a 長文 10.2週 wapu
 効力感は、ただ自分の努力によって好ましい変化をひきおこすことができた、というだけでは伸びの ていくものではない。これこそ自分のしたいことだと思える活動や達成を選び、そこでの自己向上が実感されて、はじめて真の効力感は獲得かくとくされるからだ。これに対して親は、いったいどんな手助けができるだろうか。じつはこれもそんなにむずかしいこととは思えない。ホワイトが正しく指摘してきしたように、高等動物は本来、環境かんきょうに能動的に働きかけ、みずからの有能さを伸ばその  うとする傾向けいこうをもつ。管理社会から自由で、また無気力に汚染おせんされていない子どもでは、この傾向けいこうはおおいにあてにできるからである。
 自然な生活のなかで、子どもはきわめて多くの望ましい特性を発達させていく。効力感を伸ばすの  というと、何か特別なことをしなければならないかのように思うかもしれないが、じつは子どもの生活のなかには効力感を伸ばすの  のにかっこうの題材がたえずころがっているのである。
 熟達を例にとってみよう。熟達をとおして子どもは自分の努力の意味を知り、そしてまた、その努力を自分にとって意味のある分野に向けることを学んでいくだろう。しかし、生活のなかでの熟達は決して訓練という形をとらない。子どもの側が興味をもって取り組みたがるさまざまな熟達の機会があるのだ。
 たとえば、子どもが、「自転車に乗りたい」といいだしたとしよう。親はまず、「三輪車にしなさい」というだろう。ところが、三輪車でしばらく満足していた子どもが、そのうちどうしても自転車にしたいといいだすようになる。「自転車でないとスピードがでない」「自転車でなければ友だちと一緒いっしょに走れない」などということもあるだろう。しかし、最大の理由は、三輪車は安全すぎ、やさしすぎるのでつまらない、ということである。自転車を要求する子どもに押さお れて、親は転倒てんとうすることをおそれながらも、補助輪をつけるという条件でしぶしぶこれを認める。子どもはしばらく補助輪をつけて自転車に乗っているが、そのうちに必ず補助輪をはずせといってくる。その理由は、ただみっともない、ということではない。むしろ、補助輪があったのでは、やさしすぎてつまらない、ということである。このように、子どもの技能が繰り返しく かえ によって進歩していくと、子どもは、いわば、内発的によりむずかしい課
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題に興味をもつようになる。条件さえととのえれば、あとは放っておいても熟達するものだ、とさえいえるかもしれない。気をつけなければならないのは、親がむしろこれにブレーキをかける役をしてしまいがちなことだ。
 もうひとつ重要なのは、子どもの生活のなかには、さまざまな熟達のお手本があるということだ。二本足で歩くといった単純なことでさえ、お手本がなければ、やってみようとする気にもならなかったかもしれない。おおかみに育てられて大きくなった子どもが二本足で歩行しなかった、というのは有名な話である。
 お手本がなかったとしたら、親は子どもに教えること、訓練することで毎日を忙しくいそが  すごさざるをえないだろう。ところが、子どもが自然に暮らしているなかで、彼らかれ はさまざまな熟達のお手本に出会い、そのなかから自分の発達の水準と生活の必要性からいって適切と考えられる課題を、みずから選びとっていくのである。(中略)
 親が注意すべきことといえば、何よりもまず賞罰しょうばつによって子どもの行動をコントロールしすぎないということであろう。もちろん、効力感を伸ばすの  という以外の目的のために、賞罰しょうばつにたよらざるをえない場面があることは確かだ。しかし、そうだからといって、すべてのしつけや教育を賞罰しょうばつにたよって押しお とおそうとすると、効力感を伸ばすの  ことはまず無理になる。できるだけ子どもの探索たんさくや発見を奨励しょうれいし、子どもなりの知識の体系や価値観が形成され、さらにそれが自覚化されていくのを期待するようにすべきだろう。親の関わり方は、子どもが次にやるべきことを指示したり、賞めたり叱っしか たりといった形ではなく、むしろ子どもの活動や自己向上が促進そくしんされるように環境かんきょう条件をととのえてやるとともに、子どもの内部にある知識や価値基準を明瞭めいりょう化し、それが子どもの行動を導くものになるのを助けるという形で行なわれるべきだろう。

 (波多野余夫、稲垣佳世子「無気力の心理学――やりがいの条件」より一部改変)
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