1人間は、合理的にものを考える動物であると同時に、非合理な感情をそなえた動物でもある。言葉の意味にも、明示的な意味(デノテーション)と、含意的な意味(コノテーション)がある。2「感ずる」と「感じる」とでは、デノテーションはおなじだが、前者にはカミシモを着たような雰囲気があり、後者にはふだん着の雰囲気があって、コノテーションはずいぶんちがう。乱暴にいえばレトリックとはデノテーションではなくコノテーションに注目する姿勢のことである。
3シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)は一枚のコインの裏と表のようなもので、切りはなすことはできない。だから言葉では、贈りものの中身と包装のようには、内容と表現を切りはなすことができない。4言葉は陰に陽にいつもレトリックをひきずっているわけで、レトリックが市民権をえた今日、――とくに、言葉をなりわいにする人たちのあいだでは――内容と表現を区別することは、時代遅れもはなはだしい態度であり、「……はたんなるレトリックにすぎない」という発言などは、シーラカンスの合言葉とみなされる。
5「豊か」な消費社会では、サービスや気持ちが重視され、おしゃれであることが重要なポイントになる。おしゃれでないことは、「貧しさ」を連想させるからだ。コノテーションがデノテーションを圧倒する現象がふえてきた。6ペン習字のお手本のような字より、変体少女文字のほうが、おしゃれでかわいい。
中身と包装、内容と形式の二分はむなしいというのが、レトリック派の言い分である。けれども世の中は、言葉やイメージや気持ちだけで動いているわけではない。7農業や製造業の就業者数がへったからといって、非製造業だけで暮らしがなりたつわけではない。かりに日本が完全な非製造業国になったとしても、世界のどこかには農業や製造業がなくてはならない。
8変体少女文字で書かれた文章も、ペン習字のお手本のような字で書かれた文章も、ワープロでおなじ活字に変換すれば、字体の雰囲気など問題にならなくなる。「感ずる」と「感じる」とでは、コノテーションはちがうかもしれないけれども、デノテーションはおなじだ。9「感ずる」と書くか、「感じる」と書くかは、たんにレトリックの差にすぎない場合がある。しかも、言葉がもちいられるのは、やはりそのような場合が多いのではないだろうか。
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