1岡潔先生のお考えはこうである――私たち日本民族には、人の喜びを自分の喜びとして、人の悲しみを自分の悲しみとして体得することができる心情があるという。2蕉門の物のあわれを感ずる心、思いやりの心、情(情緒)であって、仏教でいう、自他の対立のない非自非他の心境(真我、大我)に徹しさせる無差別智である。この知恵が、私たち日本民族をかくも栄えさせているのだといわれる。
3トインビー博士のご意見はこうである――人間にとって、物質的な面よりも重要なのは、自分と他の人びととの間に、忠実な協力の心を作ることである。もともと、これは人間の天性にとって非常にむつかしいことである。4個人の生涯であれ、社会の歴史であれ、人間の悲劇はすべて、この面の倫理的努力を人間がおこたったことから出発している。そして、この協力の心を教え、指導するのは宗教であるといわれる。ちなみに、英語の宗教religionということばの語源は、結びつけるという意味である。
5岡潔先生とトインビー博士の表現の違いは、培われた精神的風土の違いによるのであって、願う心は同じである。私は、岡潔先生やトインビー博士の願う心を受けいれるのに決してやぶさかではないどころか、私の心はそれにいたく共鳴している。
6しかし、そうはいっても、あの顔つきはいやだ、あの皮膚の色は好かない、あの主義主張は気にくわないといわれてしまえばそれまでである。そうなると、私たちは、もっと掘りさげて、文句なく理屈ぬきで、相手を認めることができる足場を探さねばならない。7幸いにも、その足場を、私は、脳の仕組みのなかに求めることができたと信じている。
それはいのちの座である脳幹・脊髄系である。脳幹・脊髄系は、人種の違い、民族の違い、ことばの違い、イデオロギーの違い、風習の違い、皮膚の色の違いなど、8精神的、肉体的のすべての違いを超越して、ただ黙々と私たちの身体の健康を保障してくれているいのちの座である。脳幹・脊髄系には、全く色がついていない。
私たちは、前頭連合野の働きによって、自分のいのちに限りない執着をもっている。9そんなに執着の心があるのなら、全く個
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