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 私はある時から、英文で論文を書くことをやめた。日本語で考え、日本語で暮らしている。そういう人間が英語で論文を書くとは、いったいそれはどういう作業か。それが論理的に理解できなかったからである。そのために、理科系の人間としては、業界から「干された」というしかない。
 『最後の授業』という物語を引くまでもない。日本の知的な世界は、日本社会の他のシステムと同様に、あらゆる根拠こんきょを失ったままに、さまざまなやり方を便宜べんぎ的に採用してきた。そうだからといって、闇雲やみくもに古い習慣に固執こしつすればいいというものでもない。われわれは、われわれに発する普遍ふへん性を説かなくてはならないのである。その基盤きばん明瞭めいりょうであろう。「人間」である。たとえば、言語を一般いっぱん的にヒトが持つ特質と見なせば、そこには明白な普遍ふへん性が認められる。国語・国文学を、そこに基礎きそづける。その作業は、脳生理学者に任せておけばいいというものではあるまい。小説家であろうと、車には乗るはずである。テレビも見れば、映画も鑑賞かんしょうするであろう。それなら国語の脳機能としての特質を考えて、なんの不思議もあるまい。
 日本語の脳の関係については、やはりすでに『考えるヒト』で述べたことがある。たとえば日本における漫画まんがの流行は、音訓読みという日本語の特性と切り離すき はな ことはできない。この場合、漫画まんがはアイコンであり、アイコンは古い形式の漢字と同じものである。アイコンとは、「もとのものの性質を一つでも残した」記号だからである。このアイコンにルビを振るふ 。そのルビが漫画まんがでは吹き出しふ だ に相当する。こうしたことを外国人に説明するのは至難である。かれらはそもそも音訓読みが理解できないからである。
 中国語が孤立こりつ語であったため、日本語はその文字を取り入れ、しかも音訓の両読みを開発することができた。それなら朝鮮ちょうせん語はなぜそれをしなかったか。そこに言語の歴史性がある。ヴェトナム語は訓読みを発明したかもしれないが、アルファベット表記に変わってすでに半世紀以上が過ぎてしまった。その意味でいうなら、日本語は世界でもきわめて特異なことばなのである。国語の先生は、そのことを理解し、生徒にそれを教えているだろうか。
 あるいは日本語は「読み」のために脳の二ヵ所かしょを利用する。
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ういうことばは、おそらくほかにない。だからこそ寺子屋では「読み書きソロバン」だったのである。プラトンを読めば、古代ギリシャでソフィストたちが教えたのは「弁論術」だとわかる。日本語はおしゃべりを教えてお金を取ることはしない。「読み書き」を教えるのである。だからこそまた、日本では文盲もんもう率がきわめて低い。日本語は視覚言語性が高いのである。
 日本語文法の形式もまた、十分には理解されていないらしい。日本語に定冠詞ていかんしはないというのは、英文法の授業でさんざん教わることである。それなら、「昔々おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山にしば刈りが に」という文章における、助詞「が」と「は」の使い分けはなんなのか。定冠詞ていかんしは語の前に来る。そういう形式的反論があるなら、ギリシャ語では定冠詞ていかんしの位置は語の前でも後でもいいといおう。文法は形式でもあり、機能でもある。助詞には冠詞かんし機能が認められるといってもよいであろう。
 脳から見た国語には、さまざまな主題が見つかりそうである。それを探求するのは、国語の専門家であって、いっこうにおかしくない。対象を限定することで「専門家」を育て、対象の分類によって学問を分類する時代は終わったと私は思う。学問とは方法である。国語を知るためには、いかなる方法を利用してもいいのである。情報化時代とは、じつはそれを意味している。

(養老孟司たけし「国語と脳」より)
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