の情けによって荒れ野(あ の)に捨てられたこと。コリントスの王に拾われた彼(かれ)が、その実子として大切に育
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

てられたこと。成人したオイディプスが、「父を殺し、母と交わる」との神託(しんたく)の実現を恐れ(おそ )て、町を離れ(はな )たこと。9やがて彼(かれ)が偶然(ぐうぜん)、実の父であるライオスと出会い、争ってこれを殺したこと。テーバイの町を訪れた彼(かれ)が、町に災いを与え(あた )ていたスフィンクスを退治して、その報奨(ほうしょう)として実の母であるイオカステと結婚(けっこん)したこと。
 0これらの行為(こうい)は、ひとつひとつが善意からなされたという以外にはいかなる共通性ももってはおらず、たがいに結びつけられるべき必然性はどこにもない。にもかかわらず、それが物語という一つの時間の流れのなかに置かれると、それらの行為(こうい)=出来事はたがいに結びつけられて、明確なメッセージを生むことになる。「人間はその運命を逃れる(のが  )ことはできない」というメッセージを、それは言外に表明しているのである。
 物語的認識の特徴(とくちょう)はまさにこうした点にある。それは現実の世界でも生じるような出来事の一続きを、時間的な流れのなかで語ったものにすぎない。しかしながら、現実の世界では偶然(ぐうぜん)事があいつぎ、出来事相互(そうご)の関係がかならずしも明晰(めいせき)ではないのにたいし、物語のなかの出来事は緊密(きんみつ)な必然性の糸によって結ばれている。そしてその結びつきがメッセージを、物語の意味を生みだしているのである。
 しかも物語は、そのように偶然(ぐうぜん)性を必然性に結びつけるだけでなく、個別性を普遍(ふへん)性に超克(ちょうこく)させるものでもある。たとえば先のオイディプス伝説についていえば、テーバイやコリントスなど、特定の土地で生じた出来事を、特定の時間のなかで語ったものにすぎない。しかもその登場人物にしても、私たちとはまったく無縁(むえん)な、特定の名前と個性をもった存在でしかない。ところが物語は、そうした徹底(てってい)した個別性と具体性を連ねていくことによって、人間が人間であるかぎり逃れる(のが  )ことのできない、運命にたいするある種の見方を示している。その意味でそれは、具体的、個別的な行為(こうい)と出来事の契機(けいき)を語りながら、人間存在の必然的、普遍(ふへん)的な認識を与える(あた  )ものなのである。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 1.4週 wape2のつづき
 物語の理論家であるミンクらが明らかにしているように、物語とは経験の流れを理解可能にするための認識の仕方であって、たんなるおとぎ話ではない。そしてそのとき、物語的認識の特徴(とくちょう)は、理論的・科学的な認識が一般(いっぱん)理論のなかに出来事を吸収するのにたいし、個別的な事実性、出来事性を残している点にある。

(竹沢尚一郎()『宗教という技法』による)
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 2.1週 wape2
 1私はある時から、英文で論文を書くことをやめた。日本語で考え、日本語で暮らしている。そういう人間が英語で論文を書くとは、いったいそれはどういう作業か。それが論理的に理解できなかったからである。2そのために、理科系の人間としては、業界から「干された」というしかない。
 『最後の授業』という物語を引くまでもない。日本の知的な世界は、日本社会の他のシステムと同様に、あらゆる根拠(こんきょ)を失ったままに、さまざまなやり方を便宜(べんぎ)的に採用してきた。3そうだからといって、闇雲(やみくも)に古い習慣に固執(こしつ)すればいいというものでもない。われわれは、われわれに発する普遍(ふへん)性を説かなくてはならないのである。その基盤(きばん)は明瞭(めいりょう)であろう。「人間」である。たとえば、言語を一般(いっぱん)的にヒトが持つ特質と見なせば、そこには明白な普遍(ふへん)性が認められる。4国語・国文学を、そこに基礎(きそ)づける。その作業は、脳生理学者に任せておけばいいというものではあるまい。小説家であろうと、車には乗るはずである。テレビも見れば、映画も鑑賞(かんしょう)するであろう。それなら国語の脳機能としての特質を考えて、なんの不思議もあるまい。
 5日本語の脳の関係については、やはりすでに『考えるヒト』で述べたことがある。たとえば日本における漫画(まんが)の流行は、音訓読みという日本語の特性と切り離す(き はな )ことはできない。この場合、漫画(まんが)はアイコンであり、アイコンは古い形式の漢字と同じものである。6アイコンとは、「もとのものの性質を一つでも残した」記号だからである。このアイコンにルビを振る(ふ )。そのルビが漫画(まんが)では吹き出し(ふ だ )に相当する。こうしたことを外国人に説明するのは至難である。かれらはそもそも音訓読みが理解できないからである。
 7中国語が孤立(こりつ)語であったため、日本語はその文字を取り入れ、しかも音訓の両読みを開発することができた。それなら朝鮮(ちょうせん)語はなぜそれをしなかったか。そこに言語の歴史性がある。ヴェトナム()語は訓読みを発明したかもしれないが、アルファベット表記に変わってすでに半世紀以上が過ぎてしまった。8その意味でいうなら、日本語は世界でもきわめて特異なことばなのである。国語の先生は、そのことを理解し、生徒にそれを教えているだろうか。
 あるいは日本語は「読み」のために脳の二ヵ所(かしょ)を利用する。9こ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ういうことばは、おそらくほかにない。だからこそ寺子屋では「読み書きソロバン」だったのである。プラトンを読めば、古代ギリシャでソフィストたちが教えたのは「弁論術」だとわかる。日本語はおしゃべりを教えてお金を取ることはしない。0「読み書き」を教えるのである。だからこそまた、日本では文盲(もんもう)率がきわめて低い。日本語は視覚言語性が高いのである。
 日本語文法の形式もまた、十分には理解されていないらしい。日本語に定冠詞(ていかんし)はないというのは、英文法の授業でさんざん教わることである。それなら、「昔々おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山に芝(しば)刈り(が )に」という文章における、助詞「が」と「は」の使い分けはなんなのか。定冠詞(ていかんし)は語の前に来る。そういう形式的反論があるなら、ギリシャ語では定冠詞(ていかんし)の位置は語の前でも後でもいいといおう。文法は形式でもあり、機能でもある。助詞には冠詞(かんし)機能が認められるといってもよいであろう。
 脳から見た国語には、さまざまな主題が見つかりそうである。それを探求するのは、国語の専門家であって、いっこうにおかしくない。対象を限定することで「専門家」を育て、対象の分類によって学問を分類する時代は終わったと私は思う。学問とは方法である。国語を知るためには、いかなる方法を利用してもいいのである。情報化時代とは、じつはそれを意味している。

(養老孟司(たけし)「国語と脳」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 2.2週 wape2
 1大きな災害の直後の映像を思い返してみると、被災(ひさい)地にいた人たちの表情は(一部、茫然(ぼうぜん)自失状態の人を除いて)、いきいきとしていた。彼ら(かれ )の表情は数日のうちに疲弊(ひへい)して生気のないものに変わっていったけれど、直後はいきいきとしていた。2あのときのいきいきとした状態を、私は「生きがい」や「充実(じゅうじつ)感」と同じものだと考える。というよりもむしろ、「生きがい」や「充実(じゅうじつ)感」の典型的な状態だと考える。「充実(じゅうじつ)」という心の状態は、危機に直面したときに最も強く起こるものなのだ。
 3スポーツやゲームで味わう「充実(じゅうじつ)感」は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整した(つまり「緩和(かんわ)した」)ものだと私は思う。この、危機に直面したときの心の状態は夢の中で感じる心の状態と同じものだ。4比喩(ひゆ)的な意味で同じだというのではなくて、事実として同じということだ。私たちは危機に直面したときも夢の中でも、「結果」なんか考える余裕(よゆう)もないまま、ひたすら「プロセス」に没頭(ぼっとう)する。――リアリティということで言うなら、二つの場面で同じリアリティを感じている。
 5神話が夢と同じように表面的には荒唐無稽(こうとうむけい)で、しかしその意味する内実を夢と同じように分析(ぶんせき)することが可能である理由は、神話が夢に起源を持つからなのだが、スポーツやゲームの起源もまた夢なのだと私は思う。6夢には必ず強い拘束(こうそく)感がある。その拘束(こうそく)感がスポーツやゲームで「ルール」に変形した。人間は自由であることばかりが楽しいわけではなくて、ルールという拘束(こうそく)の中で何かを達成することの方がずっと「充実(じゅうじつ)」することができる。7神話は夢の解消や昇華(しょうか)ではなくて、もっとずっと生な、夢の反復だ。スポーツやゲームもまた、覚醒(かくせい)時になされる夢の反復なのだ。
 8フロイトは夢(夢で反復される無意識)を、現実の中で把握(はあく)しそびれた体験という観点から、体験を正しく定着させることで、現実の中に解消しようとしたけれど、人が夢を見るかぎり、夢は現実の中で起こる気持ちの原型として機能しつづける。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 9また、分析(ぶんせき)によって、過去の体験を把握(はあく)し直して過去に拘束(こうそく)された夢を見なくなったとしても、人は生きているかぎり新しい体験を重ね、それが夢として反復される、という構造の外に出ることはできない。
 0それにしても夢というのは、考えなければどうと言うことのないものだけれど、考えはじめるとキリがなく面白く感じられるという独特の性質を持っている。「外がない」と言えばいいのか、現実と夢との「入れ子構造になっている」と言えばいいのか、「沼(ぬま)のようだ」と言えばいいのか……。私はさっき、「スポーツやゲームで味わう『充実(じゅうじつ)感』は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整したものだ。この、危機に直面したときの心の状態は、夢の中で感じる心の状態と同じものだ」と書いたけれど、ここまできて私は、「危機に直面したときの心の状態」さえも、「夢の中で感じる心の状態」に起源を持つものなのではないか、と感じはじめている。
 つまり、大人になってもなお真剣(しんけん)になることができるようなこととは、すべて夢の中で感じる心の状態が源泉として働いているのではないか、ということであり、人間にとってのリアリティの源泉とはすべて夢にあるのではないか、ということだ。リアリティという点から考えると、夢こそが「主」であって、現実はすべてが夢に従属している、ということになるのではないだろうか。

(保坂和志『世界を肯定(こうてい)する哲学(てつがく)』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 2.3週 wape2
 1人間は、合理的にものを考える動物であると同時に、非合理な感情をそなえた動物でもある。言葉の意味にも、明示的な意味(デノテーション)と、含意(がんい)的な意味(コノテーション)がある。2「感ずる」と「感じる」とでは、デノテーションはおなじだが、前者にはカミシモを着たような雰囲気(ふんいき)があり、後者にはふだん着の雰囲気(ふんいき)があって、コノテーションはずいぶんちがう。乱暴にいえばレトリックとはデノテーションではなくコノテーションに注目する姿勢のことである。
 3シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)は一枚のコインの裏と表のようなもので、切りはなすことはできない。だから言葉では、贈り(おく )ものの中身と包装のようには、内容と表現を切りはなすことができない。4言葉は陰(いん)に陽(よう)にいつもレトリックをひきずっているわけで、レトリックが市民権をえた今日、――とくに、言葉をなりわいにする人たちのあいだでは――内容と表現を区別することは、時代遅れ(じだいおく )もはなはだしい態度であり、「……はたんなるレトリックにすぎない」という発言などは、シーラカンスの合言葉とみなされる。
 5「豊か」な消費社会では、サービスや気持ちが重視され、おしゃれであることが重要なポイントになる。おしゃれでないことは、「貧しさ」を連想させるからだ。コノテーションがデノテーションを圧倒(あっとう)する現象がふえてきた。6ペン習字のお手本のような字より、変体少女文字のほうが、おしゃれでかわいい。
 中身と包装、内容と形式の二分はむなしいというのが、レトリック派の言い分である。けれども世の中は、言葉やイメージや気持ちだけで動いているわけではない。7農業や製造業の就業者数がへったからといって、非製造業だけで暮らしがなりたつわけではない。かりに日本が完全な非製造業国になったとしても、世界のどこかには農業や製造業がなくてはならない。
 8変体少女文字で書かれた文章も、ペン習字のお手本のような字で書かれた文章も、ワープロでおなじ活字に変換(へんかん)すれば、字体の雰囲気(ふんいき)など問題にならなくなる。「感ずる」と「感じる」とでは、コノテーションはちがうかもしれないけれども、デノテーションはおなじだ。9「感ずる」と書くか、「感じる」と書くかは、たんにレトリックの差にすぎない場合がある。しかも、言葉がもちいられるのは、やはりそのような場合が多いのではないだろうか。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 残念ながら文学でも、内容と形式に二分できるような作品がゴロゴロしている。0逆にいえば、内容と形式に二分できないような作品だけが、一流と呼ばれるのだ。きわめて抽象(ちゅうしょう)的なメディアである言葉は、もっともタチのわるい包装となることがある。
 マス・イメージで連呼される「おいしさ」や「おもしろさ」の中身は、どうなのだろう。クルマのコマーシャルの舞台(ぶたい)となっている外国のように、交通事情はいいのだろうか。空気はきれいなのか。普通(ふつう)にはたらけば、ゆったりした家が買えるほど、土地は安いのだろうか。日本はほんとうに「豊か」なのだろうか。派手で豪華(ごうか)な結婚式(けっこんしき)は、暮らしの貧しさやつまらなさを証明しているのではないだろうか。「豊か」な包装をちょっと破っただけで、中身の貧しさがすぐに見える。貧しいからこそ、必死になって豊かなイメージを追いかけているのかもしれない。
 そのむかし、三木清は「もう分析(ぶんせき)にはあきあきした。それよりいまはレトリックを必要とする時代だ」と言った。だが、現代のシーラカンスは、「……はレトリックにすぎない」という合言葉をつぶやきながら、三木清の言葉をひっくりかえす。もうレトリックにはあきあきした。それよりいまは分析(ぶんせき)を必要とする時代だ。

(丘沢静也()『からだの教養』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 2.4週 wape2
 1考えてみれば、発達成長の段階にある子供が大人より遙()かに活動的であることは当然である。子供が遊ぶ時には体や衣服が汚れる(よご  )のは自然なのだから、汚さ(よご )れても困らない服を着せ、遊びにはつきものの多少の品物の損害やカスリ傷などは、2子供の生育に必然的に伴う(ともな )当然の代償(だいしょう)として一々小言を言わず、社会的な場面や本質的に矯正(きょうせい)を必要とする事柄(ことがら)に限って断乎(だんこ)と叱る(しか )ようにすれば、家の子は言うことをきかなくて困りますというような結果には、まずならないものである。3それをビラビラした飾り(かざ )のついた活動に不便な高価な服を着せ、ちょっと汚し(よご )たと言っては叱り(しか )、跳ね(は )回ると危ないからよせと言い、物を毀せ(こわ )ば、もう買ってあげませんよと威す(おど )といた具合に、禁止と規制の範囲(はんい)をやたらと拡げてしまう結果、4子供としては叱ら(しか )れることなど気にしていたら生きて行かれなくなる状態に置かれるから、親の小言はひとまず無視する癖(くせ)がつくことになる。つまり、禁止の範囲(はんい)が不条理を含み(ふく )、本質的に山かけ的であるため、制止された場合はひとまずそれを無視して行動を続けるのが得策というパターンが身につくのである。
 5このようにことばを使う方が、言ったことを本当に守らせるだけの見通しも裏付けもなく使うことの結果として、言語とその背後にある意志の間に大きなズレが生じ、ことばに対する信頼(しんらい)が失われ、ことばが無力化するのである。
 6私の見るところでは日本人の日常のことばに対するこのような態度が法律や規制の面で一番よく表れているのが、道路交通法に基づく禁止条項(じょうこう)に対する一般人(いっぱんじん)の反応である。数限りなくある禁止の形骸(けいがい)化の実例から唯(ただ)一つだけ駐車(ちゅうしゃ)禁止の問題を取り上げて見よう。
 7例えば現在の東京では、環状(かんじょう)七号線の内側は特定する場所を除いて、一般(いっぱん)道路は全面駐車(ちゅうしゃ)禁止の対策がとられている。ところが誰(だれ)もが知っているように、交番や警察署の目の前ですら、見渡す(みわた )限り違反(いはん)駐車(ちゅうしゃ)の列である。8文字通り法律の規定通りに違反(いはん)駐車(ちゅうしゃ)をしている車を、本当に違反(いはん)駐車(ちゅうしゃ)として判断し、処置するまでに
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

は、いわく言い難きいく段階かのプロセスがあるのは誰(だれ)でも知っている事実である。9つまり駐車(ちゅうしゃ)禁止の標識とは母親が単に「いけませんよ」と言っている段階に相当するのであって、それは直ちに実力の裏付けと組み合わされているものではないのである。しかしだからと言っていつでも無視してよいものではないことも誰(だれ)でも知っている。0本当に叱ら(しか )れた子供と同じく、罰金(ばっきん)をとられる運転者も、不条理性とか運が悪いといった気持で自己の違反(いはん)を受けとめるのであって、悪いことをしたのだから止むを得ないという割り切った気持にはなれないしくみになっているのだ。
 法のカバーする範囲(はんい)を極端(きょくたん)に広くしておいて、懲罰(ちょうばつ)と反則行為(こうい)との直接的対応を弱めてしまうことは、法の威信(いしん)の低下、禁止など無数の標識に対する無感覚の助長など無数のマイナスが指摘(してき)出来よう。標識関係の経費が全国では莫大(ばくだい)な金額にのぼっていることも忘れてはなるまい。むしろ絶対にゆずれない局限された場所と時間に禁止を限り、取締り(とりしま )の能力と連動した規制を行うという発想の転換(てんかん)が必要ではないだろうか。そのためには、私たち日本人がもっと、投入するコストと実効との関係、山かけ発想の危険性に今より敏感(びんかん)になり、明示的一義的に解釈(かいしゃく)可能な領域に於()ては行為(こうい)の意図よりも結果で物ごとを決定するような態度を育成する必要があるように思う。ニューヨーク州でマリファナ使用を合法と認めるかの議論があった時、強力な賛成意見の一つに現在の警察力では取締り(とりしま )切れないからというのがあったが、これなど違反(いはん)行為(こうい)と懲罰(ちょうばつ)の直結性を重く見る考え方の一例として参考になるのではないだろうか。

(鈴木(すずき)孝夫『ひとにはどれだけの物が必要か』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 3.1週 wape2
 1写真が物語化する装置だということは、肖像(しょうぞう)写真やスナップ写真のばあいでもいえる。かつてひとは自分というもののイメージを、内面の記憶(きおく)と鏡に映ったイメージとから得ていた。2ところで、そもそも自分とはなにものかというアイデンティティーにかかわる自己像もまた、それ自体始まりも終わりももたない意識の持続のなかに把持(はじ)されたそのつどバラバラの記憶(きおく)を、ひとつの全体性へと統合することで得られたイメージであり、3つまりは記憶(きおく)の物語である。記憶(きおく)の物語においてはじめて「わたし」は、他の登場人物から区別された主人公として、そのくっきりとした輪郭(りんかく)をあらわす。
 4写真発明以前に、ひとが記憶(きおく)にない幼年時代の自分のイメージをもつことはなかった。こんにちひとは自分というものを、記憶(きおく)にはない幼年期の自分をもふくめて、アルバムに残された多様なイメージの総体として理解している。5とすれば、肖像(しょうぞう)写真やスナップ写真を介し(かい )てひとは、あたらしい自己了解(りょうかい)の様式、あたらしい自己像の物語をもつことになったのである。
 写真が可能にする「わたし」の記憶(きおく)によらない自己像は、いわば外から、他人の目から見た「わたし」の物語である。6自分の写真が匿名(とくめい)の視線にさらされるとき、それは知らぬところで知らぬひとによって、「わたし」のもうひとつの物語が語られるという危険を、それゆえアイデンティティーの危機をもたらすだろう。
 7写真を介し(かい )て、他者による物語が押しつけ(お   )られるという状況(じょうきょう)は、まずは肖像(しょうぞう)写真とは似て非なるもの、つまり顔写真という、写真がつくりだしたあたらしいジャンルにおいてあらわになる。そこに刻印された囚人(しゅうじん)や病人や貧民たちは、もっぱら告発され、追跡(ついせき)され、監視(かんし)されるものとしてのイメージをみずからに引き受けて生きるほかはない。8ポルノ写真のモデルたちも、これを見る匿名(とくめい)の「男」がそこに投影(とうえい)する欲望のファンタジーを、みずからのジェンダーの物語として受けいれる。報道写真においても、飢饉(ききん)や戦争にあえぐひとびとは、これらの写真をお茶の間で見るものに
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

は、ジャーナリズムの標榜(ひょうぼう)するヒューマニズムの物語の登場人物として受けとられるだろう。
 9現代では、肖像(しょうぞう)写真と顔写真との境界はきわめてあいまいなものとなっている。学生証、パスポート、運転免許(めんきょ)証、身分証明書はもとより、卒業写真アルバムにならべられたクラスメートの写真や新聞でいつも目にする政治家たちの写真にしても、完全に顔写真のフォーマットにおさまっている。0思い出のスナップ写真も、トリミングによって容易に手配写真に転じる。
 最近では、女子高生たちが友達どうし、インスタント・カメラでわけもなく写真を撮り(と )あうことがはやり、また「プリクラ」で撮っ(と )た写真を街中にはったり、見知らぬひとと交換(こうかん)することが流行している。いずれも、おたがいに直接にむきあうことのない希薄(きはく)な人間関係と、おおむね満たされてとりたてていうことのない日常のなかで、写真を撮る(と )ことによってこれをなんとかくっきりとしたひとつのできごととしてとらえようとし、あるいはイメージの交換(こうかん)・流通によって、ようやく他人とのコミュニケーションを確保しようとしているというべきだろう。そしてこれらの「物語ゲーム」もまた、現代における肖像(しょうぞう)写真と顔写真のあいだの視線の揺れ(ゆ )を反映しているだろう。

(西村清和の文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 3.2週 wape2
 1岡(おか)潔先生のお考えはこうである――私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。2蕉()門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒(じょうちょ))であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に徹(てっ)しさせる無差別智(ち)である。この知恵(ちえ)が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
 3トインビー博士のご意見はこうである――人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。4個人の生涯(しょうがい)であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理(りんり)的努力を人間がおこたったことから出発している。そして、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語の宗教religionということばの語源は、結びつけるという意味である。
 5岡(おか)潔先生とトインビー博士の表現の違い(ちが )は、培わ(つちか )れた精神的風土の違い(ちが )によるのであって、願う心は同じである。私は、岡(おか)潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
 6しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚(ひふ)の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげ(ほ   )て、文句なく理屈(りくつ)ぬきで、相手を認めることができる足場を探さねばならない。7幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
 それはいのちの座である脳幹・脊髄(せきずい)系である。脳幹・脊髄(せきずい)系は、人種の違い(ちが )、民族の違い(ちが )、ことばの違い(ちが )、イデオロギーの違い(ちが )、風習の違い(ちが )、皮膚(ひふ)の色の違い(ちが )など、8精神的、肉体的のすべての違い(ちが )を超越(ちょうえつ)して、ただ黙々と(もくもく )私たちの身体の健康を保障してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄(せきずい)系には、全く色がついていない。
 私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着(しゅうちゃく)をもっている。9そんなに執着(しゅうちゃく)の心があるのなら、全く個
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

性のない、共通の構造と働きをもっている他人の脳幹・脊髄(せきずい)系なら、無条件に認めることができ、そこに営まれるいのちだけは、理屈(りくつ)ぬきで愛惜(あいせき)することができるのではなかろうか。
 0私たち人間の死とは、個性をもった人格者の消滅(しょうめつ)であることには異論はなかろう。そうであるなら、前頭連合野のすばらしく発達している新皮質系の機能の喪失(そうしつ)したときが、人間の死といえよう。しかし、私たち日本人は、西洋諸国の人々と違っ(ちが )て、脳幹・脊髄(せきずい)系だけで生きている「植物人間」に対しても、あらゆる努力を払っ(はら )て生きながらえさせようとしている。「植物人間」から、移植用の心臓を切りだすことを許さない私たち日本人の心情、すなわち、生に対して限りなく「思いをかけ」、「思いをのこす」心根は、脳幹・脊髄(せきずい)系のいのちをお互い( たが )に認めあうという発想にたって、はじめて納得できるのではなかろうか。
 とかく空虚(くうきょ)な響き(ひび )として耳をかすめがちな「生命の尊重」ということば――その意味をここまで掘りさげ(ほ   )、心の奥深く(おくふか )定着させ、それによって、日々の行動を規制してゆきたいものである。複雑に絡み(から )あう集団と個の対立、個と個の対決によって、ますます非合理的存在者として生きてゆかねばならないよう運命づけられている私たち人間は、「生命の尊重」の決意によってのみ、将来の人類の繁栄(はんえい)が期待できるのではないかと、私には思えてならない。
 これについて思いだされることは、先年亡くなったアフリカの聖者アルベルト・シュバイツァー博士の説く、「生への畏敬(いけい)」の精神であって、私の願いは、「われわれは、生きんとする生命にとりまかれた、生きんとする生命である。」という博士のきびしいことばに凝集(ぎょうしゅう)している。
 そして、シュバイツァー博士のこの精神は、ダグ・ハマショールドの日記につづられた次のことばによって、よりいっそう高揚(こうよう)されている。
 「われわれの生きようとする意思は、生が自分のものかひとのものかを意に介(かい)せずに生きてゆこうと思うようになって、はじめて確固たるものになる。」 (時実利彦(としひこ)「人間であること」岩波新書)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 3.3週 wape2
 1多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられている筈(はず)なのだから。
 2したがって、重い病人を入院させるのは当然の行為(こうい)であり、これを非難する謂れ(いわ )は全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを見詰める(みつ  )直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という哀しい(かな  )安心感が蠢い(うごめ )てはいないだろうか。3眼を逸らせ(そ  )た、というつもりはない。しかし、薄く(うす )眼を閉じて視野を狭める(せば  )ほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、畳(たたみ)の上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで繋っ(かか )ているような重い気分が振り払え(ふ はら )ない。
 4もちろん、畳(たたみ)の上で死ねさえすればいいのではない。畳(たたみ)の上での死の実現には、病院で迎える(むか  )死の場合とは比較(ひかく)にならぬほどの苦しみが、病人とその家族に襲いかかる(おそ    )可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は僅か(わず )に救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。5その経緯(けいい)を誰(だれ)も責められはしない。
 考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を尽くし(つ  )てそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に抑える(おさ  )配慮(はいりょ)は医療(いりょう)面でも払わ(はら )れているのだろう。6そしてその種の手当てが自宅では充分(じゅうぶん)に行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの排除(はいじょ)と、苦しむ者を見詰め(みつ )続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの回避(かいひ)とが結びつき、人は畳(たたみ)の上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
 7別の見方をすれば、畳(たたみ)の上で死ぬことには自他ともに凄(すさま)じいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

避けよ(さ  )うとする正当な努力が、しかし苦しみを直視し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から奪い(うば )去る傾向(けいこう)を助長しつつある。
 8その問題は、他の場所にも様々な形で顔をのぞかせているのではあるまいか。たとえば、子供の読む童話や民話の本から、残酷(ざんこく)な光景や死に関る部分が取り除かれたり、隠さ(かく )れたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を奪う(うば )結果となるだろう。9小・中学校(しょうちゅうがっこう)の国語の教科書編纂(へんさん)に際し、動物の死を含む(ふく )ような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の選択(せんたく)に苦労する、との話も聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予防処置の一つといえるかもしれぬ。0少しずつでも苦痛に触れ(ふ )させて慣らすことを考えるのではなく、その種の課題を最初から排除(はいじょ)してしまう。子供や生徒が嫌っ(きら )たり拒ん(こば )だりするからというより、教える側の大人が怯む(ひる )のではないか。苦しみを教える苦しみからの逃避(とうひ)の姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当違い(ちが )であろうか。
 世の中全体が、苦しみから身を躱()(かわ)す術に長けて来た。見なければそこには存在しない、という信仰(しんこう)が広まりつつある。そして事実を置き去りにしたかかる信仰(しんこう)を支える装置とでもいったものが、大きな規模で生み出されて来た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福とか、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指している。つまり、信仰(しんこう)にはそれなりの正当性と物的保証がある。
 そして、人は苦しみの消滅(しょうめつ)に出会う。畳(たたみ)の上で死ぬことを望むのは、最早どこから見ても時代遅れ(じだいおく )なのである。今やわれわれは、ろくに畳(たたみ)の上で生きてもいないのだから――。

(黒井(くろい)千次『老いの時間の密度』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 3.4週 wape2
 1地のままの金から鋳造(ちゅうぞう)された金貨へ、軽くなった金貨から兌換(だかん)を保証されている紙幣(しへい)へ、兌換(だかん)保証を失った紙幣(しへい)からエレクトロニック・マネーへと変遷(へんせん)していく貨幣(かへい)の系譜(けいふ)――2それは、まさに、「本物」の貨幣(かへい)のたんなる「代わり」がその「本物」の貨幣(かへい)になり代わってそれ自体で「本物」の貨幣(かへい)となってしまうという「奇跡(きせき)」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような系譜(けいふ)をそのまま順を追ってなぞってはくれない。3飛び越し(と こ )もあるだろうし、後戻り(あともど )もある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の貨幣(かへい)とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の貨幣(かへい)の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。4そして、このような「奇跡(きせき)」のくりかえしをとおして、貨幣(かへい)の貨幣(かへい)としての価値とモノとしての価値のあいだの乖離(かいり)が拡大していく傾向(けいこう)をもつ。
 今度は、逆に、貨幣(かへい)の系譜(けいふ)を現在から過去へとさかのぼってみよう。5エレクトロニック・マネーから紙幣(しへい)、紙幣(しへい)から金貨、金貨から……と順繰り(じゅんぐ )にたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、金塊(きんかい)や砂金がこの世の最初の貨幣(かへい)であったわけではないだろう。6燦然(さんぜん)とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の貨幣(かへい)の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始貨幣(かへい)にかんする書物をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、鉛(なまり)、7黒曜石、石の円版、ガラス玉、陶片(とうへん)、指輪、塩、矢、刀、斧(おの)、鉄砲(てっぽう)、木材、樹皮、小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム芋(いも)、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、太鼓(たいこ)、毛布、麻布(あさぬの)、綿布、絹布、羽毛、毛皮、8皮革、牛、羊、水牛、豚(ぶた)、トナカイ、干し魚、バター、子
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

安貝、法螺貝(ほらがい)、カタツムリ貝、鯨(くじら)の歯、犬の歯、豚(ぶた)の歯、蜜蝋(みつろう)、そして人間のドレイといったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣(かへい)として流通していたことが書かれている。9そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣(かへい)が貨幣(かへい)であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での耐久(たいきゅう)性さえもっていれば、どのようなモノでも貨幣(かへい)として使われてきたのである。0だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、貨幣(かへい)がこの世にはじめて貨幣(かへい)として登場したその瞬間(しゅんかん)に、それはモノとしての価値を上回る貨幣(かへい)としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、貨幣(かへい)としての貨幣(かへい)とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての貨幣(かへい)とは貨幣(かへい)としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の貨幣(かへい)、いや本モノの貨幣(かへい)という言葉は、自家撞着(じかどうちゃく)以外のなにものでもない。
 貨幣(かへい)の系譜(けいふ)をさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣(かへい)の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣(かへい)になってしまうという「奇跡(きせき)」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その端緒(たんしょ)にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣(かへい)へと跳躍(ちょうやく)しているさらに大きな断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣(かへい)で「ない」ものの「代わり」が貨幣(かへい)で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。貨幣(かへい)とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。

(岩井克人()『貨幣(かへい)論』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534