1効力感は、ただ自分の努力によって好ましい変化をひきおこすことができた、というだけでは伸びていくものではない。これこそ自分のしたいことだと思える活動や達成を選び、そこでの自己向上が実感されて、はじめて真の効力感は獲得されるからだ。2これに対して親は、いったいどんな手助けができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととは思えない。ホワイトが正しく指摘したように、高等動物は本来、環境に能動的に働きかけ、みずからの有能さを伸ばそうとする傾向をもつ。3管理社会から自由で、また無気力に汚染されていない子どもでは、この傾向はおおいにあてにできるからである。
自然な生活のなかで、子どもはきわめて多くの望ましい特性を発達させていく。4効力感を伸ばすというと、何か特別なことをしなければならないかのように思うかもしれないが、じつは子どもの生活のなかには効力感を伸ばすのにかっこうの題材がたえずころがっているのである。
5熟達を例にとってみよう。熟達をとおして子どもは自分の努力の意味を知り、そしてまた、その努力を自分にとって意味のある分野に向けることを学んでいくだろう。しかし、生活のなかでの熟達は決して訓練という形をとらない。6子どもの側が興味をもって取り組みたがるさまざまな熟達の機会があるのだ。
たとえば、子どもが、「自転車に乗りたい」といいだしたとしよう。親はまず、「三輪車にしなさい」というだろう。7ところが、三輪車でしばらく満足していた子どもが、そのうちどうしても自転車にしたいといいだすようになる。「自転車でないとスピードがでない」「自転車でなければ友だちと一緒に走れない」などということもあるだろう。8しかし、最大の理由は、三輪車は安全すぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。自転車を要求する子どもに押されて、親は転倒することをおそれながらも、補助輪をつけるという条件でしぶしぶこれを認める。9子どもはしばらく補助輪をつけて自転車に乗っているが、そのうちに必ず補助輪をはずせといってくる。その理由は、ただみっともない、ということではない。むしろ、補助輪があったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。0このように、子どもの技能が繰り返しによって進歩していくと、子どもは、いわば、内発的によりむずかしい課
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