1多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられている筈なのだから。
2したがって、重い病人を入院させるのは当然の行為であり、これを非難する謂れは全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを見詰める直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という哀しい安心感が蠢いてはいないだろうか。3眼を逸らせた、というつもりはない。しかし、薄く眼を閉じて視野を狭めるほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、畳の上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで繋っているような重い気分が振り払えない。
4もちろん、畳の上で死ねさえすればいいのではない。畳の上での死の実現には、病院で迎える死の場合とは比較にならぬほどの苦しみが、病人とその家族に襲いかかる可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は僅かに救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。5その経緯を誰も責められはしない。
考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を尽くしてそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に抑える配慮は医療面でも払われているのだろう。6そしてその種の手当てが自宅では充分に行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの排除と、苦しむ者を見詰め続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの回避とが結びつき、人は畳の上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
7別の見方をすれば、畳の上で死ぬことには自他ともに凄じいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを
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