a 長文 2.2週 wape2
 大きな災害の直後の映像を思い返してみると、被災ひさい地にいた人たちの表情は(一部、茫然ぼうぜん自失状態の人を除いて)、いきいきとしていた。彼らかれ の表情は数日のうちに疲弊ひへいして生気のないものに変わっていったけれど、直後はいきいきとしていた。あのときのいきいきとした状態を、私は「生きがい」や「充実じゅうじつ感」と同じものだと考える。というよりもむしろ、「生きがい」や「充実じゅうじつ感」の典型的な状態だと考える。「充実じゅうじつ」という心の状態は、危機に直面したときに最も強く起こるものなのだ。
 スポーツやゲームで味わう「充実じゅうじつ感」は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整した(つまり「緩和かんわした」)ものだと私は思う。この、危機に直面したときの心の状態は夢の中で感じる心の状態と同じものだ。比喩ひゆ的な意味で同じだというのではなくて、事実として同じということだ。私たちは危機に直面したときも夢の中でも、「結果」なんか考える余裕よゆうもないまま、ひたすら「プロセス」に没頭ぼっとうする。――リアリティということで言うなら、二つの場面で同じリアリティを感じている。
 神話が夢と同じように表面的には荒唐無稽こうとうむけいで、しかしその意味する内実を夢と同じように分析ぶんせきすることが可能である理由は、神話が夢に起源を持つからなのだが、スポーツやゲームの起源もまた夢なのだと私は思う。夢には必ず強い拘束こうそく感がある。その拘束こうそく感がスポーツやゲームで「ルール」に変形した。人間は自由であることばかりが楽しいわけではなくて、ルールという拘束こうそくの中で何かを達成することの方がずっと「充実じゅうじつ」することができる。神話は夢の解消や昇華しょうかではなくて、もっとずっと生な、夢の反復だ。スポーツやゲームもまた、覚醒かくせい時になされる夢の反復なのだ。
 フロイトは夢(夢で反復される無意識)を、現実の中で把握はあくしそびれた体験という観点から、体験を正しく定着させることで、現実の中に解消しようとしたけれど、人が夢を見るかぎり、夢は現実の中で起こる気持ちの原型として機能しつづける。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 また、分析ぶんせきによって、過去の体験を把握はあくし直して過去に拘束こうそくされた夢を見なくなったとしても、人は生きているかぎり新しい体験を重ね、それが夢として反復される、という構造の外に出ることはできない。
 それにしても夢というのは、考えなければどうと言うことのないものだけれど、考えはじめるとキリがなく面白く感じられるという独特の性質を持っている。「外がない」と言えばいいのか、現実と夢との「入れ子構造になっている」と言えばいいのか、「ぬまのようだ」と言えばいいのか……。私はさっき、「スポーツやゲームで味わう『充実じゅうじつ感』は、危機に直面したときに起こる心の状態を、不快と感じる手前のところに調整したものだ。この、危機に直面したときの心の状態は、夢の中で感じる心の状態と同じものだ」と書いたけれど、ここまできて私は、「危機に直面したときの心の状態」さえも、「夢の中で感じる心の状態」に起源を持つものなのではないか、と感じはじめている。
 つまり、大人になってもなお真剣しんけんになることができるようなこととは、すべて夢の中で感じる心の状態が源泉として働いているのではないか、ということであり、人間にとってのリアリティの源泉とはすべて夢にあるのではないか、ということだ。リアリティという点から考えると、夢こそが「主」であって、現実はすべてが夢に従属している、ということになるのではないだろうか。

(保坂和志『世界を肯定こうていする哲学てつがく』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534