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 多くの場合、病人を病院に送りこめば、とりあえず家族は一安心出来る。少なくともそこは、自宅とは比べようもないほど人的、物的な条件が整い、病人に必要な手当ての態勢が整えられているはずなのだから。
 したがって、重い病人を入院させるのは当然の行為こういであり、これを非難する謂れいわ は全くない。しかし一方、本人を病院の手に委ねた時、周囲の者がほっと一息つける心の底のどこかには、自分が苦しみを見詰めるみつ  直接の責任者の立場から半歩退くことが出来た、という哀しいかな  安心感が蠢いうごめ てはいないだろうか。眼を逸らせそ  た、というつもりはない。しかし、薄くうす 眼を閉じて視野を狭めるせば  ほどのことはしたのではないか。そしてこの止むを得ざる心の動きが、たたみの上で人の死ねなくなったという事態に、どこかで繋っかか ているような重い気分が振り払えふ はら ない。
 もちろん、たたみの上で死ねさえすればいいのではない。たたみの上での死の実現には、病院で迎えるむか  死の場合とは比較ひかくにならぬほどの苦しみが、病人とその家族に襲いかかるおそ    可能性が強い。だからこそ、老いた病者を病院に送り入れた時、家族は僅かわず に救われ、なにがしかの苦しみの軽減を手に入れる。その経緯けいいだれも責められはしない。
 考えてみれば世の中は、苦しみを少しでも軽いものとし、手を尽くしつ  てそれを弱める方向へと動いているようである。最期の近い病人に対しては、苦痛を取り除くことまでは無理としても、それを最小限に抑えるおさ  配慮はいりょ医療いりょう面でも払わはら れているのだろう。そしてその種の手当てが自宅では充分じゅうぶんに行えぬとしたら、病者は病院に入れられねばならない。この直接的な苦しみの排除はいじょと、苦しむ者を見詰めみつ 続けねばならぬ、いわば間接的な苦しみの回避かいひとが結びつき、人はたたみの上で死ぬ力を失ってしまったのではないだろうか。
 別の見方をすれば、たたみの上で死ぬことには自他ともに(すさまじいエネルギーが必要だったのだ。そして苦しみを遠ざけ、それを
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避けよさ  うとする正当な努力が、しかし苦しみを直視し、苦しみに向き合う力を、いつか人間から奪いうば 去る傾向けいこうを助長しつつある。
 その問題は、他の場所にも様々な形で顔をのぞかせているのではあるまいか。たとえば、子供の読む童話や民話の本から、残酷ざんこくな光景や死に関る部分が取り除かれたり、隠さかく れたりするのだとしたら、これは幼い心から予め苦しみを遠ざけることによって、苦しみとつき合う機会を奪ううば 結果となるだろう。小・中学校しょうちゅうがっこうの国語の教科書編纂へんさんに際し、動物の死を含むふく ような暗い内容の文章を採用しにくいため、教材の選択せんたくに苦労する、との話も聞く。これなども、苦しみや痛みに対する予防処置の一つといえるかもしれぬ。少しずつでも苦痛に触れふ させて慣らすことを考えるのではなく、その種の課題を最初から排除はいじょしてしまう。子供や生徒が嫌っきら たり拒んこば だりするからというより、教える側の大人が怯むひる のではないか。苦しみを教える苦しみからの逃避とうひの姿勢がそこに見られる、と考えるのは見当違いちが であろうか。
 世の中全体が、苦しみから身を(かわ)す術に長けて来た。見なければそこには存在しない、という信仰しんこうが広まりつつある。そして事実を置き去りにしたかかる信仰しんこうを支える装置とでもいったものが、大きな規模で生み出されて来た。その装置や仕組みのいずれもが、幸福とか、安心とか、平和とか、休らぎとかを目指している。つまり、信仰しんこうにはそれなりの正当性と物的保証がある。
 そして、人は苦しみの消滅しょうめつに出会う。たたみの上で死ぬことを望むのは、最早どこから見ても時代遅れじだいおく なのである。今やわれわれは、ろくにたたみの上で生きてもいないのだから――。

黒井くろい千次『老いの時間の密度』)
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