1「寄物」という言葉を覚えたのは柳田国男の『海上の道』を読むことによってであった。はるか沖から吹ききたる風に名前を与える身振りから始まるあの美しい幻想小説。2「アユは後世のアイノカゼも同様に、海岸に向かってまともに吹いてくる風、すなわち数々の渡海の船を安らかに港入りさせ、または、くさぐさの珍らかなる物を、渚に向かって吹き寄せる風のことであった」。3そうした風に乗ってわれわれの国に訪れる「くさぐさの珍らかなる物」、それが「寄物」だ。そして、その代表として柳田がまず第一に挙げたものは、周知の通り、三河の伊良湖崎の浜に打ち寄せられていたのを彼が目撃したというあの神話的な椰子の実であった。
4島崎藤村はこの柳田の見聞を材に採り、ただちに人口に膾炙することになったあの俗謡の歌詞を作ったわけだが、『海上の道』の著者は島崎藤村の「椰子の実」に対してやや不満げな感想を洩らしている。5「そを取りて胸に当つれば/新たなり流離の愁い/という章句などは、もとより私の挙動でも感嘆でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句をみても、或いは、詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいとおもわれたのかもしれないが……(後略)」。6晴れやかな朝陽の中で珍しい「寄物」を発見するのは柳田にとって喜ばしい出会い以外のものではなく、「流離の愁い」も寂しい日没も「詩人」の汚れた筆が捏造した受け狙いの感傷にすぎない。7「千曲川旅情の歌」にしてもそうだが、既成の欲情に媚びることを恬として恥じない自称「詩人」の輩は今も昔も尽きることがない。
「海上の道」において、柳田の想像力が透視しているのは、「日本人」もまたこうした幸運のアイノカゼに吹き寄せられてきた「寄物」そのものだという独創的な命題である。8「もしも漂着をもって最初の交通と見ることが許されるならば、日本人の故郷はそう
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