1情報公開という言葉が近年しばしば言われるようになってきた。政府のもつ情報資料の公開、あるいは政府の審議会や委員会の議事内容の公開が積極的にインターネット上におこなわれるようになって、多くの活動内容が一般社会の人たちにも理解されるようになってきつつある。2二〇〇一年四月には、情報公開法が施行されることになり、個人のプライバシーにかかわらない、かなりの範囲の国の情報が、請求によって開示されることになった。
それでも、すべてのことが公開され、十分な監視とチェックの下におかれることはできず、いろいろと思わぬ事故をおこしてきた。3情報の公開とともに、どうすれば第三者的立場から十分なチェックをして、安全性を確保していけるかは、これからの大きな課題である。科学ジャーナリズムにおいても、よく検討すべき問題であろう。4たとえば原子力のような複雑なものは、科学ジャーナリズムなどが適切に橋わたしをしなければ、一般の人たちには、客観的な立場からのものの見方をすることは、たいへんむずかしいのである。
あることがらに対する科学的説明は論理的で、その範囲内においては反論の余地のないものであることがほとんどである。5しかし、それでも社会の多くの人々を納得させることのできない場合があるのはなぜか、を考えることが必要だろう。
それにはいろいろな理由があるだろう。一つは、その科学的説明の前提となっていることが、ほんとうに確信のもてることなのかどうかということである。6もう一つは、論理的、科学的説明といっても、説明に用いられる推論規則は絶対確実なものではない。九九・九九九%まちがいないといわれても、〇・〇〇一%の確率でおこる可能性があるとすれば、それに対する心配がある。また理論がまったく予想しない条件が生じないともかぎらないという心配もある。7原子力発電所の建設などに対する反対は、そういうところから生じていると考えられる。
もう一つのタイプの心配は、体外受精の適用範囲の拡大、脳死判定と臓器移植などにおける人間の倫理観や文化に深く関係する問題である。8この種の問題については、科学的内容の説明が、人間感情というまったく次元のちがう要素に対して効力を発揮することを期待することはできず、人々を納得させることはむずかしい。
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