a 長文 10.1週 wapu
 「努力すれば報われる」と、私たちは教わって育ってきた。しかし、子供の学力と親の収入が相関しているなどという調査を見ると、努力する以前にスタートの地点が違っちが ているというケースも、世の中にはかなりあるのではないかと思えてくる。もし、そういう歪みゆが が社会にあるとすれば、それは世代を経るごとに再生産され、やがて生まれつき銀のスプーンをくわえた恵まれめぐ  た少数のグループと、単に指をくわえただけの多数のグループとに、社会ははっきりと色分けされるようになるだろう。私たちは、機会における均等を保証する社会を作らなければならない。
 そのための方法は、第一に、競争の条件をそのつど新たに決め直す仕組みを作ることだ。自由競争という言葉は響きひび がいいが、自由な競争はやがて、力の強いものがますます強く、力の弱いものがますます弱くなるような偏りかたよ を生み出す。そのため、自由競争は往々にして独占どくせんのもとでの不自由な競争となることがある。政治家の世襲せしゅうが日本では問題になっているが、これは、後援こうえん会という地盤じばん引き継ぐひ つ 自由を認めることが、他の候補者の参入を阻むはば 不自由な競争を生み出す結果につながることを示している。
 第二には、機会の均等を求めることが、結果の平等を要求するところにまでつながらないように、私たちが節度を守ることである。企業きぎょう家精神に溢れあふ た少数の人間と、そうでない多数の人間がいて、多数決で物事を決めようとすれば、社会は多数の利益を保障する方向へと流れがちだ。努力や工夫をする人と、努力も工夫もしない人が、同じ給料しかもらえないのであれば、働く基準は自然に低い方に合うようになる。このことは、かつての社会主義国の経済運営や、現代でもお役所仕事という形で既にすで 経験済みだ。
 確かに、安定した社会の条件として、個人の努力を要求する前に、最低限のセーフティーネットというものは必要だ。しかし、それはあくまでも老人や病人などという弱者に対しての安全もうであって、社会の中心はあくまでも自由な競争の上に成り立つものでなければならない。自由競争の中でだれもがチャンスを生かせるようになるためには、個人の意志とともに、社会がチャンスを均等に用意していることが必要だ。「努力すれば報われる」社会もまた、私たちの努力によって作られるのである。
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 (言葉の森長文作成委員会 Σ)
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